第零話 プロローグ
「フラム、僕から君に大切な役目を与えるよ――」
勇者であるウイエが唐突に口から出した言葉を、俺は理解ができなかった。
女性がうっとりとするような整った声で言ったのだ。
ウイエの口調が丁寧になったのはいつか覚えていないが、おそらく国から勇者としての教育を受けてからだろう。
「大切な役目って、今はそういう事を話している場合じゃないだろう?」
広大な領地を持つ大国――フーペール王国の国境沿いにある隣国とも繋がる広大な森であるノワールフォーレの中を必死になって走りながら告げる。
パーティーメンバーの誰もが、俺と同様に来た道を戻るように逃走している。
現在俺たちは、悠長に話している時間がないほど緊迫した状況だった。
何故なら――龍に襲われているのだ。
龍に襲われた理由としては、きっと運が悪かったのだろう。ワイバーンを討伐するために森に赴いた俺たちのパーティーである【千剣】は、無事に討伐が終わった帰り道に運悪くドラゴンと遭遇して襲われた。
それも出会ったのが、天災と名高い黒いドラゴンだったのだ。
回復薬なども既にない状況なので、リーダーであるウイエがまともに戦っても苦戦するという判断をした結果逃げる事になったのである。
「いいや、こういう時だからこそ必要なんだよ。フラム、僕が君を立派な英雄にしてあげるよ――」
ウイエの衝撃的な言葉に、思わず俺は足が止まりそうになるが、それでも必死にパーティーメンバー全員に足が速くなる【付与魔術】をかけながら言った。
「ちょっと待って、どういう意味? ウイエは何が言いたいの?」
「分からないのかい? 分からないのならいいさ。僕はね、臆病者と言われているフラムの事が非常に可哀想だと思うんだよ!」
確かに俺は【千剣】の中で臆病者だと言われている。
俺自身が矢面に立って戦うことはなく、仲間の影に隠れてばかりいるからだ。
だが、それにも理由がある。
俺の職業は付与術師だ。支援魔法に特化した職業であり、このパーティーではリーダーであるウイエが望むように戦闘のサポートに専念している。だから前線に立って仲間の邪魔をするよりも、仲間の補助と言う自分の仕事を最大限に行うために一番後ろにいるのだ。
自分で言うのも恥ずかしいが、付与術師としての仕事は果たしてきたつもりだ。
今だって、逃げる仲間の為に足を速くしている。
そのおかげでドラゴンに追いつかれることもなく、何とかここまで逃げきれているのだ。
「可哀想? 俺はこの役割に満足している。幼馴染の皆の為なら、世間の評価なんて関係がないよ」
俺は満足気に言った。
これは俺の本心だった。
だが、そんな俺とは裏腹に、ウイエは蔑むような目で俺を見てくる。
「何を言っているんだい? 僕はね、世間の評価は妥当だと思うんだ。君はいつも私たちの影に隠れている。私たちの栄光にあやかりたいだけじゃないのか? 僕たちの勇者パーティーはそれだけ偉大で、大変名誉な事だから。君はいつも後ろにいて、安全圏から楽に付与術を使うだけ。確かに仕事は果たしているけど、いつも楽でいいって、皆が思っているよ。命を賭ける事がないからなね――」
「確かに俺は皆より安全な位置にいたかも知れないけど、それでも危険な事には変わりないよ。今だって必死に逃げている!」
「ああ、そうだよ。どうだ? 襲われる気分は。僕達と同じ土俵に立って、少しは僕たちの苦労は分かったかい?」
ウイエの言葉はまるで、俺が何も苦労をしていないというような言いぶりだった。
そうではない。
俺だって、仲間の為に頑張っているつもりだ。
仲間が命を賭けて前線で戦うからこそ、俺はその代わりと言っては何だが、料理や寝ずの番、荷物運び、財産の管理、などあらゆる雑用をしてきたと思う。
「…それは昔から知っていたよ。君たちはいつだって、命がけで戦い、そして勝ってきた。それはとても大変で、とても頑張っていると僕は思う」
「ああ、そうだよ。僕達は皆の為、村のため、そして国のために戦い、勝ってきた。今までも、そしてこれからもそれは変わらない」
「うん」
それが勇者の宿命なのだろう。
北の大地に存在する魔王に勝つために、勇者は必死に戦うのだ。
「だから“僕達は死ねない”。その意味が分かるね?」
「分かっているさ。君たちはこの国にとっての宝だ。死んでいいわけがない」
「だろう。これはリーダーとして国のため、引いては前を走る彼女たちにとっても仕方のない判断なんだ。僕自身にとっても、非常に心苦しい事だ」
ウイエはそう言うと手に持っていた“聖剣”を振るった。
最初、俺はドラゴンの足を止める為に振るったのかと思ったが、どうやら剣の矛先は違った。
――俺だ。
ウイエは俺を切ったのだ。
「な、何を……何をするんだ!!」
俺が足に力が入らなくなり、地面へと倒れながら大声で叫んだ。
だが、返ってきたのはウイエのほの暗い笑みだった。
「さっきも言っただろう。僕がフラムを英雄にしてあげるって。君は命をかけて僕達を救う英雄となるんだ。勿論、仲間や国には僕が告げるよ。君はね、僕達を救うために、その身を犠牲にした。立派な戦士だったと!」
「意味が分からない――」
俺は頭から地面に突っ込み、草の苦さを味わいながらも必死に手をついてウイエを見上げるようにしながら言う。
「分からなくてもいいさ。だが、臆病な君にとっては名誉な事だろう? 君の魂は勇者である私達を救ったという事で英霊へと昇格し、未来永劫君の名は国の中で語り継がれる。勿論、僕も事あるごとに言おう。今の僕がいるのはフラムのおかげだと。君のおかげで、世界が救われるんだ。非常に素晴らしい事だと思わないか!」
「こんな形で英雄になるなんて絶対に嫌だ!」
世間からは蔑まれてもいい。
嘲笑されてもいい。
でも、幼い頃に幼馴染と共に誓ったみたいに、彼らと共に魔王を倒すのだ。別に俺が英雄と呼ばれなくたって構わない。そう心に決めたのだから。
だが、ウイエは俺の顔を右手で掴んで持ち上げる。
僕とウイエの顔が鼻先まで近づく。
久しぶりにウイエの顔をちゃんと見た気がした。
淡い金髪に、甘いマスク。民衆からは光の貴公子と呼ばれるほどに顔がよく、社交界でもよく貴族の令嬢に慕われているような人物だった。
でも、今のウイエはいつもの優しい表情ではなく、氷のように冷たかった。
「いいや、君は英雄になる。心配するんじゃない。いずれは僕だって行くところさ。それに仲間にだってこう言うよ。君は僕達の為に自らその命を投げ打った高潔で、素晴らしい人間だったと。勿論、君の両親、妹にだって告げるよ。兄さんは、勇者である僕の親友で、私が出会った中で一番素晴らしい男だった、と。だから――心配せずに英雄に、勇者をも超える英雄になってくれたまえ」
嫌だ、と僕は叫ぼうとしたが、その前にウイエが俺の顔を離した。
すると頭から地面に突っ込み、土が口の中に入る。
勿論、草も一緒にだ。
それらの味はげろまずで、すぐに吐き出したい気持ちになったが、それよりも先にドラゴンの大きな足音が近くに聞こえてくる。
「来たか。じゃあ、さよならだ。そして最後に、僕達の役に立ってくれて、とても嬉しいよ。“親友のシャマ君”――」
ウイエは俺にそう言って、この場から急いで走って逃げていく。
もちろん、俺の影から剣を小さく振るい、ドラゴンに攻撃してからだ。
ドラゴンの鋭い目が俺に向いた。彼の目は縦に引き絞ったような黒い瞳孔で、水晶体は赤く炎を思わせる。
胴体は城のように大きく、黒い鱗が特徴的だ。
一対の大きな翼と四本の手足があり、それらは悠久の年月を思い描くほど太く、大きかった。
口の節から黒い炎が微かに出ており、俺の記憶では先ほど土をも溶かすような黒炎を吐いていた記憶が蘇る。
「……嫌……だ、絶対に……嫌だ。死にたくない――」
ドラゴンに睨まれた俺は、蛇に睨まれた蛙のごとく体が上手く動かない。
動かせないのだ。
彼の目が、生物としての圧倒的上位種としての風格が、僕の心を冒しているのだろうか。
何故だか涙が溢れてきた。
何故なら龍とは、魔物の中でも最高位の生き物だ。
冒険者で最も強いと呼ばれる者達でも、勝つことは殆どできず、倒した者は今やおとぎ話の中だけと言われるような化け物だ。
現代の勇者の中に龍殺し(ドラゴンスレイヤー)は存在せず、勝てるような人類は存在しない。いるとすれば、ウイエぐらいだろう。ウイエはいずれは龍を殺す逸材ともいわれている。
たかだか一介の冒険者であるオレが、それも勇者や賢者などではなく、人の能力を上げるだけの付与術師が勝てるような存在でない事は明確だ。
だが、そんな状況でも、俺は必死に自分へと付与魔術を使う。勿論、スピードを上げる付与術だ。
逃げなければ死ぬ。
俺はどうしても死にたくなかった。
故郷においてきた家族が、僕の無事を願っているからだ。
だから強化した両手でほふく前進のように必死にドラゴンから逃げる。
既に目線の先のジークは小さく、それよりも前にいた仲間は砂のように小さく見えない。
俺は土が口の中に入ったままとしても、泣きながら必死にドラゴンから距離を取ろうと足掻いていた。
「いたっ!!」
だが、俺の頭に雨が降ってくる。
いや、それは雨では無く、痺れるような痛みを感じた。
俺は体を動かして上を見上げた。
――そこには大きな口があって。
白く大剣のような鋭い牙が生え、赤い口を開きながらこちらへと近づいてくる。
どうやら俺の頭に当たったのは、ドラゴンの涎みたいだ。酸みたいに人の体を溶かすのだろう。
「くっそう、くっそう――」
俺はドラゴンの頭を見ながらも、必死になってその場から逃げる。
だが、そんなのはドラゴンにとって蟻のようなスピードだった。
そして、――喰われた。
叫び声をあげる暇もないぐらいに咀嚼されて、ドラゴンの歯が僕の腹を貫いた時には頭の中に家族や幼馴染との幸せな記憶が一瞬だけ蘇って、視界が黒くなった。
意識を失ったのだ。
こうして、俺は――生まれて初めて死んだ。