相合傘メランコリック
1
「お姉ちゃん昨日頼んどいたインスタントコーヒー買ってきたよね?」
朝食を終えた双葉が葵に言った。
「うん、戸棚の一番右の奥に入れといたよ」
葵はトーストの最後のひとかけらを口に放り込みながら答えた。
双葉はテーブルから立ち上がり、戸棚の右奥を探る。
「あったあった」
双葉は取り出した紙パックを一瞥すると、
「ってこれ……」
とがっかりしたような声で言った。
「どしたの双葉?」
と言う葵はテレビに目をやったままだったが、
「お姉ちゃんこれコーヒー豆だよ」
そう言われると葵は驚いた顔で双葉の方を見て、
「え、嘘? だってちゃんと粉になってるじゃない」
「粉は粉でもこれコーヒー豆を粉砕したやつだよ。インスタントじゃないよ」
「そうなの? お湯にとかしちゃえば同じじゃない。大丈夫よ」
「お姉ちゃんこれは濾して飲まないと粉が残っちゃうんだよ」
「ホント? 難しいなあ。わたし全然違いがわからないよ」
「インスタントはインスタントって書いてあるんだから。表示ぐらいちゃんと見てよ」
「そうね。ごめんね。次からは気をつける」
そう言って葵はテレビに目を戻した。
「もう……」
双葉は軽い溜息をついた。 このお姉ちゃんのオッチョコチョイな所、なんとかなんないかな。悪気がないからあんまり攻める気にならないし。
コーヒーがないんなら仕方がない。
「お姉ちゃん紅茶でいい?」
「うん」
双葉はパックの紅茶の準備を始める。いずれにせよ学校のある日は凝ったお茶を飲む余裕はないのだった。双葉がティーバッグを入れたカップを並べて席に座ると、
「よしっ!」
葵がテレビを見ながら握りしめたこぶしを引きつけて意気込んだ。
テレビは天気予報をやっていた。今日は午前中は晴れるが午後は徐々に天気がぐずついて行く、とのことだった。夜半にかけて大雨になる恐れもあるでしょう。
で、それがどうしたというのだろう。
「どうしたのお姉ちゃん?」
「なんでもないなんでもない!」
葵は慌てて否定した。双葉が怪しんでいると、
「ところでものは相談だが妹よ」
葵がおどけた口調で話し掛けてきた。
「何?」
「折りたたみ傘を貸してくれんかね?」
「なんで? お姉ちゃん自分の持ってなかったっけ」
「そうなんだけど……ちょっといろいろ理由があって、ねっ、お願い。今度『ラ・メール』のケーキ買ってきてあげるから」
双葉の傘は誕生日に葵に買ってもらったもので、何の変哲もない葵自身の折りたたみ傘よりはオシャレで値段も少し高いのだった。
双葉はカバンに入れてある折りたたみを取り出しながら、
「別にいいけど。お姉ちゃんどうするの、この傘?」
「別に殺人の凶器に使って容疑を双葉に押しつけたりはしないから、大丈夫。安心して」
「そんなことじゃなくてさ……」
もしかして、と双葉は思う。
「昨日のドラマの最後の方でさ、ヒロインが雨が降って困ってるところに昔の彼氏が現れて…」
そこまで言ったのを葵は強引に遮って、
「じゃ、じゃあ私先行くね! 貸してくれてありがと!」
双葉の手から折りたたみ傘をもぎ取ると、カバンを取って部屋を飛び出した。ちなみに葵と双葉は同じ高校に通っているが、タイミングが合わなければ一緒に行くことはない。いちいち会わせてたらお互いに大変だからである。
双葉が戸惑っていると、玄関の方から、
「私の折りたたみ傘は玄関の靴箱の中だからね!」
と言う声が聞こえて、すぐに玄関の戸を勢いよく閉める音がした。
もう、わかりやすすぎ。そんなことでちゃんと恋の駆け引きとかできるのだろうか、と双葉は心配になる。
双葉は忘れてしまわないように、朝食の片付けをする前に玄関に葵の折りたたみ傘を取りに行った。そこで、
「あ……」
双葉はそのことに気付いたのだった。
2
もう双葉ってば敏感なんだから。きっと恋の駆け引きも上手いに違いない。その鋭敏さで一体何人の男を手玉にとってきたんだろう。
……って双葉に恋人がいるとか好きな人がいるとかいう話は全然聞いたことがないけど。
でも私に言わないだけで実は彼氏の一人ぐらいいるか、もしくはいたこともあるのかもしれない。あの子ならあり得る。
そう思うとなんだか悔しい。
葵は彼氏がいたこともなければ、告白をしたこともされたこともなかったのだった。友達にはそういう話が好きな人がいたり、実際に男の子とあんなことやこんなことをしたっていう話も聞いたこともあったけど、葵は自分にはあまり縁のある話には思えなかったのだ。
でも今は違う。
私にも好きな人がいる。
私だって上手くやればきっと……
「葵っ、おはよ!」
と、声をかけてきたのは親友のめぐみだった。
葵は返事をしない。
「どうしたの葵? なんだか神妙な顔しちゃって。また夜に宿題やってる途中に寝ちゃって気がついたら朝だったとか?」
「ねえめぐみちゃん」
葵は真剣な眼差しでめぐみの方を向いてそう言った。
「何よ」
「今は晴れてるよね」
「……ええ、よく晴れてるわ」
「夕方は雨だよね」
「そうなの? 急いでたから天気予報見てないわ。それがどうしたのよ?」
「でしょ?」
「でしょ……って、何が?」
「こんな晴れてると傘を持ってくるのを忘れちゃう人も結構いるよね」
「ええ、確かにいそうね」
「でしょ?」
「だから何がよ?」
「私ね、人と人が親密さを増すためにはね、物理的な距離の近さが重要だと思うの」
めぐみはしばし考えて、
「……それで?」
「あとね、外の世界と分け隔てられた、その人たちだけの空間がある、っていうのも重要だと思う」
「……そうね。で?」
「相合傘って、その条件を満たしてると思わない?」
めぐみはまたしばらく考えると、何かを閃いたような仕草をして、
「昨日のドラマの最後の方だったかしら。ヒロインの女の子が前の彼氏と仲良く相合傘で帰るシーンがあって……」
「もうその話はいいから」
「え? 今始めてした話だけど……」
「いいからいいから気にしない。でも、めぐみちゃんも相合傘って人が親密になる絶好の機会だと思わない」
「そうね。確かに同じ傘の下で歩いてたら相手に結構親しみを感じるかもしれないわね」
「でしょ? 私もそう考えたわけなのですよ」
「で、伊勢崎君と相合傘で帰るためにはどうすればいいか、って話?」
と言われると葵は真っ赤になって
「ばっ……ばかばか、めぐみちゃんのばか。なんでそうなるのよ」
「だってそうでしょ?」
「うう……そうです」
伊勢崎君、とは葵の好きなクラスメイトの男の子だった。
「じゃあ声かければいいじゃない。一緒に帰ろ、って」
「そんなこと恥ずかしくて言えるわけないよ」
「でも、そうでもしなきゃ、相合傘はできないんじゃないの?」
「ふふふふふ……そこはバッチリ昨日の晩に考えておいたのだよ」
「ふうん、どうするの?」
「まず伊勢崎君が傘を持ってるかどうか確認するの」
「どうやって?」
「それは……考えてないけどなんとかする。来たときに傘持ってるかもしれないし。伊勢崎君は来るの遅いから注意してれば確認できるよ」
「でも折りたたみ傘かもしれないじゃない」
「……なんとかする。それでね、もし傘を持って来てたら、伊勢崎君が帰るのを少し先回りして、昇降口の前で傘がなくて困ってるふりをするの。そしたら、別に恋人じゃなくても自然に傘に入れてもらえるでしょ?」
「もし伊勢崎君が傘を持ってきてなかったら?」
「その時は、伊勢崎君が帰るときに後について行って、傘がなくて困ってる伊勢崎君を私が傘に入れてあげるの。傘がなくて困ってるんなら、私が入れてあげるのも自然よね」
「ええと、でもそうすると、葵は場合に応じて傘を持っているか持っていないかのどっちかだって伊勢崎君に思われていないといけないわけよね」
「そう、そこがこの計画の肝なの。そのために折りたたみ傘を持って来たのだよ。しかも双葉の持ってるオシャレなのを。これなら場合に応じて持ってることにも持ってないことにもできるよね。どう? バッチリな計画でしょ?」
「……穴だらけな気がするわ」
「大丈夫! 昨日の一晩考えてあらゆる状況をシミュレートしたんだから」
葵はそう言うと、満面の笑顔でめぐみに微笑みかけた。
その時、
「山瀬、下ヶ先、おはよう」
伊勢崎君の声がした。葵はビクっ!として、
「お、お、お、おはようございます」
ロボットみたいに言った。
「おはよう、伊勢崎君」
めぐみはよどみなく挨拶をする。
「おう」
そう返事をすると伊勢崎君は早足で先に行った。
葵はその姿をトロンとした眼で見送り、無意識に、
「伊勢崎君……」
とつぶやく。我に返ると、
「ぜ、ぜ、絶対に相合傘するんだから!!!」
決意を新たにしたのだった。
3
「……というわけで、条件を表す従属節の中では、例え時制が未来でも現在形のままにしておくのです。なぜかというと、そもそも条件説というのは、」
と英語教師がそこまで言った時、一時間目終了のベルが鳴った。
「あ、もう時間ですか。それでは従属節の時制の話は次の授業にします。今日はここまで」
などと言う教師の言葉は全く耳に入らず、葵は一点を注視していた。葵の右斜め前、伊勢崎君の手元を見ているのである。
朝来たときは伊勢崎君は傘を持っていなかった。ということは今日の計画を成功させるためには、伊勢崎君が折りたたみ傘を持っているかどうかを確認しなければならない。
伊勢崎君は机の中に英語の教科書とノートをしまうと、机の横にかけてあるリュックを手に取った。次の時間は体育なので体操服を取り出すのである。
伊勢崎君はリュックを開けて体操服を取り出した。葵は伊勢崎君の手元をじっくりと観察して、少しでも中身を確認しようと努力した。折りたたみ傘がチラっとでも見えればいいのである。
が、やはり左後ろの席に座ったまま覗くのは無理があり、ほとんど中身は見えなかった。例え真上から見ても持って来てなかった場合、そのことを確認するのは無理だろう。
直接聞く、という選択肢もないでもないが、そうすると自分が折りたたみ傘を持って来ているかどうかを言わなければならないし、そもそも伊勢崎君に対して気楽に何でも聞いたりできるのならこんなに思い悩むことはないのだった。
男子生徒が教室を出て行き始めた。体育は二クラス合同で、女子の着替えは葵のクラスで行うことになっているのだった。
伊勢崎君も体操服を持って教室を出た。
伊勢崎君はリュックを机の上に置いたままだった。チャックが半開きになっていた。
葵は近づいてそのスキマから中を覗こうとするが、見えなかった。
が、何て不用心な、と葵は思う。
これなら誰かにリュックの中を探られてもまったく気付かないだろう。
もちろん今自分がこのリュックに手をかけたらさすがに怪しまれるだろうが、トイレに行ったり体操服を探したりしてモタモタしてて、一番最後に残った女子がリュックを探ったところで誰も気付かないだろう。別に何かを盗ろうというわけではないのである。
でも、と葵は思う。
もし何か伊勢崎君が見られたくないものが入ってたらどうしよう。
例えば……えっちな本とか。
と考えて葵は勝手に真っ赤になる。
ないないない、絶対にない。伊勢崎君に限ってそんなものを持ってることはあるわけないわ。
でも本当にそう言いきれるかしら……
葵は平均的な男の子のカバンの中がどうなっているか、ということがよくわからない。もしかしたら男の子のカバンの中にはえっちな本が入ってるのが当たり前で、むしろ入っていないのがアブノーマルなのかもしれない。
でも、ということは伊勢崎君が実はすけべえだということで……
別に不思議なことじゃないわ。男の子はみんなすけべえよ。普通普通。
私だって一応女子高生の端くれ。男の子を好きになるんなら、そーゆーことも受け入れなきゃいけないってことぐらいわかってるわ。大丈夫。
ってもし私が伊勢崎君と付き合ったらそーゆーことになっちゃうのかな。
と考えてまた真っ赤になった後、
「相合傘よ」
とつぶやいて思い直す。
そう、そんな心配するのは伊勢崎君と少しでも仲良くなってからだわ。絵に描いた餅を見てよだれを垂らしてる場合じゃないのよ。現実を見ましょう。
と思って伊勢崎君のリュックをもう一度見つめる。
そして、でも……と思う。
何も伊勢崎君にとって見られたくないものがえっちな本とは限らない。何か法に触れるヤバいものが入ってるかも知れないわよね。麻薬とか拳銃とか……
伊勢崎君ってちょっとミステリアスなところあるから、なんだかそういうのも不思議じゃない気がするわ。
確かに伊勢崎君に限って自分から法に触れるようなことをするわけない。そこは信じていい。だって私の好きな人だもん。信じるしかないじゃない。
でも、法に触れる事態に関わるのは、常に自分の意思からだとは限らない。例えば親がヤクザの組長で有無を言わず関わらせられてるとか、家族を殺すって脅されて無理矢理ヤバイ取り引きをさせられてるとか。
あり得るわ。そう、昨日のドラマのヒロインの元彼も、借金を返すために麻薬の取り引きに手を出して、そんな自分を遠ざけるためにヒロインと別れたんだっけ。
で、私がリュックの中身を見てると、伊勢崎君がガラってドアを開けて、
「見てしまったんだね」
とか言わたりして、
「見られたからには、君のことをただで返すわけにはいかない」
とか言って拳銃を突きつけられちゃったりして、
「えっ? えっ? 何!? 伊勢崎君どうしちゃったの?」
「君は見てはいけないものを見てしまった。僕は君を殺したくはない。でもこのままでは、僕の家族が命の危険にさらされることになってしまう。それだけじゃない。僕の多くの仲間を危険にさらすことにもなってしまうんだ」
「伊勢崎君、私絶対誰にも言わない。だから命だけは……」
「できれば君のことを信用したい。でも、君とはまだ初めて会ってから半年もたってないんだ。君が信頼できる人間だと判断するのは無理がある。わかってくれるね」
「そんな……でも伊勢崎君の手にかかって逝けるんなら私……」
「でもやはり僕はクラスメイトを殺したくはない。そこで君に選択してもらいたい。このまま僕に殺されるか、もしくは僕の相棒となって、共に闇の世界を生きるかだ。後者を選べば、今後君はこれまでのような安心しきった毎日を送れなくなる。常に死の危険と隣り合わせで、血と硝煙の匂いにまみれた日々を送ることになるだろう。こんな選択肢しか与えられなくて本当に申し訳ないと思ってる。本当に……ごめん!!」
突きつけられた拳銃が震えている。伊勢崎君は涙を流していた。
「僕は君には普通の女性としての人生を送って欲しかった。だからこれまで君の思わせぶりな素振りに気付いても、知らない振りをしてたんだ。これまで何度も思った。もし君が僕の秘密に気付いてしまえば、君をこっちの世界に引き込んでしまえば、君はいやでも僕と一緒に生きざるを得なくなる。例え僕が君を殺そうとしなくても、その秘密を知ってることは世界を敵に回すことと同じなんだ……君は僕と一緒にいることでしか自分の身を守れなくなる。でも、僕は君に僕と同じ人生を送って欲しくなかった。君は太陽みたいに明るくて、ひまわりみたいにまっすぐな目をしてた。そんな君に闇の世界は絶対に似合わない。こっちでは絶対に幸せになれない。そう思ったんだ。それが……それがこんな形で僕の願いが叶ってしまうなんて。ああ!!! 本当は望んだ結果じゃないのに、あってはいけない未来のはずだったのに、君に秘密をを知られたことを喜んでしまう自分が抑えられない!! 僕は最低の男だよ……」
「伊勢崎君……」
私、全然構わないよ。
「葵、葵、ちょっとどうしたのよ」
私だって伊勢崎君と相合傘するために卑劣な企みをしていた悪い女。私は伊勢崎君の思うようなきれいな女じゃないわ……
「私、その先にどんな絶望が待っていても、その先にどんな深い闇が横たわっていても、伊勢崎君と一緒なら、絶対に辛いとは思わないわ。だって私は伊勢崎君のことを本当に……」
「ちょっと葵、大丈夫?」
はっ!?
めぐみに肩を強く叩かれて葵は我に返った。
「ちょっと何ニヤニヤしてるのよ。よだれたれてるわよ」
しまった。想像がエスカレートして忘我の境地へとトリップしてしまった。
「ごめんごめん。なんでもないの」
「早く着替えないと授業始まっちゃうよ」
教室にはめぐみと葵しかいなくなっていた。当然めぐみは着替え終わっている。
「私は先に行ってるからね。早くしなさいよ」
「うん」
めぐみが去ると、教室には葵だけが残った。
伊勢崎君のリュックは、無造作に机の上に置かれたままだった。
今なら見ても誰にも気付かれない。もしえっちな本が入ってても、男の子なんだから当たり前。何も気にすることはない。万が一法に触れるものが入っていても大丈夫。全てを捨てて伊勢崎君と闇の世界で運命を共にする覚悟はできているわ。
葵は伊勢崎君の席に近づく。
リュックに手をかける。
葵はつばを飲み込んだ。
ちょっと折りたたみ傘が入ってるかどうか確認するだけよ。何も何かを盗もうってんじゃない。大したことないわ。
ふと葵は思う。もし、自分のカバンを自分がいないときに人に覗かれたらどう思うかしら。 しかも覗く人が伊勢崎君だったりしたら。
葵のカバンにはクラスの男の子から借りた少年マンガとか、携帯ゲーム機(ソフトは格闘ゲーム)とか、あまり女の子らしからぬアイテムが入っているのだった。
ぜえええええったいダメ。めぐみちゃんとかならいいかもしれないけど伊勢崎君にだけは絶対見られたくない。
そもそも伊勢崎君がそんなことするわけない。伊勢崎君がそんな他人のプライバシーを土足で侵害するようなことするわけ……
私は何をしようとしてたんだろうか。
確かに私は伊勢崎君と相合傘がしたい。親しくなりたい。
でもそのために自分がやられちゃ嫌なことを人にするなんて。それも好きな人にそんなことするなんて。
なんてひどい女。
伊勢崎君と闇の世界で生死を共にするにはふさわしい外道さだわ……
じゃなくて!!!
好きな人と親しくなるためにその人の嫌がることをしたんじゃ、本末転倒だ。
「もう私のバカバカバカ!」
葵は自分の頭を両手のこぶしでポカポカ叩いた。
葵は自分の席に戻り、急いで着替えを始める。
気を取り直しなさい、私。まだ二時間目よ。伊勢崎君が折りたたみ傘を持って来てるか確かめる方法を考える時間は十分にあるわ。
さあ、考えるのよ。
4
考えた。
考えてるうちに、昼休みになってしまった。
窓の外はすっかり暗くなっていて今にも降りそうな感じだった。天気はOK。
でも金属探知機を借りれないかとか、実は自分には透視能力があるんじゃないかとか、二階の体育館側の女子トイレの奥から三番目にいるらしい花丸子さんに頼んでみようとか、いろいろ考えたけど、どれも今一歩うまく行きそうには思えなかった。
リュックの中身を確認するべく伊勢崎君の席をずっと見てもいた。伊勢崎君が何度かリュックを開けたことはあったけど、やっぱり中身は見えなかった。
直接聞く、ってのは自分が折りたたみ傘を持ってるかどうかを知られる危険があるから無理だし。
もう万事休す……
あーあ、したかったなあ、相合傘……
ん?
何か私見落としてない?
直接聞いたら自分が折りたたみ傘を持ってるかどうかを知られる危険がある。
私は確かにそう考えた。
でもそれは私が正直に答えた場合であって、そうじゃなければ自分に都合のいいように知らせることもできるんじゃないかしら。
伊勢崎君に嘘をつくのは気が引ける。
でも既に私は伊勢崎君を騙そうとしてるんだから、嘘が一つ増えたって、どうってことないわ。っていうかそもそも最終的には私が折りたたみ傘を持ってるかどうかについて嘘をつくつもりだったんだから、嘘が一個増えることもないわ。
先に伊勢崎君が折りたたみ傘を持っているかどうかを聞いて、もし持っているって答えたら私は持ってないことにして、もし持っていないって答えたら私は持っていることにする。
うん。我ながら素晴らしい筋書きね。
私って天才じゃないかしら?
いえ、愛の力ね。愛が私に普段からは考えられないくらいの思考力を与えてくれてるんだわ。
愛の力恐るべし。
ってそんなこと考えてる場合じゃないわ。まだまだ筋書きは出来上がってないのよ。
伊勢崎君は席でお弁当を食べる準備をしてる。
もうすぐ友達の田代君がやってきて一緒にお弁当を食べ始める。そうしたら次の授業が始まるまで一緒だから聞くチャンスはない。もう一回休み時間はあるけど、その時に伊勢崎君と話すチャンスがあるとは限らない。
話し掛けるなら今よ。
どうやって伊勢崎君に折りたたみ傘を持ってるかどうか聞くか。それが問題だわ。
いきなり、
「伊勢崎君折りたたみ傘持ってる?」
って聞いたら、
「うん、持って来てるよ/持って来てないんだ。でもなんでそんなこと聞くの?」
なんでかしら?
怪しまれない理由を考えなきゃいけないわ。
もしくは最初っから別の話題で始めて自然に折りたたみ傘の話題に誘導するか。
っていうかそもそも自分から伊勢崎君に話し掛けたことなんてないんだから、突然話し掛けたら不自然に思われるわよね。
どうすればいいかしら。
……
……
……
うー……
思いつかないわ。さっきは愛の力であんなに冴えてたのに。やっぱり私ってバカなのかしら?
何でもいいから考えてみましょう。例えばこんなのはどうかしら?
「雨、降りそうよね? 伊勢崎君は傘持って来た?」
……いいじゃない。天気のことを気にするクラスメイト。自然だわ。
深く考える必要なんてなかったのね。
自然体の私でよかったんだわ。
伊勢崎君は未だ一人で席に座っている。
さあ、話し掛けるわよ。
葵は深呼吸を三回して、
「大丈夫!」
とこぶしをギュッと握りしめながら言って席を立った。
が、
「伊勢崎、傘持って来た? ちょっとノート忘れちゃってさ、ひとっ走りコンビニ行ってくるんで、降りそうだから貸して欲しいんだけど」
田代君だった。
「ああ、持って来てないけど……」
と伊勢崎君が言うと
「俺持ってるよ」
伊勢崎君の前の席の竹中君が答えた。
「じゃあちょっと貸してくれる? 悪いね」
田代君は竹中君から折りたたみ傘を受け取ると、教室を出て行った。
葵は席を立ったまま呆然としていた。
田代君、あなたって人は……なんてタイミングが良くて悪いのかしら。
これから伊勢崎君と話す、ってことでちょっとドキドキしてたのに……
でもいいわ。
これで伊勢崎君が折りたたみ傘を持ってきていないことが判明した。
後は放課後に伊勢崎君より少し後に昇降口に到着して傘に入れてあげれば、相合傘ができるわ。
問題は天気ね。全然降ってないと傘が必要なくなっちゃうわよね。それにあんまり降りすぎても伊勢崎君が傘を持たないで昇降口に向かおうとしなくなっちゃう。その時はその時で一緒に帰ろうとすることもできるかも知れないけど、玄関で偶然会って傘に入れてあげるより難易度が格段に増すわ。
傘がなくても困ることはないけどあった方がいい、ぐらいの天気が丁度いいんだけど。
さすがに天気のことはいくら愛の力があるといえども、私にはどうすることもできないわ。
5
葵の席は窓際だったので、授業中はずっと窓の外を眺めていた。
窓の外はパッと見何も見えないけれど、よく見るとたまに縦線が入るのに気付くぐらいの微妙な小雨になっていた。
最高だわ。
天も私の愛を応援してくれてるようね。
六時間目の授業を終了する鐘が鳴る。
教師が授業の終わりを告げると教室中が騒がしくなり、生徒が徐々に教室を去り始める。
葵は伊勢崎君の席を注視しながらゆっくりと教科書等をカバンにしまっていた。
伊勢崎君が帰り支度を済ませ席を立つと、葵は速攻で持って帰るべきものをカバンに詰め込み、席を立った。
伊勢崎君が教室を出るのを確認すると、少し時間を空けて葵も教室の外に出る。
伊勢崎君は廊下のロッカーを開けていた。
葵の学校は廊下に各生徒の個人用のロッカーがあるのである。
このままでは伊勢崎君を追い越してしまうので、葵もロッカーを開けた。横目で伊勢崎君の行動を監視する。
伊勢崎君がロッカーから何かを取り出した。
よく見ると、それは折りたたみ傘だった。
「!」
葵は声が出そうになって慌てて口元を抑える。
でもさっき傘は持ってないって……
でも、伊勢崎君さっき言ったのは確か、
『ああ、持って来てないけど……』
だったように思う。
そうか。持って来てはいないけど、ロッカーに置いてはあった、ということだったんだ。
……なんて納得してる場合じゃないわ。
このままじゃ偶然伊勢崎君のすぐ後に昇降口に着いて傘に入れてあげる、っていう計画は上手くいかない。
計画変更。伊勢崎君より前に昇降口にたどり着いて傘がなくて困ってる振りをしなくちゃ。 そのためには伊勢崎君を追い越さなきゃいけないけど……それってなんだか嫌だわ。
伊勢崎君とはいつでも気軽に話し掛けてるほど親しいわけじゃない。だから伊勢崎君を追い越したときに、お互いに気付いたのになんとなく話しかけづらくて話しかけなかったら、気まずい雰囲気になる可能性がある。
だったら自分から声をかければいいんだけど……
それが普通にできるぐらいなら最初から傘に入れてって頼んでるわ。
ここはやはり、当初の計画通り、昇降口に先にたどり着いて困ってる葵に伊勢崎君が偶然気付くということにした方がいいだろう。
それなら……と葵は近い階段のある方と反対の廊下を見る。
西階段から下りて先に昇降口にたどり着くしかないわね。
葵の教室は三階の東階段側の端。昇降口は東階段を降りてすぐだ。
葵は校舎の反対側の端の西階段まで走り、一階まで降りてまた昇降口まで走らなければならない。
いくわよ、葵。
大丈夫。相合傘のことを思えば、このぐらい大したことないわ。
葵はロッカーをバタンと閉め、伊勢崎君が階段を降り始めたことを確認すると、全力で西階段にむけて走り出した。
もう人目なんか気にしてはいられない。
「ちょ、葵、何走ってるの?」
他のクラスに用事があったのかな。向かって歩いてきためぐみちゃんが声をかけてきた。
でも今はそんなことに構ってる場合じゃない。
「ちょっとね!」
とだけ言うとめぐみの横を颯爽と駆け抜けた。
階段にたどり着くと、もう息が上がりそうだった。
運動不足だったわ。双葉のランニングに誘われたときOKしとけばよかった。
でも泣き言なんて言ってらんないわ。
階段を出来る限り早足で駆け下りる。
ああもうまどろっこしい! 葵は一段飛ばしで降り始めた。
勢いで加速されてスピードがますます上がる。
速く! 少しでも速く。
折り返しはなるべく小回りに回って少しでも距離を縮める。
これが最後の階段!
葵は最後の五段を一気に飛び越して着地……したと思ったら足が滑って盛大に尻餅をついてしまう。
「イタタタタ……」
とか言ってる場合じゃないわ。
葵は立ち上がると最後の力を振り絞って昇降口側に向かって走った。
昇降口に近づく。
階段と昇降口の間には伊勢崎君はいない。大丈夫。間に合ってるはず。
昇降口にたどり着いた葵は息を切らせながら伊勢崎君が下駄箱の前にいないことを確認する。
「はあ……はあ……はあ……どうにか……間に合ったみたい」
後はゆっくりと靴を履き替えて昇降口の外で傘がなくて困ってる振りをすればいいだけだわ。
東階段の方を見ると、伊勢崎君が降りてくるのが見える。バッチリのタイミングだ。
もう大丈夫。相合傘は目前よ。
が、伊勢崎君の後に田代君が一緒に降りてきた。
なんで? なんで田代君が一緒なの?
……って当たり前じゃない。伊勢崎君と田代君は親友よ。一緒に帰ることもあるわ。
そんなこと考えてなかった!!!
私ってバカじゃないかしら?
とか考えてる場合じゃないわ。まだ諦めるのは早い。田代君に一人で帰ってもらえばいいのよ。田代君には悪いけど今日だけは譲れないわ。
でもどうやって?
田代君を引き止める方法……と考えて葵は一つのことを思いつく。
葵はカバンの中から封筒と便箋と鉛筆を取り出す。封筒はいかにもラブレターという感じで、ピンク色のハートの模様が描かれている。以前伊勢崎君にラブレターを書くために準備したものだった。
あの時は結局渡さず終いだったけど、こんなところで役に立つなんて。世の中何がどこで役に立つか何てわからないものだわ。
葵は便箋に次のように書いた。
『四時に体育館裏で待っています。』
これをこの封筒に入れて田代君の下駄箱に入れておけば田代君は帰るわけには行かなくなるはず。それに田代君は恥ずかしがり屋さんだから、ラブレターのことを伊勢崎君に気付かれないように適当な言い訳をして、伊勢崎君に先に帰ってもらうはずだわ。
でも、嘘のラブレターを送るのは、なんだか人の恋心をもてあそんでるみたいで田代君に悪いわよね……そうだ!
葵は便箋に次のように付け加える。
『これは果たし状です。』
これで大丈夫。田代君は封筒を見てラブレターだと思って伊勢崎君に先に帰ってもらって、中身を確認してラブレターじゃないことを知ることになるわ。少しの間だけ期待させちゃうけど、そのぐらいなら大したことはないでしょう。
それにたぶん誰だかわかんない人から果たし状とか受け取っても、田代君はそこに行かない可能性が高い。田代君はあんまり喧嘩とか好きそうじゃないから。
でももし本当に待ち合わせ場所に来た場合は……そのことを考えると後で自分でそこに行った方がいいわね。二度手間になるけどこの際しょうがないわ。それで、友達に冗談で送ったつもりだったけど入れる下駄箱を間違えたとか言えば、田代君も納得してくれるわよね。
よし、大丈夫。
葵はまだ二人が見える範囲に来ていないことを確認すると、便箋を封筒に入れて、田代君の下駄箱の中に入れた。
葵は急いで下履きに履き替えると、別の下駄箱の陰に隠れて、葵のクラスの下駄箱の前を監視した。
伊勢崎君と田代君がやって来て、二人ともそれぞれの下駄箱を開ける。
案の定田代君は手紙を見つけるや否や、それを急いで上着の裏に隠した。
そして何かを伊勢崎君に言うと、田代君は下履きに履き替えずに廊下の方に戻って行った。
よしっ!
葵は拳を作って手前に引き寄せた。
葵は振り向くと、雨がまだ降っていることを確認する。
これで全ての条件が揃ったわ。
私は傘がなくて困ってる。
伊勢崎君は傘を持っている。
これでどう考えても、伊勢崎君が私を傘に入れてくれることになるのが一番自然な展開だわ。
葵は昇降口の前の庇の下に立つと、後ろを振り向かずに雨の降っている校庭を眺めた。
声をかけてくれる……はずよね。
もし伊勢崎君が私のこと何とも思ってなくて、っていうかむしろ快く思ってなくて、私のことを避けたりしたらどうしよう。
もしかしたら、私と一緒に帰るのが嫌で、気付かない振りをして帰ったり、別の玄関に回って帰ったりしたらどうしよう。
普段はそんな風な素振りは見せないけど、いつも普通に笑いかけてくれるけど、それは単に伊勢崎君が優しいからで、本当は私のことなんか側に寄せたくないぐらい嫌いだったらどうしよう。
葵はそういった予想を否定する材料を持ち合わせていなかった。
突然雨が強くなる。
まるで一つ一つの雨の音が永遠であるかのように時間がゆっくりと流れる。
恐かった。
私はこのまま永遠にここで伊勢崎君を待ち続けなきゃいけないのかもしれない。
葵の隣を別の生徒たちが通り過ぎ、雨の中に消えていった。相合傘。とてもお似合いの男の子と女の子が、同じ傘の下、冷たい雨の世界から隔絶された聖域であるかのような空間で、互いに笑顔を向け合っていた。
葵の前には、ただただ乱暴な音を立てる雨が立ちはだかってるばかりだった。
私は一生、この雨の壁より先に進むことはできないのかもしれない。
ずっと一人で、向こう側にぼやけて見える幸福な人たちの姿をうらやみながら、涙を流して過ごすだけなのかも知れない。
伊勢崎君……
大好きだよ……
「山瀬?」
聞こえた。
葵が振り向くと、待ち望んでいたその人がいた。
「伊勢崎君……」
葵はうれしくてしょうがなかった。別に好きとか言われたわけじゃない。ただ声をかけられただけだ。でも自分のことを避けずに声をかけてくれたと言うだけで、葵はうれしかったのだった。
「どうしたんだ? 傘、持って来てないのか?」
来た、来た、来た来た来たーーーーーーっ!!!
冷静になるのよ、葵。もう計画の九九パーセントは遂行したわ。あとは普通に受け答えすれば、相合傘にたどり着けるわ。
「うん、朝急いでて天気予報見てる時間なくて」
よしっ。普通の返事だ。何も怪しいところはない。
「そうか、それなら俺傘持っているから一緒に……」
そのとき、
「おねえちゃーん!」
へ?
背後から全く予想外の声が聞こえた。
何が起こったの?
振り向くと妹の双葉が立っていた。
右手には自分の折りたたみ傘を持っている。
「自分の」とはもちろん「双葉の」という意味である。
双葉の傘?
それは確か朝双葉から借りて……いま自分が持っている傘なんじゃないだろうか。
「な、なんで双葉がその傘持ってるの!?」
「なんでって……お姉ちゃんが朝忘れてったんじゃない。玄関に置きっぱなしだったよ」
「……」
と、いうことは……
「お姉ちゃん? 聞いてる?」
伊勢崎君は、
「なんか良くわかんないけど、傘、あって良かったね。じゃあ山瀬、またね」
そう言うと傘を広げて雨の中に去って行った。
葵はその姿を呆然と見つめる。せめて大好きな人の後ろ姿を目に焼き付けておこう……
「お姉ちゃんってば。どうしたの?」
双葉の方を見る。
理不尽な怒りがわき起こってくる。
双葉さえ来なければ……
葵は深く深呼吸をした。
「大丈夫。双葉は悪くないわ。双葉は悪くない。悪くない。悪いのは私。誰がどう考えても私。オッチョコチョイな私。双葉のせいじゃない。双葉のせいじゃない……」
葵は念仏のようにそんなことをつぶやくと、また深呼吸をする。何度もする。
「どうしたの……お姉ちゃん……なんだか恐いよ」
怯える双葉の目を見て葵は気を取り直す。バカバカバカ、なんで私はこう目先のことに気を取られて本当に大切なものが見えなくなっちゃうのかしら?
悪いのは私。百パーセント私。双葉はがこのタイミングで傘を返しに来たのは偶然。今雨が降ってるのと同じだわ。
っていうか、そもそも伊勢崎君を騙して相合傘をしようって考えが浅ましかったのかもしれないわね……
「ごめんね、双葉。傘、ありがと」
葵は力なく双葉にそう言うと、双葉の差し出す折りたたみ傘を受け取った。双葉は葵の顔から恐さが消えて安心したようだったが、
「どうしたの、お姉ちゃん。元気ないね」
今度は心配になったようだった。
「うん、ちょっとね」
そう言って葵は自分の頭をかきむしる。
あーあ、上手く行かないものね、現実ってやつは。なんかもう、どうでもよくなってきたわ。
「双葉、『ラ・メール』のケーキ買ってあげるって約束したわよね。今から行かない? おごるわよ」
こんな時は甘いものでも食べて元気を取り戻すのが一番。
「ホント? 行く行く、絶対行く。丁度甘いもの食べたかったんだあ」
双葉は心配することを忘れてはしゃいでいた。その楽しい表情を見て葵は少し元気を取り戻す。
「あれ、葵じゃない。伊勢崎君と相合傘で帰るんじゃなかったの?」
めぐみが校舎の中からやって来た。
「うん。でも失敗しちゃった。やっぱり人を騙そうなんて考えるものじゃないよね」
「そう。ま、気を落とさないことね。チャンスはこれからいくらでもあるわ」
「ありがと。ね、めぐみちゃんも一緒に『ラ・メール』にケーキ食べに行かない。おごるよ」
「いいの? 私結構食べるわよ」
「オッケーオッケー。今日は特別」
甘いもの食べて、女の子どうしで騒げば、きっとこの嫌な気分もふきとんじゃうに違いない。
「じゃ、行きましょう。ねえ葵、傘、入れてくれない? 私、傘持って来てないのよね。朝も言ったけど」
「うん」
葵は双葉の折りたたみ傘を広げると、めぐみを中に入れて歩き出した。双葉は葵の傘をさして、その後をついてくる。
結局めぐみちゃんと相合傘をすることになってしまった。
「この傘、オシャレだけど小さいわね」
めぐみが雨に濡れないように身を寄せながら言う。
もし伊勢崎君と一緒に入ってたらこんなに近くに伊勢崎君を感じられたのだろうか。
そう思うと、やっぱり少しガッカリしてしまう。
「『ラ・メール』といえばモンブランよね。あの濃厚な味わいとふんわりした食感がたまらないわ」
めぐみが言った。
「でもあれ高いんですよ。お姉ちゃんにはきついんじゃないかなあ」
「大丈夫。最近は節約してるもん」
「そうじゃなくて、カロリーの話。お姉ちゃん、ダイエット中だから、自分で食べないにしても、あんなカロリーの高いもの目の前で食べられたら目に毒なんじゃないかなあ」
「うー、それは……」
「ダイエットなんてしてるの? 気にすることないわよ。だって葵、体重私と同じぐらいでしょ? 私は体重気にしたことなんてないわよ」
「そうかな。じゃあ私も今日はモンブラン食べちゃおうかな」
「えー、でもお姉ちゃん、めぐみさんと比べたら同じ体重でも胸がない分贅肉がたっぷりついてるんじゃ……」
「こら双葉! 気にしてるのに!」
葵は傘を持ったまま双葉を追いかける。双葉はうれしそうに水たまりの上をチャプチャプさせながら逃げ回った。
「ちょっと葵、濡れちゃうでしょ!」
取り残されためぐみが声を上げた。
葵は追いかけるのを諦めてめぐみの隣に戻った。
再び、めぐみと相合傘をすることになる。
めぐみを挟んで葵の反対側に、双葉が並んで歩く。
それはまるで、三人で相合傘をしてるみたいだと葵は思う。
傘の下で親しみを感じれるのは何も恋人だけじゃない。
家族や友人とだって、外の世界から分け隔てられた空間でより距離の近さを感じることができる。そこにはいつもとはちょっと違った、不思議で暖かい空気が横たわっている。
雨は強さを増してきたけど、その分めぐみと双葉との距離が縮まってくるような気がして、おしゃべりのための空間を神様が準備してくれてるみたいに思えて、葵はとても幸せな気分になったのだった。