決断
22歳、大学四年生。大手に就職先が決まり、卒業までは卒業論文を提出するだけだった。両親はどちらも公務員で金銭面の心配なし。性格についても問題なし、いや、むしろいいくらい。
父は口が上手く人脈をすぐに築き上げて役職を次々と上げていった。母はよく笑顔を褒められており、それは俺自身も日頃から見てわかっていた。
俺はというと、元から器用で色々とできるタイプの人間で、今までにつまずいたことなど一つもなかった。あまり勉強しなくても常に上位に食い込んだし、真面目に勉強してみると当然ながら学年で一桁、学年一位だって数回取ったことがある。
勉強だけかといったらそうでもなく運動、ましてや娯楽、例えばゲーム対戦までも上手かった。我ながら完璧だと思う。天才とまではいかないが、現代社会で生きる上ではこの上ない最高の条件を貰っていた。ちなみに顔は普通だと思っていて、中学で二回、高校で三回の告白を受けたことがある。しかし、友達と遊ぶのも勉強するのも好きだったから時間がないと思って全て断ったけれど。
そんな順風満帆の人生を送ってきた俺は今、マンションの屋上の鉄柵を越えているところだった。自殺理由なんて、自分でもよくわからない。自分の人生がつまらないと、そんな贅沢な悩みかもしれない。
確かに、このまま行くと大手企業でバリバリと働いて、でも世の中にはやっぱりもっと凄いやつがいるってわかって絶望して、上から数えた方がいいくらいのそこそこの役職に落ち着くのだろうと思う。世間ではそれでも幸福だとか、成功者だとかいうことは重々承知している。
人にとって幸せの条件は様々だ。例えば、誰かといると幸せとか、一人で何かに没頭している時間が幸せとか。あるいはスーパーの特売で買った肉を食べることが幸せである人がいれば、一回数万もする高級焼肉店で肉を食べることが幸せであると考える人もいるだろう。
俺にはそれがなかった。いや、わからないというべきかもしれない。勉強しろって世間が言ったから、愛想よくしろって世間が言ったから、生きろって世間が言ったから。そして、今までそうしてきたから。
もしかすると、俺は少しくらい世間に反抗してみたくなったからかもしれない。
俺は街を見下ろした。何の味気もないごった返した街。ただ、儲かるから、人がいるからといった理由で店が所狭しと並んでる余裕のない街。俺からすると面白くもなかった。
風が吹いていた。ようやく秋が始まる十月、流石に少し涼しくなってきたらしい。
そして、俺はつまらない街に目を伏せてから鉄柵を掴む手から力を緩めた。
音がした。こつこつこつ、と何かを擦るような小さな音、そして子供の声。俺ははっとして目が覚めた。普通起きるときはぐったりと少しけだるさが残るもんだが、覚醒したように目がぱっちりとしていた。
教室だった。つい大学の講義中にうとうとしてしまったと思ったが、そんなはずなかった。
俺は卒業論文以外なにも講義を取っていない。なにより、自殺したのだ。
俺は確かにこの手を離して、足で軽くジャンプして、宙へ飛んだ。そして、まるでスローモーションのように映る見慣れた街並みも鮮明に覚えている。
しかし、ここは紛れもなく教室だった。それも小学一年生の。でも、俺はあまり驚かなかった。どうせ死ぬ間際の短い夢だろう、と思っていたからだ。だから、自分の真っ白な小さい手を見ても驚かなかった。
目の前には算数の簡単な足し算のプリントが置いてある。先程まで騒がしかった教室が急に静かになり、鉛筆を擦る音だけになった。俺は素早く、前を向いた。カレンダーを確認するだめだった。4月10日、入学して間もない頃。
俺は思いついた。もし、このプリントを白紙で提出したらどうなるだろうか、と。今までの俺ならば習った直後とはいえ、満点を書いて提出するだろう。真面目で優秀だったから。
しかし、俺はどういうことか、真逆のことをしてみようと思ったのだ。不真面目だったらどうなるだろうか、と。そういえば俺は怒られたことが一度もなかった。いつも言われたことは全てやった。それは今も間違ってはないと思うし、寧ろ誇らしいくらいだ。でも、俺はそんな流れに、自分に逆らってみたいと思った。
「はいやめ」
先生がそう言うと、俺は純白の紙を提出した。一番後ろの席の回収していった男の子が驚いた表情をしていたが、俺は気にしなかった。
休み時間、俺は一人の生徒に話しかけられた。それは後に俺の友人となる男の子だった。
しかし、俺はそれとなく受け流して話しかけないでくれ、というような空気をだした。するとトモキは申し訳なさそうな、それでいて不機嫌な顔で席へ戻っていった。
俺は夢の中だから悪い、と心で謝った。
放課後、俺は教室の外の廊下から懐かしい校庭を見下ろして、考えていた。過去のことじゃない、未来のことだ。といっても夢だろうけど。すると、すっかり静まり返った廊下に足音が響いた。音のする方を見ると、担任だった。
「どうした、帰らないのかい」
「あ、いえ。少し黄昏れてい…」
俺はここまで言うと、コホンと咳払いをして言い直した。
「もう少ししたら帰ります」
手遅れらしかったようで、先生は笑った。
「難しい言葉を知っているんだね」
「いえ、別に」
俺は褒められて悪い気はしなかったが、あえて不機嫌を演じてみた。自然と先生に0点の算数の話題を出させたかったというのもある。
「いやいや、凄いよ。君はもしかすると国語が好きだったりするのかな?」
「どうでしょうね」
俺は得意教科、苦手強化がなかった。どちらも程よくできる平均人間だったからだ。
「あのさ、」
そういって、先生は俺の算数ができないことを話しだした。俺はてっきり怒られるかと思っていた。この先生は怖いことで知られていたし、実際に結構怒っている場面を見たことがあったからだ。しかし、どうしてできないのか、と怒鳴られることはなかった。何がわからないのか、先生の教え方で何かわかりにくいことがあるか、とあくまで先生は自身の教える力に問題があると考えているらしかったのだ。
「先生は悪くないです、俺がバカなだけなんです」
そういうと、冷静だった先生はいきなり顔色を変えた。
「自分でそんなことをいうな。君はまだ可能性の塊だ。バカになるかは、これから君が何をするかで決まるんだ」
「俺がこれから何をするか」
俺は少しだけ過去のことを思い返していた。
「そうだ。君は算数が苦手だとしよう。すると、算数が苦手なまま放っておくか、それとも勉強して算数を得意にするかの二つの道があるだろう。君はどうしたい」
「俺は…」
宿題は終わった?勉強頑張ってるね。真面目だね。優しいね。頭いいね。そんな声が聞こえてくるような気がした。
「俺は放っておきたいです」
俺は無感情のまま呟いた。すると、先生は目をぱちくりさせて俺を見た。流石にこんなことを言うとは予想していなかっただろう。
「ど、どうして放っておきたいんだい?」
「逆だからです」
「逆?」
先生は聞き返してきた。すると、俺は夢なのをいいことにこれまでのことを話し始めた。
俺は22歳の大学生であること、これまで言われてきた良いことの殆どを行ったこと、そしてつまらなくなって自殺したこと。
気づいたら俺は泣いていた。先生は最初は冗談だろ、と鼻で笑うような態度だったが、次第に口を噤んで俺の話をただ頷きながら聞くようになった。俺は全てを吐き出し終えると、深呼吸した。息ができなかった。先生は大丈夫か、と背中を優しくさすってくれた。こんなに人に感情をぶつけたことがなかったために今の自分の心境をなんと表現していいのかわからなかった。
息を整えると、先生は言った。
「頑張ったんだな」
俺はまた、泣いてしまった。本当は誰かに甘えたかったのかもしれない。今までできる人間、しっかりした人間と思われて自立させられていたのに、本当は誰かに頼りたかったし甘えたかったのだ。知らぬ間に背負った期待が重かったのだ。
「先生、俺は一体…」
俺はまだ上手く言葉を繋げられないながらも先生にそういった。どうしたらいいのか、先生ならば教えてくれると思っていたのだ。先生はふぅー、と深く息を吸いながら窓の外を見た。ジャングルジムの影が伸びて他の影と合わさっていた。
先生は俺を見てはっはっは、と演技でもしているのかというくらいに高らかと笑った。
「どうしたんですか?」
「俺とあんまり似ていたものでな」
「先生が俺と似ている?」
「あぁ。こうみえて、俺は昔は全然勉強がダメだったんだ。勉強がダメなやつって大きく二種類に分かれるだろう。一つは勉強しないからダメなやつ、もう一つは勉強してもダメなやつ。俺はその両方だったんだよ。つまり、勉強しないし、したとしてもてんでダメ、点数だって赤点ぎりぎりくらい。それで、父親に殴られてそれを母さんが止めての繰り返しだったんだ」
「母親はなんと言ってたんですか」
「何も言わなかった。そして、高校三年生の時。大学いくか就職するかで悩んだけど、俺はすぐに就職した方がいいって思ってたんだ。勉強なんてもう御免だって思ってたし。母親も俺の考えを尊重してくれていた。一方の父は大学に行けと言っていた。でも、俺はある日見つけてしまったんだ」
俺は唾を飲みこんだ
「大学の大量のパンフレットだ。最初は熱心に大学を勧めていた父親のものだと思った。でも聞いてみるとそうじゃなかった。となると、俺は一人っ子だから自然と母親が取り寄せたものだってなるわけだ。よく見てみると、全部俺が受かる可能性のある大学だった。それも教育に関する学部ばかりだった。俺の母は教師でな。だから俺はすぐに母の意図を汲んだんだ。その頃からかな、母が体調を崩し始めたんだ。そして、父親が無理して病院に連れていって即入院だ。大腸ガンだった」
先生は足を組みなおした。
「結構母親は愛想がよくて、学校でも人気だったらしい。最初はいつもと変わらないくらいだったけど、どんどんやせ細っていったんだ。そして、いつしか呼吸器がつけられて会話ができなくなった。俺はびっくりして言葉が出なかった。大きな機械に繋がれてる母親を見て、ドラマみたいに思えて現実味を感じられなかったんだろうな。でも、俺は母親に一つだけ聞きたいことがあったんだ。あのパンフレットのことだ。つまり、俺に教師になって欲しいのかどうか。でも、俺は情けない怠け者でさ、聞くことができなかったんだ。聞いてそうだと言われても教師になれる自信が無かったんだ。そのままじりじりと時間が過ぎて容態は悪化していった。そして、高校三年の夏前に母親が死んだ。でも、俺は最後まで聞けなかった。父親に聞いたら、父親も知らないと言っていた。母の胸の内を誰一人知らずに母はいなくなった。俺は当時、結構やんちゃしててゲーセンいったり友達の家で飲み食いしたり散々な毎日だったんだが、きっぱりやめた。全く面白くなかったからだ。俺はやったこともない勉強を始めていた。思えば迷惑ばかりをかけた母親への罪滅ぼしみたいなもんだったのかな。俺は起きてる時間の全てを勉強に当てたんだ。俺はバカだったから、わからないことはすぐに先生に聞いた。参考書の解説見ても殆ど理解できない程だったからな。でも時間がものをいって、二か月後にはもう成績上位だったんだ。父親と教師には随分褒められたが、俺はなんとも思わなかった。大学に受からないと意味がなかったからだ。そして、俺が、教師になっていることからわかる通り、俺は大学に合格し、教師になった。俺は教師になったときに達成感と共にひどい脱力感を覚えていた」
「母親がいないからですか?」
「それもある。母親のために教師になったのに、当の母に見せることができなかったんだからな。でも、端的にいうと何をしていいかわからなかったからだ。君が期待って言っただろう。その期待が一切なくなったんだ。俺は母親が期待していたから教師になったのに、どんな教師になればいいのかっていう期待はわからなかったんだ。ここで俺は思った。期待っていうのは世間、自分にとっての恐らく正しいと思われる道筋の一つだって。父親も、親戚も教師になったからもう立派だって何も言わなくなった。それ以上期待されなくなったんだ。最初は教師になったものの、何をしていいかわからないし、虚無感に襲われた。でも、俺は一つだけ変えたことがあった。俺は俺自身に期待するようになったんだ。俺は教師になって母親の後を追っていた。だから、俺は立派な教師になれるように俺に期待してそうなれるように努力した。母親という目標があるのは幸いなことだと思う。母親はいないが、俺はそういう意味でとても恵まれている。しかし、君もまた、恵まれているんだ」
「俺も?」
「あぁ。成績優秀で大手に就職するんだろう。自分の本当に好きなもの、世間の評価や流れを気にしない君自身のこと、それを考える時間が君にはまだある」
先生にそういわれて俺は大きな間違いに気づいた。俺は世間、親、期待に頼られていたんじゃない、頼っていたのだと。自分の道筋を簡単に引いてくれる方法を求めていたのだと。自分で考えることを放棄していたのだと。
「俺の本当にやりたいこと…」
「色々なことをすればいい。君が白紙のプリントを提出したように、常識から外れて、自分の意志で行動してみることも必要かもしれないな」
自分の専攻していた学問、単純な趣味、これまで記憶してきた多くの情報が飛び交う。そして、俺は先生に言った。