3-38 再生とあの日の真実
こうして、俺が家族をいっぺんに失ったあの事件は、事件とならずに幕を閉じた。
その日のことは、俺たちだけの秘密にすることになった。井岡と母さんの過ちも、そして俺の凶行も。父さんへかけられた俺の電話は、俺が付き合っていた彼女に振られて一時自暴自棄になっていたという事に落ち着いた。全くもって不名誉だが、父さんの仕事中に電話をしたのは俺だ。
井岡は持っていた拳銃を分解しゴミの日に捨てると、自分の家に帰り、父さんたちに支えられながら社会復帰への一歩を踏み出した。今は働きながら、資格の勉強をしているらしい。
母さんは時折悲しそうな顔を見せるが、それでも以前と比べて笑うことが増えた。父さんへの気後れがなくなったのか、父さんと話すときの楽しそうな顔は、見ているこちらにもプラスの感情を伝播させる。
だが俺はというとあれから母さんの顔をまともに見れなくなっていた。一時の気の迷いだったとしても過ちを犯してしまったこの人に、どう向き合えばよいか分からない。しかも、俺はこの世界でも母さんを追い詰めてしまったのだ。どんな顔で接すればよいのだろう? 時間が解決してくれるのだろうか?
同じようにわだかまりを抱えている衣知佳と同じように、母さんと口をきかない日々がしばらく続いた。
このままじゃいけない。そう思ったのはすっかり静かになってしまった食卓で、父さんが悲しそうに俺たちを見つめているのに気づいた時だ。
父さんへの義理とかそんなんじゃない。でも、これじゃああの時父さんが俺たちに頭を下げてまで通そうとした思いが無為になる。あまりにも不憫だ。
それから、俺は母さんの顔は見ないままだが、家事や調理を手伝うことにした。父さんの嬉しそうな表情と、衣知佳の思い詰めたような表情、そして確認の出来ない母さんの何らかの表情を受け止め、日々は過ぎた。
「凛太郎。いつもありがとう」
「ん? ああ……別にいいよ」
そんなある日のことだ。いつものように二人で朝食の準備をしていると、キッチンの入り口に立つ影に気づいた。
衣知佳だった。手を後ろ手に組み、少し困ったような笑顔を俺たちに投げかけている。
「ねぇ。よかったら、私も手伝ってもいい? ……お母さん」
母さんが息をのむ気配を感じて、俺は振り向いた。
水仕事に濡れた手のまま口元を覆い、母さんは泣いていた。
その瞳の濡れた輝きがこちらに向けられ、俺はそれに射竦められる。その途端に、俺の頭の中は走馬燈のごとく巡りゆく思い出たちに埋め尽くされた。
少し目を離せば知らない場所でもどんどん行ってしまう小さな俺の手をずっと握っててくれたその手を。夕焼けにバイバイしなくちゃと言ってくれたその声を。小学校入学の時に家族写真を撮るときに、俺に寄せてくれた頬の温もりを。中学・高校受験の時に半端者だった俺に付き合ってずっと夜食を差し入れてくれたことを。俺が父さんに叱られその目に優しさを見出しているときに、母さんの目も同じように俺の目を優しく見守っていてくれたことを。
どうして俺は、父さんだけを見ていたんだろう。井岡が来たとき、何故俺は母さんを信じてあげられなかったんだろう。
この人は、ずっとずっと俺を愛してくれてたじゃないか。
「――さん」
呼びかけた言葉が、うまく音にならない。
「お母さんっ」
俺が言いたかった言葉は、衣知佳に引き継がれた。
母さんの胸に衣知佳が飛び込むのに続くように、俺が二人の肩の間に額を挟むように取りすがる。
「お母さん……ずっと冷たくしてごめんなさい」
「いいの、衣知佳。私が悪かったんだから」
「ごめん、母さん。俺、母さんを信じてあげられなかった。母さん、ずっとずっと頑張ってたのに」
「凛太郎。その言葉だけで十分よ。ありがとうね」
三つ巴ですすり泣く俺たちの背中を、二つの大きな腕がぐるりと包み込む。父さんの、大きな大きな手だ。夏の暑気はまだまだ残っているはずなのに、俺を包み込む三人の体温はとても快く温かかった。
俺たちは、また一つになれたのだ。
それにしても、と思う。この事件はそもそも母さんが井岡に暴行され、父さんが井岡を殺した事件のはずだ。しかし、俺が実際会った井岡の姿は、誰かを殺したり、暴行したりするような種の人間ではありえなかった。あの新聞記事が嘘をついているとは思えない。だとしたら、何故あんな悲劇が俺の以前いた世界で起きたのか?
俺は、あれから自分なりに考えた。そして、あの時に彼らがとった行動、口にしたこと。それらを総合して、一つの仮説を作り上げた。
俺にラインでけしかけられた父さんは、真実を知ろうと母さんの行動を探る。直に、井岡典史にたどり着く。
しかし、お互いの思いのすれ違いから、拳銃で母さんが自殺する。その銃が井岡の残していた銃か父さんの拳銃かははっきりしないが、ここでは井岡説を採用する。
その時井岡は、母さんの手から拳銃を取り、自分が殺したことにしてくれ、と父さんに提案したのだ。警察官の妻の不倫の果ての自殺ではなく、暴力団員の卑劣な凶行という話を作り上げるために。
死後暴行は、それを裏付けさせるための演出だったのだ。井岡は、警察官としての父さんの将来と、残された俺という子供のために、泣く泣く死んだ母さんの、かつて愛した人の身体に拳をふるったのだ。演出の最後に、父さんの手でこの世を発つ覚悟で。
ショックと、怒りで、混乱した父さんの感情。そこに、子供の未来というキーワードを与えられた、井岡の提案。
俺が以前いた世界の父さんは、井岡を撃った。そして、家路に着く途中、自分が大切にしていたものを守れなかったことと、これからの事、色んなことを考えたのだ。どういう顔をして息子に向き合えばいいのか、悩んだに違いない。いっそ無理心中までしてしまおうかとも。
父さんは自室で横たわる俺を、悲しい目でじっと見つめていた。
俺は思う。父さんが俺を置いてみんなの元へ行こうとしたのは、俺の目を見た瞬間なのだと。
かつての親友と同じ目を持った俺を、殺せなかったのだ。
自分の大切だった親友を、もう一度殺すことなど出来なかったのだ。
みんな、弱くて、優しすぎたのだ。




