1-6 記憶
翌日、本棚の一番下の列にしまってあるアルバムを取り出した。
その中の一枚の写真。小さい頃、母方の祖父の家に遊びに行き、その帰り際に撮った写真。曇り空の白さが目立つ片田舎のプラットホーム。そこにはネクタイとカーディガン姿の祖父を一番左に、俺たち家族が思い思いのポーズで写真を撮っている。
俺はその写真を覚えている。何故なら、祖父との仲は、その小さい頃の思い出それっきりになってしまったからだ。俺の叔父がパチンコで身を持ち崩し、それに見かねた祖父が父親に金の無心をしたのが縁の切れ目だった。父はその申し出を突っぱね、母は実家に帰ってくるよう迫られたが、俺の事を思ってなのか、この家に残ることを選択し、親子の縁もそれっきりとなった。
俺は一時期、アルバムを開いてその写真を何度も食い入るように見ていたのだ。あたかも、その頃のみんなが幸せだった思い出を掘り返すかのように。
だから、はっきりと言える。俺が変身ヒーローらしきポーズをとっている後ろで、カンフーアクションのようなポーズをとっている女の子。衣知佳。
彼女は、この写真に存在していなかったと。
気配を感じて顔をあげると、衣知佳がいた。リビングのソファから立ち上がり、威嚇するような、それでいてどこか寂しさをはらんだ目付きで俺と膝の上のアルバムを交互に見ている。
「本当に忘れたの」
衣知佳の問いに俺は黙って頷いた。
「どこまで覚えてるの」
覚えてるままを話した。
「本当に突然ね。昨日まで私のこと覚えてたんだよ」
覚えてた? それはどういうことだろう。
たずねると、衣知佳はいよいよ可哀想なものでも見る目で俺を見た。信じてくれたらしいが、そういう顔をされると複雑だ。
「意気地無しで、何に対しても分かったように斜に構えてて、プライドが高い上に自分本位。最低な兄だったよ」
相当な言われようだ。だが、俺は自分の知っている昔の俺を思い出していた。それはきっと、衣知佳が知っている俺の知らない俺とあまり差異はないだろう。
俺は、衣知佳の言葉に無言で相槌をうち、彼女が俺を一通り評したのを確認すると、ごめんな、駄目な兄貴で。とだけいった。
「いや。こっちこそごめんね。記憶がなくて凛にいも困ってるのに、叩いちゃった。でも本当に、凜にい様子が変わったね。優しくなったというか、すごく落ち着いてる」
衣知佳が表情の固さを解いた。笑った目尻と下瞼によったしわが、父さんにそっくりだった。
俺はそこに、何よりも彼女が妹であることの証を見出だしたような気がした。
俺は父さんの目が好きだった。叱られたとき、人が話してるときは目を見なさいと言われた。濡れた瞳であの人と向かい合うたび、父さんの瞳がいつも迎えてくれた。
手と口がいくら俺を叱咤しようと、その両目は俺を優しく抱きしめていた。
俺は父さんが好きだったが、顔はついぞ似ることはなかった。母親の、整っているがどこか硬質な表情に、ジゴロのような崩した甘味をのせたような顔。それが俺の輪郭に貼り付けられていた。
「お父さん、今夜は帰れないんだって」
母さんが台所で冷蔵庫の中をいじくりながら独り言のように言った。
「父さんは頑張ってるからね、しょうがないよ」
事実その通りだった。父さんは警視だ。事件が起これば、家には帰れないだろう。あの人は、この国と、俺たちのために戦っているのだ。俺は父さんが、誇らしかった。
「へぇ」
俺のそんな気持ちを知ってか知らずか、衣知佳は冷ややかに母の言葉に答えた。
「お父さん忙しいでしょ。私、今から島山さんのところへメロンを返しに行こうと思ってるのよ。でもそのままじゃちょっと申し訳なくて、お話もしていこうと思うの。帰りは遅くなっちゃうから、二人とも自分達でお弁当買っておいて食べてくれない? お金、おいとくから」
「そんな話してくれなんて言った? 行きたければお金置いてさっさと行けばいいじゃん」
突然、衣知佳は爆ぜるような激しさで母に言葉をぶつけた。
「衣知佳、あんた親に向かってなんて口の利き方するの!」
「へぇ、あんたまだ自分が親のつもりでいるんだ」
「どういう意味よ」
「自分の胸に聞けば?」
「お、落ち着こう二人とも。ストップっ」
遠目ににらみ合う二人の間に割って入る。突然のことに俺は、喉のどこかが栓をされたような、かすれた声しか出てこない。
母はテーブルに二人分のお金を置くと、黙って家を後にした。衣知佳も母から背を向けるようにして、彼女の部屋に引き上げる。
「一体どうしたんだよ、衣知佳」
「入らないで」
追いすがってノブに手をかけた俺の動きが止まる。ゆっくりとノブから指をはがすように手をのけて、俺はドアから一歩下がった。
「分かった。ごめん」
「凛にいは謝らなくていいよ」