3-16 downfall
俺の人生の転落は、そこから始まった。
身支度を済ませ、自分の分の食事を作って済ませると、リビングを占拠してそこで終日勉強を始める。
「凛太郎、グズグズしてないで早く学校へ行きなさい」
「うるせえ、お前に指図される覚えはねぇよ」
「親に向かって何て口の利き方をするの」
「口の利き方どうこう言う前に、自分の身の振り方でも考えとけ、クソアマっ」
言葉の使い方がこれで正しいのかは微妙なところだったが、少なくとも母さんの心を突き刺したようだった。
無言の根比べが連日続く。父さんが築いた居場所であり俺が一番安らげる場所であったこの家の中を、訳の分からない男が土足で踏み入れるのが我慢ならなかった。針の筵のような毎日の学校生活を過ごすよりも、こうすることがとても有意義のあることに思えた。父さんの居場所を俺が守っているんだと。
今思えば母さんに対する怒りも真実だが、俺は目の前の現実から理由をつけて逃げたかったのもあったろうとも思う。だが、俺は行き着くところまでそれと向き合うことはなかった。
ラインで父さんにプライベートチャットを送った。母さんが男を家に連れ込んでる。どうにかした方がいい。俺は父さんの味方だから。そんな言葉を立て続けに送り付けた。最初は「まさか」「馬鹿な事を言うんじゃない」「お前はちゃんと学校に行くんだ」と一蹴されたが、やがて「今は仕事で家に帰れない。お前が一番つらいだろう。すまない」と信じてくれるようになった。
俺がリビングを占有してからしばらくすると、母さんの行動に変化が起きていた。ぶつぶつと蚊の鳴くような愚痴をつぶやいたり、自分の分のご飯を作っているときに、突然さめざめと泣きだしたりした。俺はそれをざまあみろと無言でほくそ笑んだ。きっと父さんから責められてるんだと思った。
ここは俺たち嘉手島家の居場所なんだ。出ていくなら裏切り者のあいつが出ていくべきなんだ。おれはその言葉を呪詛のように何度も繰り返し、他のことは何も考えまいとテキストと参考書を解くことに没頭した。
母さんが普段とは違う時間帯で外出するようになった。きっと件の男と会うのだろう。尾行して証拠を写真に収めようかとも思ったが、母さんは自分の車を使っていてそれは果たせなかった。それでもいい。ここは守られているし、俺がこうしているのも、父さんがあいつに三行半を突きつけるまでだ。
そしたら、俺も学校に行こう。そしたら――
そんな日々が一月ほど続いただろうか。
父さんから、深夜過ぎ、チャットが届いた。
終わった、と。
お疲れ様でした、と俺は返事をする。
既読がついて、俺は、自分みたいな意気地なしでは絶対警察は務まらないな、父さんは立派な人だと改めて思いなおし、リビングから勉強道具を撤収させた。父さんの時間と空間までリビングを占有することはない。引きこもっているのも今日までだ。
母さんは昨晩から見ていない。こんな状況になっても、男と一夜を過ごすなんて腐りきってる。
自分の部屋で横になっていた俺はいつの間にかうとうとしていたようだ。人の気配に気づき、目を開ける。
父さんがいた。
その両手が俺に向かって伸び、両肩を掴む。鎖骨の上あたりに乗った太い親指が、そこだけ妙にぬくみを感じた。
学校に行ってなかったことを叱られるんだ。そう思って、俺は「ごめんなさい」とだけ言って父さんのなすがままにした。
父さんと目が合った。
その目は、泣いていた。
その瞳のはかなげな光に応えるように、俺の目はたちまち沁みるように痛み出した。瞬くと、父さんの姿がじんわりとにじむ。それでも、あの優しい目元はくっきりと俺の目と心に焼き付いていた。
しばらくの間、俺と父さんは見つめ合っていた。父さんの目からこぼれた涙が、俺の頬や鼻筋に落ちて流れていく。
父さんは俺から手を離し、静かに自室へと帰っていった。俺はその時の父さんの眼差しを今でも忘れずに、衣知佳の目からもそれを見て取れるほどに、鮮明に脳裏に刻み付けることになった。
翌日、父さんが自殺したからだ。




