3-1 準備万端
「嘉手島課長ですね、この間はお疲れ様でした。先日ご一緒いたしました益宗の方でございます、いつもお世話になっております。突然で、しかもこうして電話でのやり取りでこんなことを申し上げるのも恐縮なのですが、是非折り入ってお願いがありまして――」
「お話中申し訳ありません。私、正太郎の息子です。正太郎は今席を外しておりまして、戻り次第こちらからかけ直すように申し伝えます」
「あ、息子さんでしたか。いや、声がそっくりだったものでつい。ごめんなさいね、驚かしてしまって。いやぁ、話し方もしっかりして落ち着いた息子さんだねぇ。うちの娘と来たら――」
お世辞にお世辞で応えて、固定電話の受話器を置く。父さんがトイレから帰ってきたので用件を伝えると、テーブルに置いていた自分のスマホを取って指を走らせる。
「はい、嘉手島です。あ、どうも! いつもお世話になっております。あ、こちらにもお電話して頂いてたんですね。すいません、ちょっと離れておりまして。……はい、はい。あ、そうでしたか。ええ、いやそうだったんですか。――ええ。もちろん、そういう事でしたらあいつも喜ぶと思います。いえ、こちらこそよろしくお願いします」
帰省前日の嘉手島家の朝。
父さんたちの担当していた殺人事件の犯人が先日捕まり、父さんはやっと警察署の長いすし詰め生活から解放された。俺たちは父さんの労をねぎらい、母さんは帰ってきた父さんへ手製のご馳走をテーブルいっぱいに並べてふるまった。
そんな母さんは今日は台所に立ち、朝食の準備をしながら俺たちの様子を静かに自分のスマホと交互に見ていた。
明日向かうおばあちゃんの家は、海にも山にも近い豊かな自然に溢れたところだ。父さんは生来アウトドア派で家族を引き連れてあれこれやるのが好きな人だ。俺もどこに連れていかれるか分からない。入念な事前準備をしておかなくては。俺は65サイズのボストンバッグの口を開き、たたんでいためぼしいものを詰め込んでいった。水着。伸縮性トレッキングポール。浮き輪。ビート板。スパイクブーツ。釣り竿。スケボー。
「……凜にい、それ全部持っていくの?」
いつの間にか横にいた衣知佳が俺が色々バッグに詰め込むのを見てぽかんと口を開けている。
「ああ」
「全部使うの?」
「……分からない。父さんの気分次第」
「私だったらお父さんがやりたい分はお父さんに用意させるけどなぁ」
「だったら一人分しかできないからな。そうなると父さんも可哀想だろう」
「えーっ。ほんと、凜にいはお父さんが好きなんだね」
衣知佳が俺の顔を見てぷっと噴き出した。俺も衣知佳を見返して微笑む。我が妹ながら形の整った顔だとは思うが、やはり俺はその笑ったときの父さんにそっくりな目元が好きなのだと、改めて再確認した。
「それはそうと衣知佳、お前は何を持っていくんだ?」
「私? 虫よけと、デオドラントと、充電バッテリーと、トランプと、漫画」
「泳がないのか?」
「泳ぐ? あ、いいねー。可愛いやつ用意しとこ。凜にいは何? どんな水着?」
どんな水着も何も一着あれば十分だろう、と俺のバッグを開いて中を覗き込んだ衣知佳にそう言おうとしたら、突然衣知佳が破顔して背をのけぞらせた。
「えー何でー! 浮き輪あるし、浮き輪」
手を叩いてなおも笑い続ける衣知佳に、俺は憮然とした顔で冷ややかな視線を送った。
「ごめん、ごめん。でもさ、あんなに学校でかっこよかった凜にいが金づちって、世の中変な形でバランス取れてるなぁって思って」
「もし俺が浮き輪がなければ、沖に流されて死ぬかもしれないんだぞ。浮き輪様を馬鹿にしてはいけない」
俺が知った風な顔で一説ぶつと、衣知佳はかみ殺したような笑顔で手を横に振った。
「だめだめ、お父さんが真剣に話してたよ。浮き輪だけつけてても、離岸流に入ったら帰って来れなくなるんだって。岸に平行に泳いでいけば抜けられるけど……って、そもそも泳げなかったね」
そう言って衣知佳は腕組みをして俺の顔を値踏みするような目で見つめてうーんとしばらく唸っていたが、やがてポンと手を打ち合わせ、俺の肩を叩いた。
「今日特訓しよ。あたしが教えてあげる」




