油彩画「枝垂桜」
今日は私ひとりのはずだった。
わが校の美術部員はとても少ない。私が知っている範囲で私以外4人、そのほか幽霊部員の先輩が…何人かいるらしい。会ったことはない。レギュラー陣は今日はみんな来ないと言っていた。よって、終業式翌日の午後、美術室は私ひとりの貸し切りとなる。あ、顧問の先生が3時ごろ来ると言っていた、忘れてた。
職員室からいつものように鍵を借り、階段を上って3階の美術室へ向かう。
グラウンドには部活動の生徒たちが多くいたが、校舎に入ってからは生徒の姿を見ない。職員室の先生もほんの数人だった。
すっかり解放感に浸った私は、着いたらまず買ってきた苺ミルクを飲もう、と少し浮かれながら鍵を開けた。
美術室のカーテンはみな開いていて、北向きながらも光が入って来ていて室内を明るくしていた。今日は快晴。
私はいつもの机に荷物を置き、コンビニの袋を漁った。苺ミルクのパックを取り出し、ストローを抜きながらふと、窓の方を再び見た。
すると窓の向こうに、人の上半身が見えた。外を向いている制服とは違う服の男の人…
でもここは3階、それにこの窓の向こうにベランダはない…
男の人が振り向いた。
私は驚いて短い悲鳴をあげた。
「ああごめんね、驚かせちゃったね」
男の人が言った。優しい響きだった。
よく見ると、その人は窓のすぐそばに立っているだけだった。逆光で足の方がよく見えなかったようだ。
「何か落としたよ」
男の人の声にはっとして下を見ると、苺ミルクのパックが床に臥していた。驚いた拍子に手を放してしまったらしい。
それを拾い上げながら、私はなんだか恥ずかしくなった。
「君の絵を見たよ。ロビーに掛けられたやつ」
男の人が言った。
私はたぶん赤面したまま、その人の顔を見た。
知らない人。
でも、どこかで会ったことがある気がする。どころか、よく知っている人のような気さえしてきた。そして…とてもきれいな顔立ちをしているのに気付いた。歳は高校生の私より少し上に見える。
「あの…桜の木の絵ですか?」
「そう」
その絵は、去年入学して間もなく描いた、裏庭の枝垂桜の油彩画だ。
この美術室の窓から見えた桜が気になって、近くまで行って何枚も写生した。中々思うように描けないうちに、花が散ってしまった。撮っていた写真を頼りに、夏休みにやっと仕上げた、満開の枝垂桜だった。
「…少し暗くなかったですか?」
私は思わず、その人に訊ねていた。
絵を見た先生も、部員たちも友人も、みんなそう言ったから。
私としてはそんなに暗いと思わないのだけれど、花の色が暗いとか、背景の色が黒っぽいとか、あまり評判のよくない絵なのだ。だが、ロビーに飾る絵を探してこれを見た校長先生は気に入ったらしく、目立つ正面の壁に飾られてしまったのだった。
「確かに華やかではないね。でもそれがいい」
男の人はそう言った。そして窓の外を見、続けた。「『花は明るいものだ』『桜は華やかであるべきだ』…人はそう思ってるようだけれど、実際はそんな単純なものではないよ。生き物の生き続けるさまは…ただ淡々と、命を繋げる作業なのだよ」
「命を繋げる作業」
私が繰り返した言葉に、男の人は振り向かずに頷いた。
「地中から養分を吸い、幹を逞しくして枝を伸ばし、葉を広げて花を咲かせる…そんな営みを毎年繰り返しているとね、よい花を咲かせたと思う時もあれば、よくないなって思う時もある。苦しく思う時さえあるんだ。…あの絵は、そんな時の…」
こっちにおいで
そう言われ、私の体は操られるように動き出した。
男の人が私を見た。
「よくわかったね、苦しいのが」
「苦しそうだと思ったわけじゃありません」
「思わなくても感じたんだ、そうでなきゃああは描けない」
「わかりません」
「褒めているんだよ、他の生き物のことなんてわからないのが当たり前だから」
私はその人のそばまで来ていた。離れて見るよりずっと、私より大きかった。
「人は花を美しいと思う、ならば花は人を美しいと思うかな」
じっと見つめられて問われた。
「わかりません」
「わからないことが多いのだね。人は。誰に訊ねても同じ。もっとよく考えてよ。…美しい花を咲かせたいならばどうしたらいい? 養分が足りないのだよ。ならば美しいものを糧にすれば、花もまた美しく咲けるのだろうか。健やかなものを糧にすれば、木もまた健やかになれるのだろうか。どう思う? 人は美しいものなの? 私にはそうは思えないんだ、でも人を養分にするとよい花が咲く。どうして? 教えてよ。ねえ?」
私は怖くなっていたのだと思う。
下を向き、首を振った。
「そうか。仕方ない。また持ち越しか」
頭のすぐ上でその人の声がした。次の瞬間、体全体を押されたような感覚があり、私は床に倒れ込んだ。
すぐに重みを感じて見上げると、その人が私の体に乗っている。
「桜の木の下には人の死骸が埋まっている、桜はそれを養分にして花を咲かせる…そういう言葉があるらしいね。ねえ、人は自分たちの死骸にそんな力があるなんて事をよく知っていたね」
私は苦しくなってもがいた。
「この言葉、きみの絵を見て思い出したんだよ。すっかり弱ってしまったけれど、まだ間に合うよ、今なら…」
息もできなくなった。
どうなるんだろう私。
かすむ意識の中で、男の人の顔が体が、茶色く筋張ってくるような気がした。
その両手が私の体に触れると、体じゅうの血がそこへ吸い込まれてゆくのを感じた。血がなくなって空洞の出来た体に、細い針金のようなものが差し込まれ、伸びていった。
そこで意識が飛んだらしい。
次に気がつくと、私は引きずられていた。外のようだ。ぼんやりと青空のようなものが見える。
と、急に暗くなった。空の代わりに木陰のような色が…それから黒い色と土の匂い。
はっとして顔を上げた。
私は美術室の扉の前にいた。右手には鍵を握っている。左手には荷物。
周囲は静かだった。階下で人の声がした。吹奏楽の音も聞こえる。
急に体が震えだした。私は一度、ここへ入った。そしてあの人がいた…
私は体じゅうを震わせたまま、再び鍵を開け、中へ入った。
誰もいない。私にはわかっていた。あの人は間に合わなかったのだ、と。
養分にされかけた私は難を逃れたのだ、と。
窓から見える枝垂桜は弱々しい。去年より。私は写生をしていて、この木の命がもう長くないことに気付いていた。
どうしてそんなことに気付いたのかは、自分でもわからない。
そんなことができるから、あの人は私を養分に選んだのだろうか。
人を養分にして生きてきたのだろうか。
だとしたら、あの木の下には…




