契約
ロイは朝が苦手だ。起きられない。彼は寝つきが悪く、ベッドに入ってから眠るまでの時間が長い。その時間は一定だから、夜ふかしをすると明け方まで眠れないこともざらだった。睡眠時間を確保しようとでも言うのか、体は昼までの眠りを欲する。だからといって本当にそうしていては仕事も成り立たないので、大体は日が昇ってから起き出す、ということになる。ちなみに夜明け前に自分の意思で起きたことはない。
その彼が、こんな時間に目を覚ましたのだ。まだ夜も明け切っていない。外は薄青い冷えた空気が沈んでいる。何かあるに違いないと、軽く身支度をして、何となく中庭に出てみた。無意識の行動だったが、きっと人の気配がしていたのだろう。そこで、ロイはあの子供を見た。薄暗く冷えきった外気の中で、その子供はただ立っていた。うつむくことも、空を仰ぐこともなく、力むことも、反対に脱力した様子もなしに、ただ汗を流し肩で息をしながら、そこに立ててある太い丸太に視線を注いでいた。そして唐突に足を踏み出し、拳を突き出した。地面に振動が来るほど、重い殴りだった。子供は丸太に拳を突き立てたまま、しばらく息をついていた。地面を睨んで露になったうなじを、さらりと汗が伝い落ちる。また一歩離れ、蹴りを入れた。やはりなかなか鋭い蹴りだった。みしみしと小さく丸太が軋んで、根元付近から亀裂を広げて折れた。子供が小さく声を上げ、慌てたように辺りを見回した。柱に寄りかかったロイを認めて引きつった笑みを浮かべる。
「や、あの、これは、おはようございます」
と駆け寄ってきて誤魔化すように笑った。
「ええと、……折れちゃった。で、でも宿の人には内緒にしておいて。すぐ直すから。ねっ、ねっ?」
すぐ直すって……とロイは折れた丸太を見やる。ただの丸太だ。切り株といっていい代物で、乾燥しているわけでも、中が空洞なわけでもない。少なくともロイには持ち上げることもできないのは確実だ。この子供と二人がかりだとしても、持ち上がらないだろう。そもそも手伝う気などさらさらない。腕を組んだまま見ていると、子供は丸太のそばへ行くこともなくロイの隣で丸太の方へ手をかざした。すい、とまるで小枝が持ち上がるような軽さで丸太が持ち上がった。魔法か、と苦々しく思う間もなく根元のほうに流れ、断面の向きを探す。驚くロイの横で、子供が丸太から視線を外すことなく口を開いた。
「ロイ兄はどこへ向かっているの?」
断面を探して丸太をゆっくりと回転させる。
「ああ、違うかな。どこへ逃げてるの、って聞くのが正しいのかな」
「別に逃げてるわけじゃねえ」
ようやくぴったりと合う向きを見つけ、丸太の断面の繊維を結びつける。
「やらなきゃなんねえことがある。その障害として追われている。それだけだ」
言い終わる刹那、ロイは目を見開く。まずい、口が滑った、余計なことを――。
「僕もだ」
予想外の言葉に把握ができず、ロイは子供に目を向ける。子供はロイの方を向くこともなく、静かな目で丸太を注視しながら続けた。丸太は中程まで戻っている。軋みを上げながらも元通りに。
「僕もね、追われているのは障害でしかない。別に法に触れることなんて何一つしてないもの。もし殺されたら暗殺……いや、それもちょっと言い方が違うかな。元から存在していない人物として処理されるんだろうね。……それでも」
丸太が完全に直った。子供が腕を下ろす。驚いているのは、今や魔法を使えることに対してではない。瞬いて横目で見ているロイを振り返ることもなく、子供はじっと治った丸太を見ていた。その静かな目に、朝の光が映りこんでいる。
「それでも諦めてしまうわけにはいかない。どれだけ追手から逃げても、やらなきゃならないことから僕の都合で逃げ出してしまうわけにはいかないんだ」
そう言ったとき、ひどく真摯な空気が立ち込めた。その気配に圧倒されて彼が立ち尽くしていると、不意に子供がにっと笑った。
「……ね、ロイ兄。ちょっと取引きしない?」
急な話の展開にロイが戸惑っていると、子供は更に笑みを深くしてロイの方に向き直る。
「なんの取引きだ」
聞き返すと、明るい笑みを浮かべた。
「君は追われていると言ったね。やらなきゃならないことの障害が追われていることだって。そのやらなきゃいけないことの手伝いをしてあげる。だから僕をその旅に同行させてほしいんだ」
簡単なことだろ?と子供はからかうように言う。ロイは子供をねめつけた。
「お前みたいなチビに手伝えることと思えない。断る」
「えー、えー」
子供はさらに幼い子供のようにじたばたしながら駄々をこねた。そしてふと微笑う。
「ロイ兄がしたいことは何?情報の収集?警備のすり抜け?財宝の盗み?国政に関わる官吏の暗殺?囚人になった仲間の奪取?それとも国を手に入れること?……最後のは確かにちょっと難しいけど、どれもできないことじゃないよ」
あっけらかんと笑って手を差し出す。
「さあ、何をお望みかな?」
茶化した笑顔と演技がかった口調に、ロイは音がするほど強く睨みつける。
「法螺吹くんじゃねぇ、クソガキが。何が狙いだ」
絡め取るように声を出すと、子供は目を逸らしてちょっと笑った。
「狙い、ね……。まあ確かに胡散臭く聞こえるんだろうけど、僕は別に嘘も誇張もしてないよ。準備さえ完全に出来ていれば、どれも簡単なことだ。もし条件が対等でないと思うのなら…そうだね、ロイ兄の路銀も僕が出そう。うん、それくらいしないと確かに割に合わないな」
勝手に一人で納得して、再び手を伸ばす。にわかにロイの心が揺れた。
「路銀……」
知らず知らずのうちにロイは復唱する。ロイは仕事をしていても、自分の目的のためにしばしば時間を割いていたため、所持金は常に少なかった。今はたまたままとまった金が入ったあとだったが、宿を取れずに野宿をすることもざらだった。そうすれば必然的に体力は落ちる。野外だと奇襲をかけられることも多かった。そういえばこの子供に初めて助けられたのも、野宿中に奇襲をかけられたことが原因だったと記憶している。金を出してもらえるなら了承しようか、という甘えた考えは、しかし即座に捨て去った。
「ロイ兄の追っ手を撒くのも手伝うよ」
ロイの逡巡に気づいたのか、すかさず子供が言う。黙ったままなのを不安に思ったらしく、子供の顔も不安そうに歪む。
「ダメなら……護衛とか」
さらに不安そうな表情。そんなにも必死になるのは何故なのだろう。たかが旅への同行を拒否されているくらいで。
「荷物持ちでもなんでもいいから」
今にも縋り付いて懇願しそうな勢いだった。ロイは考え込む。こんな子供だ、邪魔になれば置いていけばいい。荷物持ちでもいいと言っている辺り、自分の荷物をロイに持たせることもないだろう。そこそこ闘えるようだし、いざとなれば盾くらいにはなるかもしれない。
「……路銀、本当に出すんだろうな」
じろりと睨むと、子供はきょとんとし、すぐに笑う。
「もちろん」
だから、ロイがこの子供の同行を許可したのは善意などからでは決してない。利用だけはさせてもらうが、都合が悪くなればすぐに切り離すつもりだった。そんなロイの肚をこの子供が知る由もなく、子供は非常に喜んだ様子だった。まるでもう仲間であるかのように親しげに喋りかけ、始終笑顔を絶やさなかった。
「それでね、今日はロイ兄の行き先に付いていこうと思ってるんだけど、どうかな。明日は僕、一人で行かなきゃならない用事があって……」
「えっ、それは困る」
咄嗟に言ってしまってから己の愚を悟る。子供が口をすぼめて首を傾げた。
「どうして?何か秘密にしたい用事?」
「いや、別に」
目を泳がせながらロイの頭が閃く。
「俺はお前と旅をすること自体は許可したが、馴れ合うつもりはない。昨日お前は黒龍がどういうものだか分かっていた様子だったな。まあほとんど噂に違わない。分かっているんだろう、俺は他人と連れ立って歩くのは嫌だ」
子供はちょっと困った様子で首を傾ける。探っているようにも見えた。
「噂では、――まあ僕が受けた印象だからなんとも言えないけれど――黒龍って、他人は存在すらないって考えてるみたいだった。だからいてもいなくてもお構いなしだし、傷ついてる人がいても、自分で手一杯だから助けられない。自分で完結してるって感じ。……違う?」
ロイはちょっと詰まる。確かにそれは自分の現状をうまく言い表している。噂が意外と当てになると気づいたのもこれがきっかけだ。しかしロイは負けじと言い返す。
「噂ではな。噂ってのはあくまで他人が下した評価でしかない。ともかく俺はお前と道を歩くのは嫌だ」
子供も退かなかった。
「……でも、この取引きを呑んだ時点で、ロイ兄は僕と歩くことが決定するよね。路銀を出すってことは、宿にも同じタイミングで入るわけだし」
「それでも、だ。今日は嫌だ。明日からなら付いてきてもいい。いきなり決まったから、今日の予定はお前が付いてくると面倒になるんだ、色々とな。だから来るな。邪魔だ」
「やだ、行く。そういう取引だろ。約束が違うじゃないか」
「一日くらいどうってことないだろ。少なくとも昨日はお前は一人で旅してたんだし、一人じゃ何もできねえそこらの洟垂れたガキとも違うじゃねえか。素晴らしい、ああお前は立派だ。だから今日一日くらいで喚くな」
「嫌だ、ついていく」
「しつこい!迷惑だっつってんのが分かんねえのかクソガキが!」
「だってやっと了承してもらえたのにそんなのってないじゃないか」
レノンはまとわりついて軽く拳でロイを叩く。息次ぐ間もない言い合いに胸の低いところに重たいものが溜まっていった。
――ああ、鬱陶しいなこの野郎。
「やんのかガキ!てめえそんなに付いて来てえなら、俺に殴られようと文句はねえよな。ぴーぴー喚くなよ」
言いながら殴りかかる。が、その拳は宙を切った。子供は後ろに跳んで間合いを取ったのだ。じっと距離を図っている。
「……ロイ兄。ここは賭けようじゃないか。先に一発殴ったほうが勝ち、自分の思うように今日一日を過ごしていいってことにしない?」
上等だ、と思った。こんなガキだ、昨日は襲撃者たちを躱していたが、ロイから比べればまだあの襲撃者たちもひよっこだった。彼は武族の出。物心ついたときには刀を握り、苛烈な修行も積んできた。実戦経験も長い。負けない。負けるわけがない。油断ではなくそう思うだけの自信がある。驕りではなくそう確信できるだけの経験がある。
「来い」
短く言うと、子供がちょっと笑ってこっちに駆けてきた。虫を捕まえて親に見せたがっている子供のように、軽い足取りで駆け寄る。殴りかかってくるな、と思い身構えたロイの頭上を子供が飛び越す。着地しざま後ろから殴りかかってきた拳を紙一重で避け、踵を返して子供と相対峙しながら後ろへ飛び退って間合いを取る。間髪いれずに飛び出してきた子供の腕をとって投げようとしたが、叩きつける前にもぎ放されてしまった。そのまま転がるだろう、とそこを狙おうとしていたロイは、子供が手をついて衝撃を和らげ、倒立した体を倒すようにして着地したのを見て驚いた。再び向かい合った子供は、ロイの表情を見て嬉しそうに笑う。
「ね?結構使えそうだろう?」
ロイは顔を顰めた。
「まあまあ動けるな。……次はどうするんだ?今のところ俺が優勢だ。防戦一方じゃ俺に一発入れるなんてできねえぞ」
子供は声を上げて笑った。下働きの子供たちが起き出してきて「うあっ、レノンだ!昨日来たってミーナが言ってたけど、ホントだったんだ!」「ミーナは寝ぼけててもレノンのこと間違ったりしないもん」「何してるんだろ」「また喧嘩かもしれない。レノンが多分勝つけどね」「ああ、旦那様にまた寝坊してると思われちゃうよ」「あ、急がなきゃ」と賑やかに言い交しながら走り去っていく。どうやら馴染みの宿らしい。
「とりあえず今みたいなロイ兄の挑発に乗って安易に動かないようにしなくちゃだね」
子供はしばらく思案顔で構えていたが、不意に頷くと正面に突っ込んできた。迎え撃とうとしたとき、ばあん、と派手な音で扉が開き、しわがれた老婆の声が
「そこまでっ!」
と叫んだ。二人は声のした方を呆気にとられて見つめた。全力で突っ込もうとしていたレノンは、今までの勢いに押されて二、三歩歩いてから、前かがみに構えていたロイの腹にぽすっとぶつかる。
出てきた老婆は小柄だった。マントというよりはボロ布と言ったほうがいいような代物を頭から突っかぶっている。布の隙間からチラチラと見える真っ白な前髪の下で、少年のような眼差しが光っていた。そこまで見てとってロイは気づく。老婆の虹彩は白濁していた。
「童が二人」
読み上げるように感情の欠落した声で言って、少し仰向く。
「大きな童は……幼いのぅ。これからも充分、成長の余地がある」
口の中で言ってから首を戻す。
「小さい童は……」
言いかけて、黙った。中庭にゆるりと冷えた風が吹く。長い沈黙の後、老婆は再び口を開いた。
「小さい童は、走っているな。全力で、落としたものもそのままに、走っておる」
「おい、ばーさん、幼いってどういうことだ」
ロイが渋い顔で割り込んだ。老婆は首を巡らせて呵々と笑う。
「深い意味はないわぇ。わしの言っておるは内実の話、そのことを踏まえておったら、お主の場合、難しいことは言っておらん」
ロイは気に食わなげに顔を背けて舌打ちした。老婆はさも可笑しそうにからからと笑った。レノンの方は、時折唸り、首を傾げながら考え込んでいる。
「内実……?走っている?うーん、抽象的だなぁ……よく分かんない……」
「お主の方は、読み難かった。すなわちそれだけ、内実を覆うものが多いということじゃろうな。覆うものを取り去るは、いつの世でもその人本人ではない。気長に待たれよ。いずれ全てを取り去って、お前の内実を見つけてくれる者がおるじゃろう」
ロイとレノンは顔を見合わせる。互いに首を傾げた。
「おばあちゃん。あの、さっぱりわからないんだけど。それ、占い?先視か何か?」
老婆は目を閉じて黙り込んだ。しばらくそうして風に吹かれて黙っていたが、不意に目を開けてレノンを見返す。
「時に童ども。お主らは何をしておった?ただの喧嘩とは違ったようだが」
こちらの問いかけには答える気がないようだった。子供は苦笑して、それから喧嘩?と聞き返した。
「打ち合っておったろう。腹が立って殴り合ったという感じではなかったのぅ」
「あ、そうそう。忘れてた」
言ってその場で跳ね、こつんとロイの額に拳を当てる。
「はい、僕の勝ち。……まあ簡単に言うと、一緒に旅をすることになったんだけどね、ロイ兄が約束破ろうとするから、じゃあ勝負しようって」
平然と話を続けるレノンの襟首をつかむ。
「何これで万事解決にしようとしてんだ。今のは卑怯だろうが。このばーさんが来て一時休戦したんじゃねえのかよ、ああ?」
子供がじたばたと暴れる。手を振り回したとき、子供が中指にはめた、手甲についている銀色のリングが光を弾いて、一瞬眩くなる、その隙をついて子供がロイを振りほどいた。地面に飛び降りるなり踵を返し、結構な力で腹に殴りを入れる。息が詰まった。
「ごめん、今のはちょっと力みすぎた。痛かったろう」
駆け寄ってきた子供の手を振り払う。不意打ちとはいえ、二度も食らった。隙を見せすぎだ。子供だからと無意識に油断しているのだろうか。それとも彼が自信だと思っているのは、実は油断なのだろうか。
「でもこれで文句なしの僕の勝ちだろう?一回目のは確かに自分でもどうかと思うけど、二回目のはロイ兄の隙が原因だから」
にっこりと屈託なく笑う。
――ああ、苛々する。この子供への苛立ちはもちろんのこと、油断を見せている自分にも、それをまあいいかで許容しようとしている自分も。だから今彼が子供を睨むのは、ただの八つ当たりであって、喧嘩などというものではない。喧嘩はある程度親しみがあるか、もしくは初対面でも何か通じ合うものがあればこそ、彼と子供の間には何も存在しない。こんなにも苛立たせられたというのに、子供が何らかのダメージを受けていないことも腹立たしい。苛々して、腹立たしくて、子供相手にムキになる。そんな自分すら情けなく、ロイは憤りを覚えるのだった。