得体の知れない
食堂にはもうほとんど客はおらず、酒を酌み交わすいくつかの塊が散らばっているのみだった。隊商は基本的に朝が早いうえ、そもそも昼が短いこの国では、朝は遅く、夜は早く食べるのが一般的であった。
ここの食事はメニューが変わらない。日替わりでパンの種類が変わり、スープの中身が変わる。メインディッシュのみは、系に偏らず、仕入れた食材で作るから、ロイはここの食事に飽いたことがなかった。
食卓に座るなり、子供はやたらと話しかけてきたが、しばらく生返事を返していると給仕にやってきた娘――受付とはまた別の――と話し込み始めた。
「じゃあ、今度はリバーヌの方まで行ってきたんですか?全く無茶して、もう」
「うん、でもあっちは何か変な感じだったよ」
「……変なこと?ねえ、まさかレノン、あなた首突っ込んだりしてないでしょうね」
「突っ込むと思ってた?はは、ご期待に沿えず申し訳ないけど」
「馬鹿言わないで下さい。……それで?」
「ああ、うん。あっちにはいくつか馴染みがあるんだけど、その馴染みの宿はみんなご不幸があったみたいでね。どこも一様に戸口に赤旗が貼ってあったよ」
赤旗とはもともと凶事が起きた際に助けを求めるための旗で、戦がめっきり減った今では主に身内が亡くなった時のサインとして使われている。
「え?じゃあ、もしかしてまた野宿ですか?」
うん、まあねと笑う子供に、娘は今にも掴みかかりそうな勢いで言い寄る。
「しないって約束だったでしょ。ひと月も経たないのにもう破るなんて」
「だけど、そうも言ってられないよ。仕事でもないのに一晩中起きているなんて、僕にできるもんか」
「それは……だけどせめて民家に宿を請うとか……教会だってあるでしょう?」
子供は笑っただけで、これには応じなかった。それよりも、と長らく止めていたスプーンを、クリームスープの中に戻して口に含む。
「カトリーヌが要らぬ心配を焼いている間に、スープがすっかり冷めちゃったよ。あーあ、おじさんの料理、あったかいうちに食べたらもっともっと美味しいのに……」
残念そうな口調とは裏腹に、子供の顔はニヤニヤと笑みを絶やさない。
「ほらほら、ここはカトリーヌの責任だと思うけどなぁ」
さらに笑みを深めて、上目遣いにカトリーヌとかいう娘を覗き込む。ご丁寧に、スプーンの柄でも、娘が胸に抱いた盆をつついた。視線が合うことしばし、先に目を逸らしたのはカトリーヌの方だ。
「もう。分かりましたよ。何がいい?要らぬ心配のかわりに、極上のケーキでも焼いて差し上げましょうか?」
子供は悪びれる風もなく笑った。
「あれ、拗ねちゃって。……それもいいけどスープ、もう一杯欲しい」
ずいっとスープ皿を突き出した子供は、にっと笑ってカゴからパンを取り、バターを塗りつける。
「そうやって心配ばっかりしてるから、こんな子供にせびられるんだよ」
「分かってますっ。だけどレノンたら、いっつも危なっかしくて、見ていられないんだもの」
足音も高く厨房へと引き返していく娘を見送って、子供は悪党を真似るようににやつく。
「いいねぇ。こういう時期はあったかいものが恋しくなるよね」
芝居がかったその言葉を最後とばかり、ロイは立ち上がった。給仕の娘と子供が煩くしている間に、彼は全て食べきっていた。もう戻るの、聞いてきた声には手を振ることで答え、食堂から出る。子供が戻ってくる前に、愛用している大刀の手入れをしておきたかった。抜身の刀身を見て悲鳴でも上げられたら面倒だし、煩くて堪らない。考えるだけでもうんざりする。
階段を上り、部屋に戻って後ろ手にドアを閉めると、知らず知らずのうちに詰めてしまっていた息が漏れた。自分でも驚くほどの大きな溜め息だった。――気づかぬうちに緊張していたらしい。
暖炉の前に座り込み、鞘から引き出す。刀身が炎に鈍く煌めいた。それを眺めて、ついでに後ろへ向かって
「なんだ?」
と声をかけた。後ろにはいつの間にか人影がある。風が吹き込んできたかのような現れ方だった。背後の気配は、おお、と妙に嬉しそうな声を上げた。
「お気づきでしたか。いやはや、噂に違わずさすがでございますね。突然まかりこしまして、誠に申し訳ございません」
気配は老人の声で茶目っ気づいて答える。
「要件は」
振り抜きもせずロイが短く問うと、老人は居住まいを正すような気配を放つ。
「ここに、レノンと言うお方が泊まってはおられませんか」
あのガキのことだろうか。そんな名前だったのか。
「さあ、知らねえな」
そっけなく答えると、老人の気配がふらりと強まる。
「ですが、ここに十二、三歳ほどの子供が一人で泊まっていると聞いたのです。そのような方は珍しいと思いますが、さて、人違いでしょうかな」
穏やかな声で、しかししっかりと詰問する口調で老人はたたみかける。
「んなこと知らねえよ」
吐き捨てて、ロイは血抜きの溝に紙を当て、細いピックで汚れを拭き取った。
「そこまで入念に調べてあるなら分かるだろうが、俺は同室になったくらいで名を聞き合うような真似はしねぇ。確かめたいなら置いてやるから待っていろ。直に戻るだろ」
「いえいえ、そればかりは」
老人の気配は慌てたように言って、立ち上がる。風圧がロイの背を押した。
「そうですか。レノン様がお泊まりと分かりましたら、また伺うやもしれませんが、どうか、ご容赦を。では、失礼致します」
言うなり気配が音も無く掻き消えた。飛び降りたのかもしれないし、あの子供と同じように魔法を使って音を消して立ち去ったのかもしれない。あるいは魔物か何かで本当に消えたのかもしれないし、ただ音がしなかっただけで普通に立ち去ったのかもしれないが、いずれにしろ彼には興味がなかった。いなくなったのならそれでいい。
それよりも、刀身の傷の方がよっぽど深刻だった。彼の刀は、どういう打ち方をしているのだか、血脂にはめっぽう強かったが、傷や折れには弱かった。刃こぼれした刃先を眺め、指先を置いてみる。何もないのを確認し、次は少し強めに押しつけたが、それでも何もない。再びそれを見て、今度は押し付ける力はそのままに刃の上を滑らせた。ようやく浮いてきた血の粒を見て、彼は舌打ちをした。
「ちくしょう、もう使い物にならねえじゃねえか」
「ホントだ、すごい刃こぼれ。これ打ち直しても使えるようになるかな」
不意に耳のそばで声がして、内心びくりとしたのを隠して背後をねめつける。こんな側まで来ていて、少しも気付かなかった自分が腹立たしい。
「てめえみたいなガキになんでそんなこと分かんだよ」
低く吐き出す。
「ちょっと、なんでそんなに威嚇するかな」
苦笑して、子供は自分の荷を指差す。
「僕も多少は使えるから」
たしかに、子供が指差した先には、使い込まれた槍があった。短槍や長槍と違い、すらりとした印象よりも丈夫そうな印象が強い。かなり造りがしっかりしていることは、槍使いではないロイにも分かった。
「これが本当の宝の持ち腐れってやつだな。槍がかわいそうだ」
鼻を鳴らして顔を顰めると、子供は渋い声を出した。
「ね、……僕ロイ兄に何かしたっけ」
トホホとばかりに肩を落として笑いながら、子供はつぶやく。
「まあ確かに、ね。……前はちゃんと使われてたんだけど。僕みたいのはこういうごついのがちらついてないと、しょっちゅう絡まれて面倒だろう」
暖炉の光に照らされた小さな顔を見ながら、ああそうか、と思う。やっぱりずっと一人で旅をしているのだ。何年も。そうでなければ虚仮脅しの槍を持とうなどという考えにまでは至らない。失敗した経験があるのだろう。不可解な奴だ、とそこまで考えて、先ほどの不可解な来訪者のことを思い出す。
「お前に客があったぞ」
子供はちょっと首を傾けて、すぐにああ、と声を上げた。
「白髪で目が丸っこくて、背の低いおじいちゃんかな?あの人が、どうか?」
「顔は見てねえ。子供がここに泊まっているかと聞いてきたから、俺は名前なんか聞かねえから知らねえって言っておいた」
自分の刀を見ながら言うと、子供はさもおかしげに笑った。
「はは、名前は教えただろ。嘘ついたのか」
ロイは訝って子供を見返す、
「……お前の名前か?……聞いてないだろ」
「……もう忘れたのか……」
肩を落とした子供は、その柔らかげな面をついと上げ、閉まった鎧戸を透かし見るようにする。面白そうに口を歪めて、くすくすと笑った。
「じゃあ、もう居場所が割れてるんだ。……ふふ、さすがだなぁ」
ロイはちらっと子供を盗み見た。追われているのだろうか。だが、子供は逃げているようには見えなかった。不可解だ。分からない。
「あれはなんだ。危険なものか」
聞いたのは、分からないからだった。何が来たのかわからない。対処の仕様もない。対する子供は、そうだなあ、と暢気なものだ。
「うーん、いや。危険なものではないよ。ロイ兄を襲撃、とかはまずないから、安心して」
「だが声をかけられた。覚えられたのかもしれない」
子供は呆気に取られたような顔できょとんとロイを見ていた。
「ロイ兄って意外とよく喋るんだね。もっとこう、静かな感じかと思ってた」
言ってから、ふわりと笑う。安心させるような笑顔だった。
「あのおじいさんは偵察専門なんだ。剣を取って戦ったりは出来ない。襲撃なら兵士だね、三人以上。手紙なら鳥。普段は小鳥だけど、速達の場合なら鷹とか鷲とか、なんていうんだったか、猛禽?荷物は小さいものなら人に馴れた動物とか、魔法でしつけた動物とか、ああ、それは大きい荷物のことが多いかな。あとは……」
「ちょっと待った」
指を折りながらつらつらと数え上げていた子供は、ロイの制止にこちらを見る。そのあどけない顔と相反するような、まるで違う世界の住人のような、垣間見える世界。
「なんだてめえ。何者なんだ」
子供は口元に、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「すぐ忘れちゃうんだね。僕はレノンだよ。今度はちゃんと、憶えておいて」
背中が引きつる。強く――痛いほどに。ロイは初めて脳裏に、怖いという言葉を探し当てた。本当に、怖い。この、陰も裏もない笑顔が。
そんなロイの胸中を察することもなく、子供は明日の自分の予定を(頼んでもいないのに)披露する。市場で必要なものを買いためて、明日一日のうちはこの辺りをぷらぷらするというだけの、ロイにとってはくだらない情報だったが、明日市場に一緒に行こうという申し出を聞いてぎくりとする。そうだ、彼には服を買う予定があったのだ。鉢合わせしたらどうせ付いてくるに決まっている。そんな面倒事には付き合わない。よし、予定変更だ。明日のところは鍛冶屋か武器屋へ行って刀をどうにかしてもらうことにして、市場には近づかないようにしておこう。そしてこんなガキは体も小さく、ソファにもすっぽり収まるのだから、俺はベッドで寝よう。この子供のことだ、どうせ気にはすまい。