二年越しの出会い
彼の名はロイと言った。品のある艶が宿った髪は深い黒で、瞳の色もまた深い紅をしていた。整った顔立ちは目を引いたが、眼光の鋭さゆえに目を合わせて対話するものは少なく、従ってロイという名を覚えている者も稀だった。それで孤高のイメージだけが独り歩きしたのだろう、彼はいつしか黒龍と呼ばれるようになった。彼は武族の出身で、生まれつき身体能力が高かった。そんな彼が二年前、子供に助けられるほどに怪我をしたのには訳がある。彼の追手は彼自身の武族だったのだ。彼がいくら強くとも、同胞たち多勢を相手に無傷ではいられず、あの無様な状況に至ることも多い。それでも普段であれば独力で切り抜けられた。あの時いつもと違ったのは、相手の使った毒だった。いつもの毒ならばどこからでも入手可能な毒だった。だから解毒薬も沢山持っていたが、あの時の毒は、色と質感から察せられる限りでは、直系筋にのみに代々伝わる毒だった。相手は早々に決着を付けたがっているのだろう。――それを、だ。そのごく珍しい毒の解毒薬を、なぜあんな子供が持っていたのだろうか。このリシア国の王と、直系筋以外、目にすることすら許されていない。どちらも、あの子供が王家の者でない限り、関係がないだろうに。毒が一般に出回っていないということは、その解毒薬も広まってはいないということだ。まさかとは思うが、あの少年は王族だったのだろうか。いや、そうだっだとしてもありえない。子息がいない今、あの毒を目にするのは国王のみだ。王家であろうとも、その毒のことを知らないものは多くいる。その上現国王は、御歳十六の年若い少年と聞いた。あの子供は若いのではなく幼い。おそらく十に触るか触らないかと言ったところか。では、なぜ。
彼が足を向けたのは、リシアの中でも北国リシリヒの国境に程近い宿だった。枯葉を踏む音が鮮烈なこの時期、宿は越冬のための品を売る隊商でどこもいっぱいになる。その宿は以前に店主の一人娘を助けたことで顔が通じており、ここならば相部屋としてでも部屋を空けてくれるのではないかとの肚もあった。質素な装飾が施されたドアの取手を引くと受付にいた17、8の少女がつと顔を上げて、そして冷たい目を細めてふわりと破顔した。
「黒龍さん!今年もいらしてくださったんですね」
「今部屋に空きはありますか」
そっけなく聞くと、少女は人好きのする顔でにこりと笑う。
「ちょうど一部屋だけ。今年は初雪が早そうだとかで、みなさん十日ほど早く泊まって行かれたんですよ。」
愛想笑いの綺麗な娘――名前までは知らない――がうつむいて帳簿をめくる。
「ええと、ですけれども…一番小さなお部屋になってしまいますが…」
言いかけた娘を制すように、ロイは言葉を被せた。
「代金がかさまなければどの部屋でも構いませんから」
そうしてあてがってもらった部屋で、服を着替えて洗濯をする。いい加減斬られた繕い目も増えてきた。明日は市場で服を買おう。そんなことを考えながら水気を切り、窓に支える棒に袖を通す。窓を開けてその棒を外へ差し出すようにすると、寒気が一層冷気をくるみこんで部屋の隅にわだかまった。底冷えした空気を吸うと、鋭利な空気が喉を刺して彼は咳き込んだ。悔し紛れにもう一度息を吸い、案の定咳き込みながら竿を引き込んで、代わりに窓の対岸に据えられた暖炉の前にかけた。窓は鎧戸まで閉めた。彼は耐えることは出来るものの、寒さ自体はかなり苦手だった。暖炉の前に椅子を引っ張ってきて座り込んだとき、こつこつ、と控えめなノックの音がして、下働きの少女のあどけない声が
「すみません。新しくお客様が入ってきたので、相部屋として入れて頂けませんか?」
と告げた。先ほどにも言ったとおり、この時期はどこも混んでいる。相部屋はさして珍しいことではなかったし、あの時間に入ってきたロイが先に部屋をとれたこと自体珍しかった。それでロイはおざなりに返事を返す。下働きの少女は後についてきたらしき客に、小声でそれを伝えて下へ降りていった。その音が消えると、あとの客はドアを開けた。戸口に背を向けていたロイは、ついいつもの癖で入ってきた足音に耳を澄まして、内心首を傾げた。足音の隠し方を知っているにしても、あまりに小さく軽い足音だった。まるで――まるで、そう、足音の消し方を知っている子供のような。
そこまで考え至って、ロイははっと振り返った。屈んで荷物を降ろしていた客が、視線に気づいてこちらを振り仰ぐ。その一人で旅をするにはあまりに幼い、線の薄い容貌に、彼は見覚えがあった。二年前彼を助け、それ以来彼がずっと考え続けてきた――。
「あ、……あの時の」
子供も気づいて声を上げる。あの時と変わらぬ明るい紺色の瞳を見て、以前とは違い、何か違和感を感じた。
「よかった。あのあとも気になってたんだ。傷がひどくなってないか」
あの時よりも寸分小さくなったように見えるマントを脱いで、荷物の上にばさっと撒ける。よく見れば、あの時はちょうどいいサイズだった服もかなり大きくなったばかりで、色もデザインも同じものだった。
「あの手当の仕方じゃ動いてるうちに開いたでしょ?大丈夫だった?」
彼はただ驚いて子供を見ていた。幾つもの疑問が一度に噴き出して、頭の中を翻弄した。
「……どうしてお前がここにいる」
その場しのぎに問うと、子供は困ったように笑う。さらに違和感。何が違うのだろう。
「なんでって言われても……。この時期に泊めてもらえるのってここくらいなんだ。特に僕みたいな子供はね」
答えて、とりあえず、と大きく伸びをする。違和感が増す。子供がひとり旅をしていることへの違和感ではなかった。それが分かっているからこそ、どうにも居心地が悪い。
「ご飯食べなきゃ。えっと、にいさんはなんて名前?」
「……『黒龍』。」
呟くようにして答えると、子供は笑いをこらえるような顔をした。ふくれあがる違和感。
「にいさんが黒龍っていう通り名だってことくらい知ってるよ。僕はにいさんの名前を聞いたんだ」
言ってからふと穏やかな笑顔を浮かべる。何だ。何かが決定的に違う。
「僕はレノン。にいさんの名前は?」
彼は強く子供をねめつけ、同時に違和感の原因を突き止めた。
「ロイだ」
答えると子供は何に対してか頷いて、綺麗な名前だねなどと言いながら荷解きを始める。その背中に、ロイは思わず声をかけた。
「怖くないのか」
子供がきょとんと振り返る。そのまっすぐに注がれる目線。違和感の原因そのもの。
「俺のことが」
誰も彼もロイを怖がる。ロイが武人だと知っている者も、そうでないものも。屈強な武人たちが怯んで目を逸らす。道行く家畜が怯え、逃げる。その眼光をまともに受け止める相手など、見たことがなかった。なのに。
「お前は俺が怖くないのか」
ぴたりと目を合わせた子供の顔に、ふと笑みが浮かぶ。彼の背筋がつ、と固まった。
「さて、ね。怖かったら相部屋なんて変えてもらうよ。ロイ兄は僕に敵意がない。敵意がないのに怯える必要はないってことじゃないかな」
影などない、明るいばかりの笑顔だった。それなのにこの寒気はどうしたことか。震える手足はどうしたことか。――俺は何に怯えているんだ。そんな彼の胸中に気づきもせず、快活に言葉を濁した子供はご飯を楽しみに浮かれている。そんな子供を腹立ちまぎれに睨みつつ、行くぞ、とロイは言った。きょとんとする子供を横目でちらりと見、いきなり襟首をつかんで噛み付くように言った。
「飯を食いに行くんだろうが、クソガキめ」
レノンは笑った。少なくとも影も裏もない笑顔に見えた。