出会い
走っていた。彼の目はもう流れ込んだ血で使い物にはならず、左手も痺れが回っていて動かせそうになかった。だがここで足を止めてはならない。彼にはまだ果たさねばならないことがあった。ふらつきそうになる膝に力を入れ、萎えた脚を動かして、なお走る。洞窟の中で乾いた足音を引きずる。外からの岩壁を伝って鮮烈な緑の光が闇に慣れた目を灼いた。緑と闇の対比で、視界が真っ白になる。彼は毒と視界の白さとによって気分が悪くなり、堪らず膝をついた。途端に全身を疲労が貫き、彼は胸を押さえて喘いだ。駄目だ、走らなければ。そう思うのに、疲れに疲れて萎えた足が動くことはなかった。
突然、前方から足音が聞こえてきた。咄嗟に追手だと思ったものの、依然として膝は震えるばかり、焦燥だけが胸を焦がした。足音はかつん、と高い音をさせて目の前で止まる。
「にいさん、大丈夫?」
子供の声だった。驚いて振り仰ぐと、荷物を担いだ十かそこらの子供が立っていた。些か大きすぎるフード付きのマントに身を包んでいる。まっすぐな瞳は明るい紺。睨みつけると、二、三歩退がる。
「怪我……してるの?」
と、彼を覗き込みかけてぴくりと肩を震わせた。彼も気づいて後ろの闇を睨みつけた。隠れた足音と荒い息遣い。
「追手だね」
慌てた様子もなく言うなり、驚くことに子供は彼の懐に潜り込んで、担ぐようにして立ち上がった。
「逃げるよ、走れる?」
返事を返す間もなく子供は走り出した。彼も必死に足を動かした。子供とは思えないほどの力が腹を支え、ほとんど持ち上げられるようにして走り、洞窟を素早く抜けると子供に引っ張られるようにして森の中に飛び込んだ。走って森を抜け、唐突に開けた場所に現れた荒屋に潜り込む。そこでやっと、子供は彼を降ろした。荷物も下ろし、マントを脱ぐ。濃い色の縁どりがある男児用の服の襟から、うっすらと鎖骨が覗いているのが見えた。壁に立てかけてあった槍に脱いだマントを引っ掛けると、彼を振り返る。
「この小屋は魔法で隠されているから大丈夫。あの追っ手たちにはきっと見つけられない」
こんなボロボロなのにね、と子供は軽く笑った。それからロイの顔をちょっと伺うようにする。
「顔色悪いね。毒?」
急にそんなことを言う。するりと手を伸ばして、血痕が盛大についた彼の衣服をめくりあげた。
「ああ、大丈夫だ。この毒なら解毒薬がある。……うまく避けたんだね」
にっこりと笑む。何故かそのとき、子供の姿勢の良さが印象に残った。
今の行為にわずかな抵抗すら出来なかった。少なくとも、避けることすらできなかった。既にこの子供に庇護されるべき存在に成り下がった証拠だった。悔しくもそれは動かせない事実で、彼は今、切実に助けが必要だった。
子供は渋色の丸薬を彼に飲ませ、傷の手当てをした。子供の手当はうまかった。適切だったし、手慣れてもいた。あの傷を縫わないと判断したのだから、その辺の町なかにいる医者よりも治療した経験が多いのだろう。だが、子供であるということには変わりはないらしく、夜もまだ浅いというのにマントを被って寝てしまった。彼は何とも知れない子供の傍で寝るつもりはさらさらなかったのだが、かすかな、そして規則正しい子供の寝息を聞くうちに、いつのまにか眠りに落ちてしまった。疲れていたのだ。そうでなければ、たとえ子供とはいえ緊張を解いて眠りこけたりはしなかった。
夜明け前に目を覚ました。隙間風の通る建物の割れ目から青い影が揺蕩って落ちる。傍に目をやると、亜麻色のふわりとした小さな頭があった。あの子供の後ろ頭だった。音を立てないようそっと起き上がったのは、何も子供を起こしては悪いという良心ばかりが理由ではない。身支度を終え、荷物をまとめて立ち上がったとき、不意に彼の耳に静かな声が届いた。
「無理して動き回っちゃダメだよ。一応手当てはしたけど治ったわけじゃないし、縫ってないからすぐ傷が開くと思うよ」
止められる前にそそくさと逃げ出そうとした彼の耳を、くすりと忍び笑う声がくすぐった。
「包帯はかなりきつめに巻いたほうがいいよ。痛み止めは腰の巾着に入れてある。――またどこかで会えるといいね」
子供の意を悟ると、彼は軽く頭を下げるような仕草をして、強く戸を開け放った。朝日が驚くほど明るく差して、崩れかけの小屋の中を照らした。
「ああ。――ありがとう」