わかれ
それは、彼が物心ついたころからある母親との秘密だった。
『いい? これは誰にも言ってはだめよ? 私たちだけの秘密よ』
何度も念を押しながら母親は彼の小さな指を己の手で隠すようにぎゅっと握った。
そこには、先ほど彼が謝ってハサミで切ってしまった傷口があるはずだった。
だが、傷いて血の吹き出した場所にはすでに滑らかな皮膚が覆っている。
『あなたは私に似てしまったのね』
彼が小さな怪我をするたびに母親はその言葉をよく口にしていた。
小さな怪我があっという間に癒えること。それが彼と母親の二人だけの秘密だ。
母子の暮らしは静かで慎ましかった。母親は昼夜働きに出ることで家計を支えていた。彼は母子の暮らす狭いアパートで母親の帰りを待ち続ける毎日だった。
『絶対に外に出てはダメよ? 外には怖いものがいっぱいあるの。もし、あの秘密がバレてしまったら、私たちはいっしょに暮らせなくなってしまうわ』
何度も何度も繰り返す彼女の教えを息子は忠実に守っていた。
例え心細いアパートの一室でひたすら母親の帰りも待つだけでも幼い彼は構わなかった。
きちんと言いつけを守って部屋で待ってさえいれば大好きな母親が帰ってきてくれると知っていたからだ。
そんな生活は彼が六歳になるくらいまで続いた。だがある日、運命は大きく動いた。
きっかけはとても小さなことだった。よく晴れ、母親は仕事に行く前にベランダに洗濯物を干した。
夕立があったのはそれから数時間後だった。
そのころ、母子の生活は以前に比べてずいぶんと楽になっていた。かつては母親が昼夜問わず働いて最低限の衣食住を揃えるのが精一杯だったが、母親が新しく手に入れた勤め先はこれまでにないほど待遇がよく、母子はささやかな贅沢を楽しめるようになっていた。
ベランダには母親が節約に節約を重ねやっと買うことのできたお気に入りの服が干されていた。決してブランド物ではなかったが、彼女が大事に着ている品だ。
『・・・』
母親の大事な服が濡れてしまう。
だが、彼は母親からベランダに出ることを禁じられていた。
彼が迷う間にも、夕立を勢いを増し、ベランダのひさしを飛び越えて雨粒が窓に叩きつけられた。
迷いに迷いを重ねた末、彼は少しだけならとベランダに出ることにした。
母親の洋服はハンガーで物干し竿に掛けられていた。だが、ハンガーの先が物干し竿にひっかかり、上手く洋服を取ることができなかった。
何とハンガーを物干し竿から引き剥がそうと奮闘していると、彼の目に銀色の手摺りが留まった。
あそこに登れれば、ハンガーを取れるかもしれない。
彼は年のわりに物分りのよい子どもだったが、やはり子どもだった。自分ではよいひらめきだと思った。
手摺りに跨ることに成功した瞬間、バランスを崩した彼は二階からコンクリートの駐車場に突っ込んだ。
意識を失う直前にごきっと気味の悪い鈍い音がしたのを覚えている。
次に目を覚ましたとき、彼は見知らぬ部屋に寝かされていた。真っ白い空間だった。
困惑する彼の前に部屋と同じように白い格好をした人々が現われた。
『やあ、起きたかね、僕らの小さな吸血鬼くん』
重そうな黒縁眼鏡の男が不自然なほどの笑顔で彼に話し掛ける。
『君は二階のベランダから落ちて首の骨を折ったんだ。いやあ、やはり吸血鬼の能力は素晴らしいね。通常なら即死か首から下の麻痺だが、この通り君の骨はしっかりとくっついている』
彼は身を起こすことができなかった。彼の体はベルトなどでベッドにしっかりと固定されていたからだ。
親しげに男がベッドに腰掛けた。そして、彼の心をぐちゃぐちゃにするような爆弾を落とした。
『しかし、残念なこともある。君のお母さんの勤め先にも伺ったが、彼女の姿はどこにもなかった。お母さんの銀行口座も調べたが、まとまったお金はすべて下ろされていたよ。探させてはいるが、見付かるかどうかわからないね』
男の話を耳にしながら彼は静かに目を閉じた。
頭の中で常日頃から言っていた母親の台詞が反復される。
『絶対に外に出てはダメよ? 外には怖いものがいっぱいあるの。もし、あの秘密がバレてしまったら、私たちはいっしょに暮らせなくなってしまうわ』
彼は幼いながらもわかっていた。二度と再び大好きな母親と会えることはないだろうということを。