最終話 新しい通り名をきみに
柔らかな風が舞い込む。
豊かな草原と緑に煌めく木々を揺らし、風は、どこまでも高く飛んだ。
ここはリズシュニア領・レーベンフィルグ城。代々王位継承者が拠点とする白亜の城だ。
湖の傍に建てられた御伽のような城は、古くからそうであるように、尖塔と装飾に彩られ、美しい景色を湛えている。
「さあ着きましたよ、フィファニー」
すると、柔らかな風に導かれるように、丁寧に舗装された小道の向こうから、四頭の馬に引かれた豪奢な馬車が現れた。
金装飾を施した馬車は城の前で立ち止まり、降り立った御者が恭しく扉を開けている。
と、ステップを踏んで現れたのは、フィファニーを連れたイルキュイエ。いつにもまして上機嫌でエスコートをする彼は、周囲を飾る森と湖、そして白亜の城を見渡し、満面の笑みを見せている。
「ここが普段、私が居城とし、月の半分を過ごしている城です。しかしこの城で、ついにあなたと愛を育むことができるとは。フフ、非常に楽しみです」
「イル。変な言い方はやめてもらえる? あなたが駄々を捏ねたせいで、私もリズシュニアに来ることになっただけなのだから」
さらさらの金髪を日差しと風に揺蕩わせ、愛しげな眼差しを向ける彼に、フィファニーは頬を赤くしたまま、仕方なしを強調した。
あの日、追い込まれた末にしてしまった婚姻承諾書への署名。
各州を治める五大公爵、そして王陛下への面会と署名が済まない以上、この書類が真に効力を発揮しないのは分かっている。
だが、すっかりその気のイルキュイエは、早速二人きりの生活を所望。
当然彼の両親は反対し、領地に帰りたいフィファニーも、イルキュイエが折れることを願っていた。
しかし先日、とある想定外が王家を震撼させ、事態が動いた。
どういうわけか、宮殿の端にある地下牢獄から、ヴェイリーが逃げ出したとの報告が入ったのだ。
あの場には魔法の牢と錠が掛けられ、厳重な監視体制にあった。
にも拘らずヴェイリーは忽然と姿を消し、現在指名手配となっている。
単独で逃げ出したのか、誰かが手引きをしたのか、何もわからない状況だ。
だが、彼の目的がフィファニーをいたぶり、殺し、森の結界を壊すことだと聞いていた国王は、このまま彼女を宮殿に滞在させ続けることは、わざわざ居場所を教えているようなものだと移動を要請。
王家所有の土地に身を隠し、厳重な警備を彼女の元に置くとしていた。
しかし、そこで駄々を捏ねたのがイルキュイエだ。
彼女と離れ離れになるくらいなら自分も出て行くという王太子の本気ぶりに王は折れ、彼らは常に厳重な警備が敷かれている、リズシュニアでしばらく滞在するよう、命を受けた。
再びヴェイリーが狙ってくるかどうかは不明だが、火種になるかもしれないフィファニーの元に、本来王太子を置いていいわけがない。
だが、この件ばかりはどれだけ手を尽くしても折れないイルキュイエに、フィファニーも半ば押し切られてしまった。
そうしてリズシュニアにやって来たのだが、彼女との生活にばかり気を取られ、歓喜する耳には、彼女の心配や否定など、最早届いていない様子だ。
「フフ、夫婦なんですから、一緒にいたいのは当然でしょう? さ、城内に参りましょうね」
「ふ……っ、私、み、認めないんだから!」
夫婦の響きにさらに顔を赤らめ、連れられるがまま城内へ入ると、内部もまた繊細な造りとなっていた。
絵画や花瓶、廊下を彩る花々、植物をモチーフにした装飾が美しい城内を進み、イルキュイエは彼女を二階にある談話室へと連れて行く。
そこでは先に準備を行っていた彼の執事がいて、丁寧に紅茶を淹れていた。
「ご到着ですね、殿下。ご休憩にとお茶の用意をしておきました。また、つい先程、ネイリッツ公の使いが来て、お手紙を預かっております。どうやら例の件で返事が来た模様です」
と、イルキュイエの到着に頭を垂れた執事は、一拍間を空けた後で、銀トレーに乗った手紙を差し出した。
どうやら婚姻承諾書に署名をもらうための一環として、彼は既に王都と接する州・ラウリヒドの統括者・陛下の大叔父にあたるネイリッツ公爵に面会を申し込んでいるのだという。
流石、これだけ結婚に意欲を見せているだけあって、彼の手回しは随分と早いようだ。
しかし、彼にはヴェイリーが捕まるまで大人しくしようと言う気はないのだろうか。
いそいそと封を開けるイルキュイエにフィファニーは心配を滲ませる。
「晩餐会への招待状。五日後、大叔父様の屋敷に二人してお呼びとは。フフ、何としても署名をもらわねばなりませんね、フィファニー」
「親愛なる王太子殿下、そして氷麗の眠り姫・フィファニー・ホワード様へ……? イル、この畏れ多い名前、なに?」
だが、心の中で心配する彼女をよそに、イルキュイエは笑顔で手紙を差し出した。
彼の行動力と嬉しそうな微笑みにフィファニーは肩を落とし、半分諦めた顔で目を通す。
そして一行目から躓いた彼女は、顔を引き攣らせ、目を上げた。
自分が十七年の眠りから目覚めたことは否定しないものの、氷漬けの終身刑という実態を、美化しすぎではないだろうか。
「ああ、これは先の園遊会で公表した、あなたの新しい通り名です」
そう思い、名前に添えられた言の葉を問うと、イルキュイエはさらりと白状した。
途端フィファニーは呆気に取られていたけれど、彼は得意満面で、由来までをもこう付け足す。
「フフ。『氷麗の眠り姫』素敵でしょう? 以前通り名の話をしたときから、氷壁の塔で眠っていた麗しき姫の名はそれしかないと考えていたのですよ」
「は、恥ずかしい。今すぐ全面撤回してほしい」
「攫いの魔女より良いと思いませんか?」
「それは、そうかもしれないけれど……。私、姫ではないもの。あ、当然妃でもないわよ。なのに……」
「……」
ソファに座り、恐れをなしたように手紙をローテーブルに置いたフィファニーは、両手で顔を覆うと、初めて聞いた事実に羞恥のまま悶絶した。
もちろん、攫いの魔女はもう御免だが、代わりと勝手に公表された通り名の美しさに、つい身が縮こまってしまう。
そんな風に美化される価値など、どこにもないはずなのに。
「フィファニー。諦めの悪いあなたも愛していますよ」
と、その様子を見つめていたイルキュイエは、不意に彼女を抱きしめた。
「ですが、諦めの悪さでは絶対に私の方が上位です。必ず署名を揃え、あなたのすべてを私のものにしますから」
「……!」
耳元で、敢えて低く囁くように、イルキュイエは誓う。
今までとはどこか違う響きを持った決意に、フィファニーは頬を赤らめると、体を放した途端、まっすぐに自分を見つめる彼を見返し、恥じらうように身じろいだ。
だが、珍しく否定を見せないその姿は、イルキュイエの理性を溶かすには十分で。
胸の高鳴りを抑えきれず、黙る彼女に口づける。
甘い果実が胸いっぱいに広がる感覚は心地よく、花開くようなざわめきに、フィファニーは咄嗟に否定できなかった自分を恨みながらも考えた。
このままではきっと、近いうちに篭絡してしまうかもしれない。
ダメだと分かっているのに。
けれど、嫌では、なくて……。
「フィファニー、私の眠り姫。一生、あなたを逃がさない。覚悟してくださいね」
自分をまっすぐに見つめ、答えの間もなく断言するイルキュイエに、フィファニーの心は、またほんの少しだけ傾いた。
氷麗の眠り姫が妃となる日は、きっと、そう遠くないのかもしれない――。
ここまでお付き合い頂きありがとうございました。
作品に触れてくださったすべての方に感謝申し上げます。




