8.隅田川のほとりで
まだ朝食を食べていなかった結心に、朋子が「試作品作ったから食べてみて」とおにぎりを持たせてくれた。テイクアウト用の透明なフードパックにつめられたおにぎりと水筒を持参し、結心はシャルルと共に長屋カフェを出る。
隅田川にかかる「すみだリバーウォーク」という歩道橋を歩いて渡り、浅草側へ行く。線路が並行している歩道橋にはガラス板があり、墨田川の様子を伺える小窓となっている。結心はガラスの床をよけて歩を進めた。
歩道橋に並行して鉄道の橋梁があるから目の前に鉄骨が見える。迫力のある風景だと、通るたびに関心してしまう。
歩いている間、アイボリーのキャンパス地トートバッグに入っているシャルルはしんと黙っていた。
歩道橋を渡り終えると、すぐに川沿いの遊歩道に入る。ここは台東区浅草だ。
向島から隅田川を隔てたことで、少し心が軽くなる。
振り返って、隅田川越しに空を見あげる。曇り空を突き破るかのように東京スカイツリーがそびえたっていた。
いつ見ても、大きい。
見慣れれば何も思わなくなるのかと思いきや、見るたびに「思ったより大きいな」という感想を持つ。そして毎回、これを作れる人間ってすごいなと恐れを抱いてしまう。
隅田川沿いには全長12kmにも及ぶ遊歩道がある。ベンチがたくさんあり、花壇もある場所だ。ウォーキングやランニングをする人、そして東京観光に訪れた人でいつも賑わっている。
向島に比べて、外国語が数多く飛び交う場所だが、朝の時間帯は近隣の人が散歩やランニングをしていることが多い。
結心は人のいないベンチを見つけて座る。トートバッグからシャルルを取り出して、ハンカチを敷いたベンチに座らせた。
前に投げ出された足と、たらんと垂れ下がる手は、間違っても動き出しそうには見えない。
「こんな感じでいいかな……」
慣れないシャルルの扱い。シャルルから「問題ない」と短い言葉をかけられてほっとする。
結心たちの前を高齢の男性が歩いていくが、関心は寄せられない。
東京にはいろんな人がいる。ぬいぐるみをベンチに座らせているくらいでは、だれも何も思わない。
「すごいよね。これだけ人がいるのに、なにをしても目立たないんだもの」
さすがにぬいぐるみと会話まですると目立つ。結心は人がいないタイミングを見計らい、小さな声で話しかけた。
「木を隠すなら森、人が隠れるなら東京、といったところか」
ぬいぐるみ然としたシャルルが、目の前の隅田川やスカイツリー、首都高速道路、ビール会社のビルを見ながら返事をする。
「ところでシャルル。わたしになにか言いたいことがあるの?」
わざわざ朝の忙しい時間帯に連れ出したのだ。それなりの理由があるのだろう。
湿度を含み始めた風を茶色のもふもふと赤いリボンで受けながら、シャルルは言葉をつむぎ始める。
「ああ見えて、朋子は言いたいことを言わない」
突然出される母の名に、結心は戸惑う。
「お母さんが? そんなわけないでしょ。言いたいことを自由に言って、好き勝手生きているのに」
わずかに顔の角度を変えて、シャルルは呆れたように結心を見やる。
「もしそうなら、結心は朋子に追い出されていただろう」
「どうして」
「自覚していないようだが、さっきは人を殺めてきたあとのような思いつめた顔をしていた。そんな顔で客商売をするなと言わなかったのは、朋子の優しさなのか臆病な部分なのか」
優しさとか臆病だとか、朋子を形容する上で似つかわないワードが出てくる。
「人を殺めてきたって……そんなことしてない」
「わかっている。もののたとえだ」
どうやら叱られているらしい。
たしかに、さっきは嫉妬に支配されていた。ひどい顔をしていただろう。だからって、そこまで言われるほどだっただろうか?
だから、接客業はイヤなのだ。面白くないのに笑えない。気分が良くないのに気分の良い接客はできない。それが苦痛で、会社をやめたというのに。
「わたしには向いてないんだよ、接客は」
結心の弱音に、シャルルはきっと同調するだろうと思った。でも、シャルルは思いがけないことを口にした。
「そうは思わないが」
「……え?」
シャルルは、前を向いたまま語り続ける。
「人には人の良さがある。結心の接客が悪いとは言ってない。たださっきの顔は怖すぎたと言っているだけだ。ひとつ否定されたからといって、オセロの盤面をすべてひっくり返すのはよくないな」
ちらり、とわずかに動いて結心を見る。心をすべて見透かすようなプラスチックの瞳にたじろいでしまう。
ひとつ否定によって、人間性がすべて否定されたわけではない。
わかっているけれど、どうしても自分という人間の中にある要素として見過ごせない思いもある。
それに……接客が良いとはどうしても思えない。自分が客だったらやはり朋子や泉羽のような店員に接客されたい。
けれど、今はシャルルに言い返すことはやめた。
シャルルの言い方は少々回りくどい。けれど、結心を励まそうとしてくれているのはわかったから。




