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東京下町の長屋カフェ~おにぎりとぬいぐるみで癒しと思いを結ぶ~  作者: 武田花梨


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エピローグ

 6月末、長屋カフェ全員でお見送り会をしたのち、聡は旅に出た。

 どこに行くのかは聞いていない。現地から絵葉書を送ってくるような人でもない。きっとこれからも、何にも縛られず風のように生きていくのだろう。


「僕が風ではなく木のような男だったら、結心さんとずっと一緒にいられたかもしれません」


 あの言葉の意味を尋ねられないまま、もう会えない人になった。

 結心自身の気持ちも伝えないままだった。

 態度でも伝わっていないかもしれない。でもうかつに伝えてしまったら聡の重荷になる気がしたから、やめた。聡には軽やかに生きていてほしかった。


 すっかり疲れがたまったのか、それまで張りつめていたものが切れたのか、朋子ではなく結心が体調を崩してしまった。


 3月末から、週に1回の定休日以外は常に働いていたし、今は家事の多くを負担するようにしている。未だに朋子に認められていないおにぎり作りの自主練もある。大きな別れも経験し、心身共に疲れていたようだ。

 お店は朋子に任せ、自宅で休む。夕方になって熱は下がってきたから、明日か明後日には店に出られるだろうか……。けだるい体はベッドに縫い付けられたみたいに重いけれど、何日も休んでいる場合ではない。

 疲労感とか喪失感とかをすべて洗い流してしまいたい。とにかくだるくてだるくて仕方ないこの体を投げ捨てたい。体が重いとどんどんと気弱になる。ああもうダメだ。もうがんばれないかも……。


「私の気持ちが分かったか」


 枕元からの声に、不承不承視線を向ける。

 シャルルが、体温計を持って立っていた。前と変わらず……いや、一度きれいに洗って乾かしたおかげで、よりふわふわの毛並みになっている。

 元気そうな様子にほっとする一方、口うるさくて敵わない。


「さ、熱を測るぞ」


 ずい、と一歩踏み出してくる。


「1時間前に測ったって……」


「熱が上がっていたらどうするんだ! いいから!」


「痛いって」


 ぐいぐいと結心の頬に体温計を押し付けてくる。過保護な親のようだった。めんどくさいなぁと言いながらも、世話されることがうれしくてついにやけてしまう。仕方ない。また熱を測ってあげよう。


「体がだるいと、すごく弱気になるのはわかったけどさ。シャルルみたいにもう死ぬ~みたいなテンションではないんですが。あれは大げさすぎた」


 笑いながら結心が言うと、シャルルはぷんとそっぽを向いた。


「本当に、死んでしまうと思ったんだ。あまりに体が冷たくて重たくなって。でも、乾かしたら元通りになって……」


 何度も繰り返す言い訳をまた口にする。


「で、でもな! 記憶があいまいになったのは本当で……自分のことがわからなくなったのは事実なんだ!」


 シャルルが記憶をなくし街をひとりさまよったことは事実のようだし、心配ではある。だから、今は結心の家にいる。長屋カフェで長時間ひとりで過ごさせるわけにはいかないからだ。

 最初は遠慮していたシャルルだけれど、そのせいで迷惑をかけることになる方が嫌だと割り切ったようだ。昼間は長屋カフェ、夜は結心たちと共に過ごす。

 急にしゃべるぬいぐるみが家に来た与志光はしばらく固まっていた。そしてこれまでの事情を聞くと一通り驚いたあとに「つまり、年寄りの介護ってことか?」などと余計なことを言ってシャルルに嫌われてしまったのだが。


 ピピピ、と電子音が聞こえる。体温計が表示したのは1時間前と変わらず36.7度。朝は38度あったことを考えると、一気に下がった。


「はいはい、変わりません~」


「よろしい。しかし朝から何も食べていないのは気になる」


「風邪ひくと、なにも食べたくないんだよね。いつものことだから平気平気」


 昔から食は細い。体調を崩すと何も食べたくなくなる。それは大人になっても変わらなかった。

 体温計をじっと見て、うれしそうに頷いてからケースに入れるシャルルを見つめる。


 もしかしたら本当に、シャルルがいなくなる日が来るのかもしれない。結心のことを忘れる日がくるかもしれない。そのときに後悔しないよう、結心はシャルルの面倒を見ると決めた。もっとも今は、結心が面倒を見られているのだが……。

 喉が渇いたので、シャルルを抱いて1階に下りてキッチンの冷蔵庫を開く。ソファにシャルルを置き、その隣に座る。いつもよりぐっとソファが沈み込むような気がした。

 スポーツドリンクを飲みながら、ぼんやりした頭でテレビを付けると夕方のニュース番組では芸能の話題を取り上げていた。


【オーディションを勝ち抜いて結成された注目のボーイズグループの初イベントに密着!】


 そんなテロップと共に、見覚えのある顔が映る。


『みなさんはじめまして! 加賀悠飛(ゆうひ)です。好きな食べ物はおにぎりです!』


 あの日、夢を諦めかけて大泣きしていた人と同一人物とは思えない、キラキラ輝く笑顔で自己紹介をしていた。

 合格したことは、少し前のネットニュースで見ていて知っていた。いざこうしてテレビで見ると、感慨深いものがある。


「あれか、私が和室でのんびりしていたら急に結心に連れ込まれた青年か」


「聞こえが悪い」


 ヘアメイクを施され衣装を身にまとっているからか、店に来たときよりもいっそうかっこよく、光り輝いて見えた。迷いのないまっすぐな瞳でカメラ越しにこちらを見ている。

 諦めなくてよかった、と思えるような活動をしてくれたらいいなと結心は願う。一度でも店に来ておにぎりを食べてくれた人には、幸せになってほしい。

 ぼんやりと映像を見ていると、朋子が帰宅した。


「ただいま~。ふたりとも元気!?」


 朋子は前にもまして肌ツヤもよく声も大きくなった。本当に元気なのか、検査を受けろと言われたくないがためにそう装っているのかわからないが。


「私も結心も元気だ」


「熱下がったよ」


「だと思った。普通、夕方になると熱があがるもんだけど結心は逆だからね」


 そう言いながら、朋子はビニール袋に入った何かをリビングのテーブルの上に置いて、キッチンに戻っていく。目の前に置かれた謎の袋を、結心はじっと見つめた。

 毎日のように見ているもの。持ち手が結ばれた白色のビニール袋にかろうじて透けて見えるものは。


「もしかして、おにぎり?」


「そ。あんた熱出してもそれなら食べられるでしょ」


 ビニール袋を開けてみると、透明なパックにおかかチーズおにぎりが2つ入っていた。

 それを見て、結心は動きを止める。


「……覚えてたんだ」


「当たり前でしょ、何回作ったと思ってるの」


 母とは気が合わないと思うこともあった。ずっと一緒にいるからこそ、いがみ合うこともある。でも、根底にある愛情にさえ気付いていたら、こんなに遠回りはしなかったかもしれない。


「ありがとう、いただきます」


 結心は輪ゴムをはずし、パックからおにぎりを取り出した。何年ぶりだろう。10年以上ぶりか。おそるおそる、おにぎりを口にしてみる。

 ふわりとほどけるお米。チーズのコクとめんつゆの香ばしさが鼻を抜けていく。心に、元気とか癒しとか、いろいろな力がみなぎるような気がした。


 ああ、これだ。


 一気に、子どもの頃の自分に戻る。


 言動を真似をするほどにお母さんが大好きで、自分の気持ちに素直だったあの頃。


 風邪を引いたときに食べたおかかチーズおにぎりのこと。


 無邪気にお母さんに抱きついて、おんぶをしてもらったこと。


 体操着を忘れて学校まで届けてもらったこと。


 お父さんの膝で寝たふりをして、自分のベッドに運んでもらったこと。


 ゴールデンウイークに家族で遠出をして、渋滞が辛すぎて行先を変更したこと。


 もう二度と戻らぬ日々が、とめどなく頭の中を駆け巡る。

 あの頃とは違うけれど、でも今は今なりの幸せがある。


「おいしいよ、お母さん」


 結心ははっきりと言葉にしてから、再びおにぎりにかぶりつく。すぐに1個めを食べきり2個めを食べ始める。

 朋子は一瞬動きを止めたあと、ふふっと珍しく上品に笑った。


「あらら、喉を詰まらせないようにするんだよ」


「うん」


 気のせいか、朋子は涙声になっている気がした。気のせいだよね、と結心は無心でおにぎりを口に運ぶ。


「そうそう、お母さん人間ドックの予約を入れたよ」


「えっ!」


 思いもよらぬ言葉に、結心の口からおにぎりがこぼれ落ちそうになる。


「汚いぞ結心」


 結心の隣に座っていたシャルルが少し距離をとる。


「え、いやだって……」


 あれだけ嫌がっていたのに。すんなり人間ドックの予約を入れるなんて。

 結心の視線に、朋子はもじもじしたあとキッチンの方へ向かった。結心に背を向けて食器を片付けるフリをしながらぽつぽつと語る。


「お父さんと離婚したくないからね。イヤでも検査は受けないと」


「脅しの材料に離婚を持ち出す似たもの夫婦のくせに、どっちも離婚したくないって言うんだから」


 キッチンにいる朋子はまぁねと言うと、結心に視線を寄越した。


「それに……結心がここまでしてくれているのに、親が意地張るのもダサいかなって。人間ドックくらい余裕よ、出産に比べたら簡単簡単」


 あはは、と声だけで笑う。

 母のために必死になっている姿を見ていてくれたようだ。よかった。意味があったみたいで。がんばりすぎた体はだるいけれど、少し心地よいものになった気がする。

 言葉で伝えるのはきっと、これからも上手にはならない。言いすぎたり言わなすぎたりするだろう。だからこそ、それ以外の行動でも示していけたら。

 おかかチーズおにぎりの最後の一口が口の中でほどける。

 母娘の関係も、ふわりとほどけた気がした。

 わかりやすいケンカをしたわけじゃないけれど、でも気まずかった日々はこれで終わるのだなと結心はほっとしたような気持ちになっていると。


「あれー! これ! 前に来た客! えっ、受かったの? 有名人じゃない!」


 大きな声をあげながら、朋子はテレビの前に小走りにやってくる。


「えー! なによ、こんなことならサインもらっとけばよかった! あの時平松さんが来なけりゃ私も話せたのに! 悔しい! 結心もなんでもらわないのよ! え、てかツケのお金持ってきてないじゃない!?」


「……うるさ」


 大音量。ノンデリカシ―。ああ、嫌いな母の姿だと結心はうんざりする。せっかくいい雰囲気だったのに!


「え? 今うるさいって言った?」


「お金はね、ポストに入ってたよ」


 言わなかったっけ? と言うと、朋子は覚えてないとつっぱねる。言った言わないで揉めるのは不毛だが、ここで折れることができないのが結心と朋子だ。


「言いました~帳簿にもつけてます~」


 悠飛は現金を入れた封筒をポストに入れていた。『いつかまた、食べに来ます。ありがとうございました。』とのメモを添えて。営業時間内に来れないほど忙しくなったのだろう。そんな中でも、ちゃんとお金を返してくれたことが嬉しかった。


「お母さんは聞いてませんけど!」


「あーもう。わたしもう一回寝るから、起こさないでよね」


 これ以上大きな声を聞いたら熱が上がりそう。シャルルを連れてリビングを出る。


「ちょっともー、いい年して親に反抗的なのはダサいわよ! 大人になりなさーい!」


 朋子の声は2階まで響いた。


「……朋子、元気そうでなによりだな」


 ははは、と渇いた笑いをあげるシャルル。


「ほんとにね。検査の結果も何事もないといいけど」


 部屋に戻ってシャルルを枕元に置き、どさりとベッドに体を預ける。

 せっかく熱が下がったのに、どっと体がだるくなる。明日も休んで様子を見たほうが良さそうだ。


「いや。結心が心配したから、元気なんだろう。あれだけ検査を嫌がっていた人の気持ちを変えたのは、結心だ。誇らしくしたまえ」


「……そうかな」


 やっぱり、シャルルのことが好きだ。いつだって、すてきな言葉をくれる。


 ……この気持ち、伝えてみようか。恥ずかしいけれど、言わなくちゃわからないこともある。勇気を出して言ってみよう。


「シャルル、好きだよ」


 早口で言ったあと、布団を頭までかぶる。やっぱり、恥ずかしい!


 シャルルはすぐには何も言わない。

 しばらくの沈黙ののち、シャルルは口を開いた。


「そう言ってもらうために、私はぬいぐるみになったのかもしれないな。なんだか、初めて言われた気がする。誰かから、好きだと」


 結心は布団から顔を出す。シャルルを見ると、いつになくもじもじしていた。丸くてふわふわの手をこすりあわせている。


「どんな理由でも、シャルルがぬいぐるみになってくれてよかった」


「うれしい言葉をありがとう、結心」


 時に優しい言葉を交わしながら。時にいがみあいながら。辛くても幸せでも、微調整してなんだかんだとやっていくのだろうと思うと、少しだけ息をたくさん吸える気がした。




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