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東京下町の長屋カフェ~おにぎりとぬいぐるみで癒しと思いを結ぶ~  作者: 武田花梨


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35.いつか終わりが来る、その日まで

 翌火曜日から、朋子は店に立つと言い張った。月曜日にしっかり休んだからかすっかり元気になったと大きな声で言う。客観的に見ても元気そうだし、家に閉じ込めておくわけにもいかない。


 倒れてから1週間経ったが、元気そうだ。


 朋子のことは、とりあえずは大丈夫だと信じるしかない。もちろん、検査に行ってもらうのは諦めないけれど。


 それよりも……結心が心配だったのはシャルルのことだった。


 朋子が倒れた日以降、姿を見ていない。長屋カフェのどの店にもいない。

 強盗に入られたのか? と思ったけれど、どの店舗にもその形跡はなかった。じゃあシャルルが自分から長屋カフェを出たというのだろうか。そういえば、朋子と共に病院から戻った時には出迎えてくれたが、その後店の鍵を閉めるときにはいただろうか?


 周辺を探してもみたけれど、見つからない。


 長屋カフェがイヤになって、出て行ってしまったのだろうか。結心がその可能性に気付いたとき、底知れぬ孤独感に襲われた。

 シャルルはいなくならないと信じて疑わなかった。まさか、いなくなるなんて想像もしていなかった。

 しかし、シャルルに行くあてなんてないように思う。一体、なにがあったのだろうか。


 さらに落ち込む出来事があった。聡から「6月末で長屋カフェを辞めます」と名言された。


 あと1ヶ月ちょっとで聡はいなくなる。シャルルは帰ってこない。朋子のことも心配。おにぎりはなかなか上達しない。

 何も、うまくいかない。

 シャルルに会いたい。シャルルのふわふわの体を抱きしめたい。いつもの調子で「結心、大丈夫か」って言ってほしい。


『いずれは必ず失うのなら、手を離すのは早ければ早い方がいいんです』


 聡の言葉が響く。それでも結心は、好きな人の手を離したくはなかった。いつか失った時に深く傷ついて、後悔したとしても。




 5月も終わりかけで雨が続いたある日。

 朝、長屋カフェに出勤してきた結心と朋子は、軒先でぐっしょり濡れて倒れているシャルルを見つけた。


「シャルル!?」


 泥だらけで、中の綿までしっかりと水分を含んで重くなっている。持ち上げようとすると両手足がだらりと重力に引っ張られる。

 変わり果てた姿だった。意識はあるのだろうか。


「シャルル? ねえシャルル!」


 結心と朋子が呼びかけると、腕がぴくりと動いた。


「ゆう、み……。ともこ……」


 シャルルの声だ。ほっとして朋子と顔を見合わせる。

 すぐに店の鍵をあけ、シャルルを店内につれていく。店は朋子に任せることにした。

 洗面台で泥を洗い流し、中性洗剤で洗っていく。汚れが落ちたことを確認すると、奥の和室に連れていって、タオルを使って水分をどんどんと抜いていく。

 その間、シャルルはおぼろげな様子だった。


「どうしたの、何かあったの?」


 ぎゅとシャルルにタオルを押し付けつつ尋ねる。


「覚えていない」


「覚えていないって……」


「朋子が倒れて病院から戻ってきたまでは覚えているが……気がついたら知らない土地にいた。自分が誰かもわからなくて、なぜぬいぐるみなのかもわからなくて……」


 夢を見ているかのように、結心を見ずにただこぼれてくる言葉を流れ出しているようだ。

 覚えてないうちにひとりで外にフラフラ出ていたということなのか?

 そして、ぬいぐるみの姿でいることに戸惑いを感じていたと。


「わけがわからないままではあったが、とにかく人間に見つかったらいけない、長屋カフェに帰らなくてはという気持ちだけで、隠れながらどうにかここまで辿りついた」


 ほっとしたように、ようやくシャルルは結心を見た。

 結心は、まだしっとりと濡れているシャルルをぎゅっと抱きしめた。冷たくて、でも確かに動いている。


「よく戻ってきてくれたね」


「あたたかいな……」


 シャルルは、結心にしがみつくように頬を寄せてくる。冷たい雨に打たれてどれほど心細かっただろうか。小さな体で、よくぞ戻ってきてくれた。


「すぐ乾かそうね」


 ドライヤーがあれば……しかしおにぎりころろにはない。もし両隣の店舗にもなければ買いに行こう。結心が立ち上がりかけると、シャルルは「いや」と声を発した。


「乾かさなくていい。私はもしかしたらもう、終わりかもしれない」


「終わり、って……」


「少し、思い出してきたんだ。私が人間だったころのことを」


 シャルルはゆっくりと体を動かすと、乾いたタオル部分に体を預けた。


「人間だったの?」


 そうかもしれないとは思っていたけれど、シャルルの口から明言されると改めて驚いてしまう。元々人間だった人が、なぜぬいぐるみに。


「日本ではない、どこかの国で人間として生き、死んだ。そして気がついたらこの身体になって、この長屋にいた」


「なんだか……不思議なことが起きたんだね」


「私にもよくわからないがな。それで……今のこの感覚、死に際に味わった思い出がある。体の力が抜けていって、体が重くて、頭が働かなくて……次第に、目の前の人の名もわからなくなり、自分が自分でなくなっていく……あの感覚と同じだ」


 年老いた人間の最期のようではないか。


「そんな……」


「この体になったことで私は弱き者になった。人丸い手では細かい作業もできず、体も小さく、役に立たない。人間の頃はもう少し、価値のある人生だったように思う。この体は幼子のようで使い勝手が悪く、頭は老人のようにハッキリしないとなれば、いったいなんのために存在しているのか。もう、いいんだ。もう……」


 朋子と同じようなことを言っている。

 健康な人間に比べたら、たしかにぬいぐるみ姿のシャルルは弱き者かもしれない。でも、それだけじゃない。価値があるかどうかでもない。自分で自分の価値なんて決められるものではない。

 そんなことを言ったら、生まれてから死ぬまで常に価値のある人間なんていない。誰だって弱き者でもあり、強き者でもある。はっきりした境界線ではなく、グラデーションを行き来しているような曖昧な尺度でしかない価値観だ。


 シャルルはいつだって、結心に元気をくれる。厳しい言葉も交えて激励してくれる。かわいい姿で癒しを与えてくれる。


 弱者強者とか、勝ち組負け組とか、なぜすぐに境界線をひきたがるのだ。弱くても強くても勝者でも敗者でもいい。そんなのどっちだっていい。結心にはシャルルが必要なのだ。

 結心は言いたい言葉を吐き出す代わりに、シャルルをそのまま置いて立ち上がった。


「それだけ語れたら充分元気だよ!」




 泉羽がドライヤーを持っていた。シャルルが帰ってきたことを伝えつつ尋ねてみると、雨の日に濡れた靴を乾かせるよう常備しているとのことだった。

 シャルルの泣き言は教えていない。シャルルのあんな姿、見たくないし見せたくなかったから、今はわたしに任せてと伝えた。


 力なくタオルに横たわるシャルルは、本当のぬいぐるみになってしまったみたいだった。


「大丈夫だよ。どんなシャルルだっていいんだよ。ここにいてさえくれれば」


 ただひたすらに、シャルルに温風をあてていく。なかなか、中の綿までは風が届かないようでずっとしっとりしていた。

 温風を当て続けると熱そうに身をよじるので、冷風にしたり店に行っている間に休憩したりなどして、ひたすらに乾かしていく。

 朋子に代わって店ができるようになると言いつつ、なかなかうまくいかない。結局は朋子に任せっぱなし。人生はままならないものだとは言うけれど、こうもいろいろと身に降りかかってくるとすべてを処理できない。

 聡のようにすべてを手放してしまいたくなる気持ちは、分かる気がする。

 でも、結心には手放したいものなんてない。シャルルも、両親も、店も、本当は聡も、全部手の届くところに置いておきたい。


 いつか終わりが来る、その日まで。


 温風にあてられたシャルルはふと、結心に向かって声をあげる。


「こんな……弱き者なのに、なぜそこまで一生懸命になってくれる……? しゃべるしかできない、かつて人間だっただけの私が」


「弱くないよ。そんなこと言ったらわたしはどうなるの。仕事も恋愛もうまくいかなくて、実家に頼って、親のスネかじりまくった挙句に未だにしゃべることも苦手なわたしなんて存在価値なくない?」


「そんなことはないだろう。結心は十分に人の役に立っている」


 結心の自虐に、シャルルはすぐに否定してくれる。


「それと同じだよ。存在価値とか弱き者とか、そんなこと言いだしたら人間のほとんどが消えちゃうよ。いいんだよ。誰だってそこにいていいんだって……だからずっと側にいてよ。どこにも行かないでよ。シャルルはきっと、そのために人間からぬいぐるみになったんだよ」


 今にも消えてしまいそうなぬいぐるみ相手に、熱弁している。こんな光景を誰が想像できたか。

 人生って、想像できないことばかりだ。

 3月上旬の結心が見たら、頭がおかしくなりそうな光景だろう。でもこれが、今の現実だ。こんな状況も受け入れて微調整して、人生を歩んでいくしかない。

 目の前の大切な人を大切に、日々自分なりに生きていくしかない。人は変われるし自然と変わってしまうものだけれど、別人のようになる必要はないのだから。


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