10.風のような人
聡とはじめて会ったのは、3月末に結心がはじめて長屋カフェを訪れたときだった。
「今日からうちの娘も手伝うから、よろしくねー!」
朋子に連れられ、両隣の店舗にあいさつしにいったときのこと。泉羽と大輝が笑顔で迎え入れてくれたのだが……聡は店にいなかった。
「あの人、いつもそう。開店時間は気の赴くままなの」
自分の店の開店時間が気の赴くままというのは信じられなかった。どんな適当な人なんだろう? きっとだらしない人に違いない。友達との待ち合わせに遅れるのとは訳が違うんだ。
こんなだらしない人とは仲良くできそうもない、と思いつつ、結心はほうきを手に店を出た。
検査などを終えていないため、キッチンに立つことはしない。しかし、やることはある。
まずは長屋カフェの庭、前の道などを掃除することにした。
朝一番の空気を吸いながら、ほうきで履き掃除をするのは思いのほか気持ちが良かった。道行く人に「おはようございます」なんて言いながら。
会社勤めをしている時は、眠気を抱えながら無表情で通勤するだけの朝だったけれど……こんな時間も案外悪くないのかもしれない。
遠くから、自転車のラチェット音が聞こえてくる。ペダルを漕いでいない時に聞こえるあの音だ。そちらに視線を向けると、ロードバイクに乗った男性がゆっくりこちらに近づいてきている。
春の花の香りをまとい風を味方につけたような、そんな人だった。
「おはようございます」
結心のすぐそばで、停車した。スポーティーなヘルメットをかぶってロードバイクにまたがる青年は、柔らかい笑顔を見せる。黒縁の眼鏡が似合っていて、知的で聡明な印象だ。細身の体にフィットする水色ウェアに身を包んでいた。
「おはようございます」
知り合いか? 昔の会社の客か? 頭の中をさまざまな人が流れていくけれど、誰とも一致しない。
こんなにすてきな人のことを、忘れるわけがない。
戸惑う様子の結心に対し、男性は「あぁ」と独り言をこぼして、気まずそうな笑顔を向ける。
「すみません、自己紹介せず。長屋カフェで『ティースタンド 風音』を経営している、風間聡です。一番の古参です」
この人が。時間にだらしがない人を想像していたから、まさかこんなに爽やかな見た目の人とは思わなかった。
うまく言葉が出てこない。目の前の人になんて言ったらよいのか、頭が回らない。
ぼっとしている結心を見て、聡は「あれ?」と小さな声をあげる。
「朋子さんから、娘の結心さんが来るとは聞いていたのできっとそうかと思って……結心さんですよね?」
無言の結心の様子をうかがうように見ている。
いけない、ぼーっとしてしまった。結心は必死に頭をめぐらせて言葉を選ぶ。
「橋本結心です。いつも母がお世話になっております。わたしも、今日からお世話になります」
慌てて結心が会釈すると、聡はロードバイクから下りてほっとしたような顔になる。
「よかった、怯えた表情だったので、全然知らない人だったかと思っちゃいました」
「すみません……」
人見知りで、と言い訳したい気持ちをぐっと抑える。結心が人見知りでうまくコミュニケーションがとれないことは、相手には関係ない。
「えっと……自転車通勤ですか?」
明らかに長距離移動用の自転車や恰好だ。近隣ということはないだろう。
「はい。川口市から自転車で」
「川口? 遠くないですか?」
埼玉県川口市……東京に隣接しているとはいえ、墨田区向島からは遠い場所ではないだろうか。
「片道15kmくらいですね。でも道のりのほとんどが荒川サイクリングロードなので、ストレスはたまらないんですよ。僕は、新鮮な空気を体に取り込むと元気になれるので、ご褒美みたいなものです」
なんてことないように言う。体力のない結心からしたら、往復30kmを自転車で走るなんて想像しただけでしんどい。
ヘンな人。見た目は文学青年のようで、時間にルーズで、体を動かすことが好きで。
もっと話してみたい、って思った。この人の隣にいれば、結心も新鮮な空気を吸えるんじゃないかって思えた。
「わ、開店まで5分! 急がないと!」
それでは、と聡は口調とはうらはらにのんびり歩いて、ロードバイクを長屋カフェの壁に立てかけた。チェーンで施錠し、ヘルメットを取ってハンドル部分にぶら下げて、ぺしゃんこになった髪をほどくように、くしゃくしゃっと空気を含ませる。
ふわりと、束間のある黒髪が広がった。
結心は掃除の手を止め、聡の一連の動きをじっと見ていた。
朋子に無理やり誘われてここに働きに来て良かったかも、と心の底から思った。




