1.母には逆らえない
最近、息がしにくい気がする。
『沈黙は金』だと思って生きてきたら、どうやら違うらしいとわかったから。
『結心って、俺のこと好きじゃないでしょ? 気持ちが全然伝わらない。付き合ってる気がしないよ』
俊介のことは好きだった。会話も楽しかった。一緒にいるだけで心が穏やかになり、一生一緒にいるならこの人だとずっと思っていた。
思っていただけで、口にしたことはない。
結心と別れてから俊介は、気持ちを伝えることが上手な女性とあっという間に結婚したと風の噂で聞いた。
じゃあ仕事に生きるか?
結心は仕事にやりがいも生きがいもなにも感じていない。お金をもらえたらそれでいいと思っているタイプだから……仕事に生きるのもまた、違う気がした。
苦手な接客業を、高校卒業後からずっと続けてきた。御徒町にある宝石店での接客はBtoBであったため顔なじみの客しかいなかったが、それでも結心にとっては毎日がつらかった。
中高年男性客からの「そろそろ結婚しないの?」なんて、向こうからしたらただの雑談でしかない話題を笑顔ではぐらかすのも疲れた。同僚は、軽口をたたいて楽しそうにコミュニケーションをとっていたけれど、結心は仲良くない人とたわいない話ができない。
だから――悩みに悩んで、仕事をやめた。
こんなことで、と思う。みんな、多かれ少なかれ我慢して生きている。でも接客だけじゃなくて……生きること、働くことに疲れてしまったのかもしれない。
一度、ゆっくり深く息を吸いたかった。
29歳、恋人も仕事もなくなった結心は埼玉の実家に戻ることにした。
……まさか、そりの合わない母と、おしゃべりなぬいぐるみと一緒に働くことになるなんて、夢にも思わずに。
久しぶりの実家。住宅街の一軒家は、家を出たときよりもずいぶんと古びて見えた。2年ほど前に帰省した時には目立たなかった外壁の雨だれが、月日の流れを克明に記している。
今日家に行くことは母・朋子に伝えてあるが、用件は言っていない。久しぶりに会う親に「今月末から実家に住まわせてほしい」と言うのは、なかなかに緊張する……。
なんとなく母と折り合いが悪くなって、高校卒業と同時に東京で一人暮らしをするために埼玉の家を出た。それ以来、実家に顔を出したのは片手で数える程度。実家に住むとなれば、丸11年ぶりということになる。
実家というより、他人の家のよう。
両親とは緊張の対面になるはずだった……のだけど。
「離婚して、おにぎり屋をやる!?」
リビングに通されて早々、母の朋子から衝撃的な事実を告げられた。
おにぎり屋さんをやる。反対している夫の与志光とは離婚してでも――と言い張っている。
朋子はもうすぐ還暦。これまでお店の経営はおろか、飲食店に勤務したこともなかったはず……と、結心は朋子の経歴を頭の中で紐解いて、さらに混乱する。
それなのに、なんて無謀な。しかも、離婚だなんて!
娘の結心としては、目の前でニコニコしている母の姿が空恐ろしく感じた。なにを考えているんだ。
父の与志光はというと、当事者のひとりであるにもかかわらず、我関せずといった様子でテレビを見ていた。いつものことだ。
「おにぎり屋はもうやってるのよ。離婚はまだだけど」
「もうやってるって……どこで」
「東京都墨田区向島よ」
すらすらと、朋子の口になじみ始めたであろう地名が流れてくる。
向島……スカイツリーがあるところか。いやあれは押上か。向島は隅田川沿い? 混乱する頭で墨田区の地理が駆けまわっていく。
ヘンな汗をかいてきた。結心はえっと……とつぶやき、深呼吸する。
「おにぎり屋さんをやっているのはわかった。じゃあなんで離婚?」
朋子と与志光を交互に見る。
「だってお父さん、飲食店経営なんて無理、やめろって反対するんだもん。反対するなら離婚してやるー! って言ったわけ」
「いや納得できないんですけど」
どこか上機嫌な朋子と、おそらく不機嫌な与志光。むしろ、このふたりが今まで大きな喧嘩もなく夫婦を続けられたことが異常だったのかも、なんて思わなくもない。すべては言いたいことをガマンする父のおかげなのではないかと結心は思っている。
「飲食店経営は私の独身時代からの夢なの。邪魔するなら誰であろうと切り捨てる! そのためにパートでお金をためて株でコツコツ増やしてきたんだから!」
これまで見たことのない、キラキラした瞳をしている朋子。
朋子はずっと、高齢者施設で介護職をしていた。パート収入はそれなりにあったはずなのに何年も同じ服を着て同じカバンを持ち穴の開いた靴(靴下ではなく靴)を履くような質素な生活をしていたのはそういう理由だったのか。
結心の中で、過去の朋子の行動と「おにぎり屋さんをやる」という現実が結びつく。離婚というのはよくわからないし、株をやっていたことは知らなかったが。
「結心も好きでしょ、お母さんのおにぎり」
自信まんまんの顔で言われる。疑うことを知らない子どものような瞳の輝きだった。
「まぁ……」
たしかに、朋子のおにぎりはおいしい。
特におかかチーズおにぎりが好きだった。体調を崩すと食欲がなくなる結心も、おかかチーズおにぎりならば食べられた。
おかかチーズおにぎり。その名の通り、炊き立てのごはんにかつおぶし、チーズ、めんつゆを加えて混ぜたもの。香ばしくて、チーズのまろやかさが子どもの舌に馴染んで、食事のようなおやつのような味わいだった。
思い出すと食べたくなる。結心は思わず、ごくりと喉をならした。
食べたい、でも、言えない。
言えば「あらー結心ったら! 好きなら好きって言えばいいのに。すぐ作るわね! まったくいつまでも子ども舌なんだからぁ」ってテンションがあがってうるさくなる姿が想像できて、うんざりしてしまうことが容易に想像できた。
子どもの頃は「お母さん、おかかチーズおにぎり作って!」って堂々と言えたのにな。
おかかチーズおにぎり以外にも、基本的に朋子の料理はおいしい。
でもそれは、あくまでも家庭レベルの話。飲食店のメニューとして成立するようなものではないのではないか。
飲食店は、競争が激しい。結心が御徒町の宝石店に勤めていたときも、周囲の飲食店はオープンしては閉店し、また新しいお店がオープンし……を繰り返していた。
せっかく貯めたお金。これから老後となっていくらお金があっても足りないというのに、飲食店につぎ込んでよいのだろうか。
父の与志光と同じく飲食店経営に反対したい気持ちでいっぱいだった。
しかし、その気持ちすらはっきりとは口にしたくなかった。揉めたくないし、言いたいことをうまく伝える自信がないから。
だから一人暮らしをして、滅多に実家に帰らなかった。話さなければ揉めない。自分の意見など伝えなければ、喧嘩にならない。嫌われないし嫌わない。
結心はしばらくの沈黙の後、ようやく口を開く。
「まぁ、お母さんの人生だから好きにしたら」
わたしには関係ないし、と結心がこれ以上の会話をやめようとすると。
「いや~それにしてもちょうどよかった。結心も店を手伝ってよ! ヒマでしょ? 4月から来て! それとも有給消化ある? いつからから来れる? 明日?」
ね! と嬉しそうに笑う朋子。
「え……イヤだよ。飲食店の接客なんてできないよ!」
顔なじみの客ですら顔を合わせるのが苦痛だったのに、飲食店なんて無理だ、不可能だ。
「やるのよ」
にぃっと、朋子は笑う。与志光は我関せずを継続。
結心の「イヤだ」を受け入れてくれるような母親じゃないことを一番よく知っているのが、なによりも結心自身だった。
抵抗しても無駄だ。




