9話 会社員は部屋を掃除する
数週間ぶりに戻ってきた自室は、自分で言うのもなんだけどひどい有様だった。
食器は流し台にそのまま放置され、カップラーメンの容器がテーブルの上に乱雑に並んでいる。玄関には捨てるのを忘れて置きっぱになったゴミ袋が。
照明を点ければよりそのひどさが浮かび上がった。
「汚い、汚すぎる。ドラゴンの儂ですら躊躇する汚さぞ」
「申し訳ないね。忙しくて夕食を食べるか寝るだけの場所になってたからさ。あったあった。通帳と印鑑。無事で良かった」
「おい、ハルトよ。あの時折ぶぅんと鳴る縦長の小さな箱はなんぞ?」
レナが指さした方向には冷蔵庫があった。
恐怖で身体が震えた。記憶が正しければあの中には生物があったはずだ。
他にも食べ忘れた食品や食材なんかも。安売りしてて買ったショートケーキとかあった、と思う。
「そこは後回しにしよう」
「何か隠しておるな。儂にも見せい!」
「あ」
禁断の扉を開いたレナは数秒ほど固まり、「おぼぉぇっ!」と吐きそうな声を出して扉を閉めた。
だから言ったのに。
世の中には開けてはいけない扉もあるのだ。
そこから俺は部屋の中を軽く掃除し、探していた物を回収した。
何より喜ぶべきは炊飯器である。これさえあれば飯ごうを並べて炊く必要がなくなる。ありがとう現代技術。ありがとう炊飯器を作ってくれた人々。
「おお、このシャツは良いな。儂にぴったりぞ」
「うーん」
「何を唸っている」
「いやさ、玄関を開けようとしたんだけど開かないんだ」
いくら押しても玄関のドアは動かない。
向こうからなら簡単に開くのになぜだろう。
「そっちは壁側だからぞ。よーく思い出せ。向こうの扉の状態を」
確かドアはレンガの壁に埋まるようにしてあった。
表がいつもの場所に通じているとしたら裏であるこちらも裏に通じている?
裏は壁だから出られないと……なるほど。
「ほうほう、こちらのメスはこのような格好をするのか」
反射的にレナが読んでいる本を取り上げた。
こ、これは俺が隠しておいた大人の本。どうやって見つけたんだ。絶対バレないところに保管して置いたのに。
「なぜ奪う! 儂がまだ読んでいるのだぞ!」
「子供には早い。これは処分する」
「儂は二千五百三十八歳ぞ! 子供扱いするな!」
「それでもだ。ってそんなに長生きしているのか。さすがドラゴン」
大人の本を紐で縛りとりあえず玄関辺りに置いておく。
別にレナが大人の本を読むことには反対はしない。実際年寄りみたいな大人らしいし。
ただ、あれを読まれると趣味趣向がバレてしまうので俺の都合が非常に悪くなる。尊厳を守る防衛本能なのだ。
◇
「ふぅ、あらかた持ってこられたかな」
「なぜ儂が」
迷宮世界側に私物の山を下ろす。
レナも抱えたバッグを地面に下ろした。
「ずっと子供の姿のままだけど大人には戻らないの?」
「気が向けばな。儂は気づいてしまったのだ。この姿でカレーライスを食べれば少ない量で満足できることに。大人一人分は子供にとって二人分ぞ」
「長く沢山楽しみたいからその姿のままなんだ」
こちらとしては消費量を減らしてくれるなら作る手間が減ってありがたい。
一回の食事で大盛りカレーを三杯も四杯も食べられたらいよいよ俺の食料がなくなるところだった。でも、身体が小さくなるって便利ではあるかも。どこに行っても料金は安いし全てのサイズが大きいから何を体験しても楽しいかもね。
さて、二時間ほど向こうにいたけどモヤシはどうなってるかな。
土じゃなく水だけで育ててるから影響は――えぇっ!?
シートをめくってみると大量のモヤシが食べられる大きさまで育っていた。
心なしか普段見かけるモヤシより艶があるように感じる。
「なんぞこれは」
「モヤシだよ。カレー風味で炒めると美味しいよ」
「なぬ!? カレー!」
「調理を手伝って貰うから手を洗ってきて」
「うぬ」
井戸へ走るレナを見つめながら俺ははっとする。
そうか、井戸水にも魔力が溶け込んでいるんだ。だからモヤシの育成に影響を与えた。もともと成長速度は早い食材だから発芽から十二時間で収穫はなくはない。それでも異常なくらい早いけど。
俺は収穫したモヤシとニンジンを豚肉と炒め卵でとじた。
味付けは事前に買っておいたカレー風調味料だ。
湯気の立つ野菜炒めをテーブルに置いて二人で手を合わせる。俺がやるのでレナもなんとなくはじめたいただきますの習慣。今では当たり前にように手を合わせている。
「「いただきます」」
白米の上にモヤシをバウンドさせぱくり。
カレーの風味が広がり食欲が増す。
「このシャキシャキとした歯触り、モヤシとカレーは相性が良いのだな」
「いいの、かな? 美味しいけど」
「む、このモヤシとやら、速度を上昇させる効果があるやもしれん。僅かではあるが感覚に差異を感じる」
「それって変異した野菜の特殊効果ってやつかな。ずっと続くなら困りそうではあるけど。こっちはいいとしてあっちでは目立つから」
「恐らく一時的な上昇だろう。儂は永続的に続いても一向にかまわんがな」
そんな話をしながらレナは口いっぱいにモヤシを頬張った。
モヤシには速度上昇効果がある、か。
傾向からして他の野菜も似た感じなのかな。ようやくとっかかりができて一歩前進だ。
改めて感じるけど、これってとんでもない発見じゃないか。もしスピードを求められる仕事が降ってきてもモヤシさえあれば対処できるかもしれない。そればかりか身体強化や思考強化を使えばさらに。あの畑は俺にとって宝の山なのかもしれない。
「おかわりぞ!」
「はいはい」
頬に米粒を付けたレナが茶碗を差し出してくる。
◇
鏡を見ながら電動シェーバーで髭を剃る。
電動のありがたみをしみじみ感じる。
ここしばらくずっとカミソリで剃っていたから楽すぎてあくびが出そうだ。
レナはというと現在は俺の持っていた漫画を夢中で読みふけっている。
仰向けで読む彼女の腹の上では、ハリウサギがうとうとしていた。
俺の足下でも数羽のハリウサギが警戒心もなく草を食む。敵ではないと認めてもらえたのだろう。嬉しい反面、畑を荒らされる危険も出てきたため、昨日は急ぎ畑の周囲に木製の柵を設置した。当面の間はこれで様子を見るつもりだ。
「俺はもう出るから後は頼んだ」
「うぬ」
返ってくるのは生返事。よほど漫画が面白いのかこちらを見ようともしない。
とある少年が海賊に憧れ海に出る話なのだが――戻ってきたら『ゴ○ゴ○のピ○トル』などと叫んで殴られないか心配だ。文字が読めないのでただ殴られるだけかもしれない。
現実世界側へ出てドアを施錠。
気持ちを切り替え出発する。
盗られるものなんてほとんどないけど一応念のためだ。
忘れがちだが迷宮世界側には自動車を軽く踏み潰せそうなドラゴンがいるのだ。できるだけあれを外に出さないことが俺の勤めだろう。
「おはよう。目の下のクマもなくなってずいぶん健康的な顔つきになったね」
「おはようございます。今日も早くから掃除ですか」
またたび荘の出入り口で、掃除をする田中さんと出会う。
今日もお元気そうで何より。彼女との挨拶は一日の始まりみたいなところがあるから欠かせない習慣だ。
田中さんは声のボリュームを落として「ところで」と話題を変えた。
「畑の方はどうなってんだい。芽くらいはでたんだろうね」
「ああ、それならもう収穫してます」
「なんだって? まだ一ヶ月も経ってないよ? 迷宮ってのは野菜の発育が良いのかい」
「ですね。おかげで食費が浮いて助かってますよ」
「ふーん、今度あたしのところにその野菜を持ってきな。部屋を貸してんだ、少しくらいはいいだろ? どうだい?」
おっと、これはまずいかな。野菜をお裾分けするのはかまわないのだが、問題はその野菜が人体にどのような影響を与えるのか不明な点だ。言ってしまえば例の特殊効果である。
今のところ不調はないので食べても問題はないと思う。
ただし、ご高齢の田中さんにも平気かどうか少しだけ不安だ。田中さんで検証するのも申し訳ない気がするし。
「代金が必要なのかい? そりゃあ苦労して育てた野菜だからね、タダってのはいくら何でも我が儘だ。よし、好きな値段を言いな払ってやるさ」
「と、とんでもない。田中さんからお金なんていただけませんよ。お渡ししますから財布をしまってください」
「そうかい? じゃあありがたくもらおうかね」
上手く丸め込まれた気もしなくもない。
まぁ大丈夫だろう。西島さんも平気そうだったし、特殊効果以外は至って普通の美味しい野菜だから。
◇
会社前にて見知った顔と出くわす。
同じ係に所属する斉藤さんである。
彼も俺に気づき手を上げて微笑んだ。
「奇遇ですね同じ時間に出勤なんて」
「珍しく寝坊をしてしまって一本ずらしてきたんだ。藤宮君は最近顔色良さそうだね。仕事もずいぶん速くなって驚いたよ」
「斉藤さんに褒めてもらえるなんて恐縮です」
「謙遜しすぎは良くないよ。実際君はよくやってる」
二人で入り口を通り抜けエレベーターへと向かう。
斉藤弘樹さんは現在三十五歳。かつての俺の教育係だった方だ。
人当たりの良さそうな顔つきに穏やかな雰囲気をもった尊敬する先輩だ。正直なところなぜ彼が係長になれなかったのか不思議に感じている。仕事もきちんとこなし人望もある。なのに辞められた山路係長の後任に斉藤先輩は選ばれなかった。正直未だに納得がいっていない。斉藤先輩は『そういうものだから』と笑って流していたが。
「藤宮君は付き合ってる子とかいるの?」
「いえ、居ませんけど急にどうして」
「ちょっと噂になっててね。小耳に挟んだんだよ。これからノイズが多くなるかもだけど頑張って。僕は応援してるよ」
「噂……? はい、ありがとうございます」
エレベーターに乗り込み上階へと移動。
目的のフロアに到着すると揃ってオフィスへと向かう。
その途中、通路で楽しそうに話をしていた男女の男が俺を見て顔色を変えた。
「おい、藤宮」
「おはようございます係長」
「ごめん。先に行かせてもらよ」
「はい。また後で」
斉藤さんは係長を視界に入れるなり逃げるようにこの場を後にした。
居たはずの女性社員も退散したのか、この場には俺と係長だけが残されていた。
「最近調子が良いらしいじゃないか。仕事量が少なすぎたか?」
「そんなことは」
「口答えなんてずいぶん生意気じゃないか」
「すみません」
目の前に居るのは須崎慎司。俺と同期だ。
色素が薄いのか髪は薄い茶色、その整った目鼻立ちと長身から社内ではモテる男性として認識されている。身に纏うスーツも高級ブランドだろういつ見ても皺がなくいかにもできる男風。しかし、彼が係長になれた理由がいまいち俺には分からなかった。出来で言うなら斉藤先輩の方が間違いなく上だからだ。
「まぁいい。せいぜい頑張れ。退職したければいつでも話を聞いてやるぞ」
「その際はよろしくお願いします」
「ちっ」
両手をポケットに入れ離れて行く須崎係長に、俺は腕を組んで考え込む。
うーん、やっぱり嫌われてるのかな。
斉藤先輩のことは抜きにして、同期が早々に係長に昇進したのには尊敬の念を覚えているのだ。出来はともかくわざわざ面倒ごとの多い役職を引き受けたのだからその点は褒められるべきだろう。もちろん俺は絶対に昇進なんてしたくない。一生ヒラでいいからのんびり生きていたいのだ。できることならずっと畑を耕していたいくらいだ。
ぽんっ、と誰かに背中を叩かれ振り返る。
そこには笑顔の西島さんが居た。
「おはようございます。遙人先輩」
「ん、おはよう西島さん」
「訊いてください。今日近所の猫ちゃんが私に鳴いてくれたんですよ」
「へぇ、どんな猫なの?」
「黒猫です。可愛いんですよ」
黒猫、西島さんみたいな猫なんだろうな。
猫耳を付けてにゃーんと鳴く彼女を想像すると可愛すぎて顔が熱くなった。