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3話 収穫に喜ぶアラサー男

 

 モニターを見つめながら手元のキーボードで打ち続ける。

 オフィスは本日も変わらず固定電話の呼び出し音と話し声で騒がしい。


 一通り落ち着いたところで冷めてしまったコーヒーを一口含んだ。

 入社したての頃はブラックコーヒーなんて苦くて飲めたものではなかった。今ではすっかりブラック党の党員である。


「コーヒー冷めてますよね。私が淹れてきましょうか?」


 西島さんが耳元の髪の毛をかき上げながら、後方からコーヒーカップの中をのぞき込んでいた。距離は驚くほど近く瞬きする度に長いまつげが揺れている。鼻腔をくすぐる良い香りに心臓は強く脈打つ。


 俺はゆっくりと振り返り「猫舌だから」と苦笑しながら動揺を隠した。


 美人過ぎる同僚を持つと苦労する。いちいち緊張しなくてはいけないのだから。もちろんこんなのは男側の勝手な言い分だ。彼女は努めて普通に仕事をしているだけである。むしろ邪念を捨てきれない俺の方に非がある。

 しかしながら彼女から話しかけてくるなんて珍しい。

 教育係だった頃はよくどうでもいい会話などしていた記憶があるが、それなりにこなせるようになってから担当を外れ会話もめっきり減ってしまった。もちろん同じオフィスに働く者として挨拶くらいはするけどこうしてわざわざ席に来てまで声をかけるのは希だ。


「珍しいね。西島さんから話しかけてくれるなんて」

「定期的に声はかけていたのですが」

「えぇ!? そうなの!? ごめん!」

「良かった。やっと先輩が私を真っ直ぐ見てくれた。ずっと余裕がなさそうだったから心配していました」

「あー、うん。確かに余裕はなかったかも」


 忙しい原因は以前よりも増加した業務量である。

 後輩を育てそれなりの年数を重ねてきたこともあり振られる仕事が増えたのだ。


 多過ぎる気もしなくもないけど……実際なんとかこなせているしできない仕事は割り振られていない。むしろ先輩方を尊敬する。これだけの仕事量を時間内にこなし俺よりも早く退勤するのだから。


「先輩、係長からパワハラ受けてませんか? 異常な仕事量を押しつけられているとか。毎日残業なんておかしいですよ」

「考えすぎだよ。係長だって評価がかかっているんだ。こなせない仕事を投げて一体なんのメリットがあるのさ」

「それはそうですけど」


 彼女は本気で俺を心配してくれているようだ。

 それだけで俺は救われた気分になる。

 見てくれている人はいる。たったそれだけで頑張れる気がする。


「ところで先輩。顔色良くなりましたよね」

「顔色?」

「雰囲気も以前のように柔らかくなりましたし。目の下のクマ、薄くなってますよ。鏡をお貸ししますから見てみてください」

「ありがとう。確かに、薄くなった気がする」


 彼女から手鏡を受け取った俺は、鏡をのぞき込み目元の大きなクマがやや薄くなったのを初めて知る。なんとなく範囲も少しだけ狭まったような気がした。

 連日ぐっすり眠っていたから睡眠不足が解消されたのかな。これまでストレスからなのか不眠気味で寝れたとしてもあまり疲れがとれなかった。あんなに眠れたのは本当に久しぶりだったんだ。

 手鏡を返すと西島さんは嬉しそうにして鏡をポケットに入れる。


「先輩がよろしければですけど、またこうして以前のようにお話をしてもかまいませんか?」

「もちろん。俺なんかでよければ」


 そういうと西島さんの顔はぱぁぁっと明るくなった。

 「仕事に戻ります」と告げて席に戻る彼女の後ろ姿はなんとなくだけど機嫌が良さそうな空気を醸し出していた。


 悪いことをした。これまで声をかけてくれていたなんて。

 これからは俺ももっと心に余裕を持ってしっかりしないと。慕ってくれる後輩の為にも。夢のスローライフ構築の為にも。


 俺は再びデスクに向き直り業務を再開する。

 定時に上がるためにも急いでこの書類を終わらせないと。



 ◇



 街灯が灯る帰り道を急ぐ。


 すっかり夜になってしまった。これでもかなり急いだんだけどなぁ、終わらせるのに二十時までかかってしまった。まぁ普段より幾分早いほうではあるけど。


 気に掛かるのは畑である。


 昨日は肥料を混ぜて野菜の苗を植えてみた。

 収穫は数ヶ月先の見込みだけど、こちらとあちらの時間差を利用すればもっと早く収穫できるようになるだろう。


 駅を出てから十五分ほど歩くとまたたび荘が視界に入った。

 周囲の建物と比べるとずいぶん浮いている。なんせ築年数は三十年以上。今時珍しいベランダなしの賃貸物件である。

 またたび荘の入り口を通ると、一階にある一室のドアを勢いよく閉める音が耳に届いた。


「ここに住めるのは誰のおかげだい。若いくせにちゃらちゃらして、親の顔が見てみたいよ。あん? ああ、あんたかい。お帰り」

「たったいま戻りました」


 田中さんはご機嫌斜めのようだ。

 俺を見つけるなり射殺すような鋭い目をした。

 小柄な人なのに放つオーラは百獣の王のようである。

 御年八十歳とは思えない貫禄。


「あれから部屋の方はどうだい。上手くやれてるのかい」

「おかげさまで。昨日は畑を耕して野菜の苗を植えました。睡眠不足も解消されましたし今のところはそれなりにやれてますよ。あ、決して以前の部屋が悪いって話じゃありませんからね」

「別に良いよ。ボロ屋なのはあたしが一番知ってるからね。危険な目に遭わずやれてるんならそれであたしは満足さ。ちょっとばかし顔色が良くなったかい?」

「田中さんもそう思いますか。会社でも後輩に教えられまして。俺ってそんなに死にそうな顔をしていたんでしょうか」


 そこでようやく田中さんの顔に笑みが浮かぶ。


「そりゃあ酷かったよ。ありゃ幽霊さ」

「ひどいな田中さん。ちゃんと生きてますよ」


 たわいもない会話は数分続き、彼女が「あんたと話して怒りが消えちまったよ」と話を切り上げたことで立ち話は解散ということになった。


 階段を上がって自室の鍵を開ける。

 ドアを開けてくぐると青空のある森へと帰ってきた。


「さぁて、畑の方はどうかな――」


 鞄を放り投げネクタイを緩める、

 先日購入したアウトドア用のチェアに上着を引っかけ畑へと向かった。


「そ・・・・・・育ちすぎでしょ!?」


 青々と葉を広げた作物は少ないながらに実をなしていた。


 これは夢だろうか。いくらなんでも成長しすぎだ。

 たった半日でここまで成長したと……?


 現実世界――外を現実世界に、自宅を迷宮世界と呼称することにした――では十二時間でも迷宮世界側では七十二時間つまり三日間が経過している。それでも異常すぎる成長速度だ。だがしかし、畑の周囲にある草花にはこれほどの変化はない。畑の内側だけが明らかに違っている。


「畑の内側だけ急激に成長……俺のやった何かが原因でこうなった? 畑に持ち込んだ物があるとしたら苗と肥料くらいだけど」


 現実世界の作物にとってこの迷宮世界は効率の良い成長環境なのかも。

 そこに肥料まで加えたから異常成長してしまった、といったところだろうか。

 三日間水やりをしてなくてこれだ。もしやっていたらどのくらい実が増えていたのか非常に気になる。


 濃緑のキュウリはスーパーで売られているサイズと同程度だ。

 張りがありぎゅっと中身が詰まっている。

 隣の畝には真っ赤なトマトがぶら下がっており、その隣にはニンジンであろう作物が葉を広げていた。


「一足早いけど収穫だ!」


 さささっと着替え部屋着にチェンジ。

 会社帰りに買ってきたスウェットとサンダルはかなり落ち着く。

 軍手をはめて作業開始。


 はさみで実の上部をぱちんと切る。


 採った野菜はこれまた会社帰りに購入したザルに置く。

 キュウリ、トマト、ニンジン、それから興味本位で植えたナス。

 ニンジンはやや小ぶりだけどみっちり堅く食べ応えがありそうだ。

 ナスは艶のある表面に美しい紫の色合いはまさに宝石のようだ。こちらも堅く張っていてみずみずしさが一目で伝わる。


 野菜の入ったザルを折りたたみ式のアウトドアテーブルに置き、木桶を持ってレンガ家跡――四方を囲む壁から家の跡と判断した――の横にある井戸から水をくみ上げる。


 この井戸を見つけたのは昨日、恐らくあるであろうの予想の元で探してみたところやはりすぐ近くにあった。水を引き上げる設備はまだ使用できるようで、水自体も検査キットで調べたところ使用に関して問題なさそうそうだった。ただ、飲水可能かどうかは保健所で行うより正確な水質調査が必要のようだ。


 木桶に汲んだ水を持ち帰りその中で野菜の泥を落とす。


 心なしかスーパーでも見かけるものより強く光を反射しているように感じる。

 耕して苗を植えただけだけど一応自分で育てた野菜だからなのかな、スーパーで見かける野菜より特別なものに思える。


「次も頼むぞ」


 じょうろに井戸水を入れ畑に水をまく。

 ここからさらに実を付けるのか興味は尽きない。


 鮮やかな緑色の葉っぱは水滴を弾き、茎を伝って流れ落ちた水は土へとしみこんだ。

 猛烈な勢いで吸収しているのか湿った土は瞬く間に乾いてしまう。下方に垂れ下がっていた葉っぱはぐぐぐっと上向きとなり、蕾は喜ぶように花弁を開いた。


「信じられない速さで水を吸ってる……本当に俺が持ち込んだ現実世界の植物だよな? なんだか怖いんだけど」


 一抹の恐れを抱きつつ作物が満足できるまで水をまき続けた。



  ◆



 十二時を迎えオフィスの人間は続々と昼食へと動き出した。

 打ち終えた俺もPCをスリープモードにしてから重い腰を上げる。


 いつもなら食堂で適当にうどんかそばを頼んでいるところだが本日はひと味違う。なんと自作の弁当を用意してあるのだ。立ち上がったのはお茶を淹れる為である。


「食堂に行かないんですか?」


 斜め後ろのデスクにいる西島さんが、可愛らしい猫のキャラクターが描かれた巾着から弁当箱を取り出し声をかけてくる。


「んー? ああ、今日から弁当なんだよ」

「先輩がお弁当を!?」


 そんなに驚くことかな。男だって弁当くらい作る。

 いや、違うか。適当に食ってた男が突然弁当なんか持ってきたから驚いているんだ。

 西島さんはなぜか激しく動揺しているようであった。


「ど、どうして先輩がお弁当を!? こ、こここ、恋人でもできたんですか!?? だって先輩、食堂かインスタントってくらいに適当だったじゃないですか!!」

「まぁそうなんだけど。二十九にもなってうどんやインスタントだけってのもさ。そろそろ健康を考えないといけない歳だし。貯金もしたいしさ、節約できそうところから始めようかなって」

「健康、貯金、節約、お弁当……まさか、けっ」

「いやぁ、弁当って案外大変なんだな。毎日ちゃんと作ってる西島さんを尊敬するよ。俺も初めてにしてはそこそこ頑張ったんだけどどうにも色映えがなぁ。あ、ごめん。昼食を邪魔しちゃったね」


 俺は給湯室に行ってお茶を淹れる。

 すると弁当袋を抱えた西島さんが「先輩」と声をかけてきた。


「一緒に食べてもかまいませんか。ご迷惑でなければですけど」

「ぜんぜんむしろ大歓迎だ。ぜひ西島さんのお弁当を参考にさせて欲しい」


 自分のお茶を淹れ終えるともう一つ湯飲みを取り出す。

 西島さんの方に顔を向けると、彼女はほんのりと顔を赤くしもじもじしていた。


「西島さんもお茶でいいかな?」

「にゃ!? あ、はい!」


 にゃ? 猫?

 前々から思ってたけど西島さんって猫っぽいよな。仕事している時とか品の良い黒猫って感じでキリッとしてて。育ちも良さそうだし実は金持ちのお嬢様だったりしてな。なーんてあるわけないか。


 彼女のお茶も淹れ、オフィスへと戻る。

 俺の席と隣の席にお茶を置いて弁当の入った巾着袋を取り出した。


「……」

「なにか?」

「いえ」


 じっと弁当を見つめる西島さんに探りを入れられているような感覚を覚えた。

 俺が弁当箱を袋から出している間に、彼女は横のチェアに座りデスクにある弁当箱の蓋をぱかりと開ける。

 彼女のお弁当は見るからにバランスの良さそうな内容である。見栄えもよく考えられていて赤緑黄色と可愛らしいながらもちゃんと食欲をそそるできばえだ。特に猫のキャラクターが描かれたプラ串が刺さっているのが女の子のお弁当っぽくて好きだ。


 やっぱり彩りが足りないかな。

 もちろん俺の弁当の話だ。努力はしたんだ。頑張ったんだよ。


 意を決して俺も弁当の蓋を開けた。


「これ、本当に先輩が作ったんですか?」

「そうだよ。下手なりに頑張ったんだけどね」

「ううん。初めてでこれはすごいですよ。色は茶色や赤系に偏ってますけど、充分栄養もありますしなにより美味しそう」


 めちゃくちゃ褒めてくれる!

 良い後輩を持ったな、俺。ありがとう西島さん。


 俺の弁当はご飯、モヤシとニンジンの野菜炒め、四等分に切ったトマト、ナスの煮浸し、それからデザートに迷宮世界で採れた例の黄色い実だ。ずっと黄色い実って言い続けるのもあれだから”トモモの実”と以後呼称するとしよう。モモとミニトマトを掛け合わせたような作物だからそう名付けた。


 俺の弁当に色と形の完璧な卵焼きがぽんと置かれた。


「どうぞ。拙い料理ですが食べてみてください」

「ありがとう。じゃあお返しにこれを」

「黄色いトマト……?」

「トマトに見えるけどトマトじゃないんだ。甘くて美味しいから食べてみて」

「じゃあ」


 箸を使って器用にトモモの実を持ち上げた彼女は、そのまま小さな口を開いてぱくりと含んだ。直後にその目は大きく見開かれる。


「ん”ん”ん”ん”っ!!!」


 噛むほどにモモのような風味と甘味が増しチョコレートのようにねっとりと絡む。指摘されなければ新作のお菓子かと勘違いしてしまうほどの糖度の高さ。後味もスッキリで何度食べても飽きが来ない。俺の弁当の中でとびっきりの一品だ。


 ごくんと飲み込んだところで彼女は掌に種を吐き出す。

 だが、未だにその表情は恍惚としていた。


「うまっ、この卵焼き美味すぎる!」


 もらった卵焼きは想像を上回るできだ。

 白米が足りないくらい。一切れで茶碗三杯はイケそうだ。

 ちなみにご飯は飯ごうを使って炊いた。迷宮化以前の部屋には炊飯器があったのだが、ああなってしまってはどこにあるのかも見当も付かない。不便の多い生活でも今はまだ楽しめているので捜索を急ぐつもりはない。


 うん、俺が作った野菜炒めもよくできてる。

 さすが中華風万能調味料。失敗がない。


「先輩! これどこで売ってますか! 教えてください!」

「企業秘密だよ。でも卵焼き美味かったからもう一個ぐらいあげるよ」

「うわぁぁ、ありがとうございますっ!」


 めちゃくちゃ嬉しそう。

 こんなに喜んでもらえるなんてわざわざ弁当を作ってきた甲斐があるよ。

 空っぽの弁当に蓋をしてお茶を啜る。


 あれ、変だな。いつもならお昼の時点で結構疲れているはずなんだけど。

 今日はやけに身体の調子が良い。慢性的にあった眼精疲労もほとんどないってどうなってる? 


「目の下のクマさらに薄くなってませんか?」

「クマが?」

「今日は一段と顔色良いなって感じてはいましたが」


 そうなの?

 睡眠不足と食生活が改善されて肉体のバランスがようやく戻りつつあるとかかな。

 早速効果が出るなんて驚きだ。


 この生活を積み重ねよう。少しずつ一歩一歩。


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