20話 東京迷宮スローライフ
普段通り出社し、普段と変わらず業務をこなす。
ただ一つ違うのは、須崎の席が消えたことだ。
後任の係長はまだ決まっていない為、出世意欲の高い社員が我こそはと目を輝かせている。
手を休め後方斜めに視線を送ると、そこには西島さんの姿があった。
宣言通り彼女は出社していた。
若干疲れた様子ではあったけど、彼女もまた変わらず業務をこなしている。
須崎の起こした事件については、今朝のニュースで流れてはいたけど、犯人の名前や身元は公表されなかった。これから出るかは定かではない。会社がおおよその事態を把握しているであろうことは役職持ちの顔と落ち着きのなさから明白であった。
「ちょっと」
「……?」
課長が手招きしている。
俺は首をかしげ、振り返った。
「藤宮君、こっち来て」
「俺ですか?」
「そう、急いで」
課長に呼び出されるなんて珍しい。
しかも他に人には聞かせられない話なのかオフィスの外を指定している。
須崎の件かな。警察には説明したけど、会社はその辺り詳細を把握し切れてないだろうし。先に俺を選んだのは会社の都合かな。事件が事件だから色々慎重になる。
オフィスを出て廊下で待つ課長に合流する。
彼は困惑した様子で、しきりにハンカチで汗を拭っていた。
「社長が君を呼んでいるんだ」
「昨日の事件についてですよね? 社長自ら詳細を?」
「そっちは西島君が、全て社に報告してくれているから君からの説明は不要だよ。それよりも、あのさ、藤宮君なにかしでかした? 社長が君を呼べと仰られてさ」
「名指しで俺を!? どうして!?」
「それを聞いているんだよ。頼むよ藤宮君」
課長の汗がますます増える。
別件と知り俺は震え上がった。てっきり事件について質問されるとばかり。それがどうだ。予想もしていなかった別方向からの社長直々の呼び出しである。脳裏に過るのは……クビ。しかし、失態を犯した覚えもない。だからこそ余計に恐怖があった。
課長に案内され社長室前へとやってくる。
彼は「後で報告してよ。絶対に」と俺を置いて逃げるように戻る。
「失礼します。藤宮です」
「やっと来たか。入れ入れ」
社長室に入室するなり、社長は笑顔で迎えてくれた。
いかにもな部屋であった。豪華なデスク、壁には理解しがたい絵が飾られ、上客とお茶でも飲みながら話をするのだろうか分厚いソファがあった。
立派な髭とでっぷりと腹が出た社長は、外見もいかにもな社長であった。
彼は社長椅子からもっと寄れと手招きする。
「ご指名と伺っております。それでご用とは」
「うむ、まず確認して貰いたい物がある。これは君の物かね?」
社長がデスクに置いたのは、見覚えのある名刺入れだった。
彼はその横に俺の名刺を置いた。
「間違いなく俺の名刺です。どこでこれを?」
「それなんだよ。その話をしたかった」
彼は立ち上がったかと思えば、目の前に来て手を取り、半ば強引に握手をした。
「君が助けたのは私の母なんだ。ありがとう。本当にありがとう」
「えぇっ!?」
社長の分厚い手がぎゅうと握りしめられる。
ふくよかな顔は、これでもかとしわくちゃになりその瞳は潤んでいた。
なんなら鼻水も出ている。
「我が社にこれほど人徳溢れる社員がいたとは。母に代わりお礼を言わせてくれ」
「そんな、たまたまですし」
「聞けば君はそこそこ優秀だそうだね。ちょうど係長の席が空いている。どうだね。のちのちは課長も部長も望めるぞ」
「いや、それはちょっと……ヒラが好きなので」
「昇進意欲がないのは良くないぞ。会社員は昇進してこそだ」
おお、さすが社長。言っていることが社長っぽい。
って馬鹿なことを考えている場合か。このままだと俺が係長にされそうだ。正直ずっとヒラでもかまわないんだよね。昇進すると仕事も責任も増えるしさ。そうなると拘束時間も自然と増える。今くらいがちょうど合ってるんだ。
なんとかこの場を乗り切らないと……。
「その、係長に推薦したい方がいまして。それなら俺も喜べるかなと」
「実に残念。しかし、君ほどの人間が勧める者となれば期待はできそうだ。今すぐ決定とはいかないが大いに検討させてもらう。名前を教えてはくれないか」
「その人は――」
俺はある人の名を伝えた。
◇
会社帰りのサラリーマンが集う居酒屋。
いわゆる穴場の居酒屋である。
ここには何度か足を運んだことがあって、出てくる料理の美味さは指折りだ。
カウンター席に座る俺と斉藤さんに店主が熱燗を出した。
「係長おめでとうございます。どうぞ」
「おっと、ありがとう」
斉藤さんのおちょこにお酒を注ぎ、それから自分のおちょこにも注いだ。
軽く乾杯をして飲み干す。
仕事後の酒は五臓六腑に染みる。たまらない。
発泡酒で我慢している俺にはより効く。
「藤宮君が勧めてくれたんだろ」
「な、なんのことですか」
「隠さなくてもわかるさ。僕は君の先輩だからね」
恥ずかしくなって俺は頬を指で掻いた。
密かに先輩をたてたつもりがバレバレだったとは。
敵わないな斉藤さんには。
彼は自分で酒を注ぎ、味わうように小さく飲み始めた。
「実はね部長に謝られたんだ」
「部長にですか?」
「あの人とは大学からの先輩後輩の関係でね。俺が部長になったらお前を課長にしてやるからなってよく酒の場で語っていたよ。けど須崎君に辞令が下っただろ。部長もやむを得なかったんだと思う。順当に行けば僕が係長だったからね。たぶんあれは昇進が遅れてしまったことへの謝罪だったんだと思うんだ」
確かに須崎が係長になったのには誰もが驚いた。
そのくらい圧倒的に斉藤さんだったからだ。
後で判明したことだが、中型クルーザーは須崎の所有物であった。
普通に考えて一般の会社員が買えるような物ではない。だとすれば須崎の実家にそれだけの財力があったと考えるのが妥当だ。後輩を差し置いて忖度しなければならないほど、須崎の実家には影響力があったと。
依然として薬の出所も三名の協力者との関係もはっきりしない。
未だに全て解明されたとは言えず謎は多い。
「まぁまぁ今は素直に昇進を喜びましょう。来年は課長かな」
「そうだね。ところで今の発言は課長に報告しておくから」
「げ」
「冗談だよ。肝が冷えただろ」
「勘弁してください」
俺と斉藤さんは笑い合った。
◇
街灯がつき始める時刻。通い慣れた道も薄暗くなりどこの家からも夕飯の匂いが漂っている。隣には西島さんがいて、手には食材の入ったビニール袋が提げられていた。
「いつも食事ありがとう。材料費は後で払うよ」
「不要です。私がしたくてしていることですから」
「そう? でも本当に助かってるよ。レナも西島さんの食事が好きみたいでさ、あいつはいつ来るんだとかしきりに聞いてくるんだ」
「二千年以上生きてるドラゴンなのに子供みたいですね」
クスクスと笑う西島さんに俺も微笑む。
あんなことがあっても彼女は変わらず俺と接していた。
むしろ以前よりも距離が縮まった気がする。ウチに来る頻度も目に見えて増えた。私物も少しづつ増えてて一緒に暮らすような勢いだ。
まぁ美人な彼女が、俺なんかに魅力を感じているはずないけど。
俺は勘違いしない男だ。
なぜなら先輩であり大人だからだ。
付き合えないと分かっていても美人を眺められるのは最高のご褒美だ。
ありがとう迷宮。ありがとうスローライフ。
「先輩、田中さんですよ」
「ほんとだ。田中さ……んん?」
またたび荘の入り口で田中さんが誰かと会話をしている。
その相手はずいぶんと背が低く金髪で、まるで子供のようであった。
ってレナじゃないか!
「レナ!」
「うぬ? おお、ハルトとニシジマではないか」
「ではないか、じゃないよ。どうして外に。というか田中さんと顔見知り?」
笑顔で迎えるレナに、俺は頭が痛くなる。
一方の田中さんはレナを可愛がっているのか、わしゃわしゃとその頭を撫でていた。
「何言ってんだい。結構前からあんたのところの居候だって聞いてるよ。親戚の子供なんだって? ちーとばかしやんちゃだけど良い子じゃないか。この前なんか家に来て猫を可愛がってくれたよ」
「タナカのばーちゃんはハルトと違って大盤振る舞いをしてくれるのだぞ。カレーせんべい食べ放題に、ハルトのカレーライスには劣るがレトルトカレーとやらも食わせてくれる。この前食べたゼリーとやらも美味かった」
思い出して涎を垂らすレナに、田中さんは満足そうな表情をしている。
親戚の子と説明したのか。
その方がこちらも誤魔化しやすい。
田中さんに嘘をつくのは忍びないが、さすがにドラゴンですとは言えない。迷宮は受け入れられてもドラゴンは、怪しいな。警察か自衛隊を呼ばれるかも。
しかし、ずいぶん気に入られているようだ。カレーせんべいにレトルトカレー、もうそれレナだけを狙って用意しているじゃないか。
なによりも驚いたのは家まで上がり込んでいたことだ。田中さんの自宅はアパートの裏にある一軒家だ。そんなところにまで入り込めるほど仲が良いなんて初耳。俺ですら上がらせて貰ったことはないのに。
このドラゴン、こちらの想定以上に行動力がある。
自動販売機どころじゃないくらい四方をうろうろしているのでは?
西島さんも田中さんへ挨拶する。
「どうもお世話になっております」
「おやおや今夜も一緒かい。迷宮ってのはいいね、声が隣や下に聞こえないんだろ?」
「「……?」」
「進展してないねこれは」
俺と西島さんは揃って首をかしげる。
田中さんはなぜか大きなため息を吐いた。
隣のレナは「どのような声ぞ?」と興味津々である。
俺はというと畑の方が気になっていて、話は半分しか頭に入っていなかった。収穫せずに長時間放置すると実がなくなり次の収穫まで待たなければならなくなる。雑草も生えてあっという間に草むらになってしまうのだ。
それから洗濯もしないと。
手洗いなので時間がかかる。乾燥も自然任せ。
あとは、早くビールが飲みたい。
「おい、ハルト。今夜のカレーは何だ」
「カツカレーだけど」
「私が揚げて先輩がカレーを作る予定です」
「ぬぉおおおおおおおっ! 勝利! 勝利確定! 今夜はカツカレーパーティーぞ! カツカレーは世界一贅沢なカレーぞ!!」
興奮したレナは田中さんを放置して急いで自宅へ帰還した。
その様子が楽しいのか田中さんは「見ていて飽きない子だね」などと微笑んでいた。
すっかりカツカレーの虜だ。
カツカレーを食べるレナは美味いbotと化す。しかし、世の中にはまだまだ様々なカレーがあるのを彼女はまだ知らない。
「それではまた」
「はいよ」
田中さんと別れ俺達はアパートの階段を上がる。
部屋の前まで来るとドアノブを握った。
目映い光が漏れるドアの先には――。
第一章 農耕始動編 『完』






