18話 魔の手
まどろみの中にあった意識が、次第に覚醒へと向かう。
由海は、ぼんやりとした半覚醒状態の中で目を覚ました。
しかし、視界はかすみ周囲の状況が読み取れない。かろうじて認識できたのは、傍に体格の良い男が座っていることだけだった。
(ここはどこ? 動けない? この人は誰?)
彼女は至った経緯を思い出そうと振り返る。
なんとか睡眠の魔法を使用されたところまでは思い出せたが、それ以降の記憶はなかった。
(眠らされ続けてたってわけね。何者なの? 違う。今はどうだっていい。優先するのは身の安全。どうにかして逃げなくては。魔法……駄目ね。ガムテープで口を塞がれてる)
由海は目を覚ましたことを気取られないよう、時折発生する揺れに合わせて身体の状態を確認していった。
(腕はかなり頑丈に縛られている。身体強化でもちぎれそうにない。足は? 同じく硬い縛りね。それにしてもそろそろ意識がクリアになっても良い頃合い。未だにはっきりしないなんて、まさか薬を使われている?)
由海は背筋に冷たいものが這うような感覚を覚えた。
想定すらしていなかった危機的状況に陥っている可能性に思い至った為だ。
冒険者は決して華やかなだけの世界ではない。迷宮で得た力を自己利益のみに使用し、非合法活動や犯罪に手を染める輩が存在しているのである。中には迷宮が治外法権であることをいいことに暗殺を行う『掃除屋』などと称する組織の存在もまことしやかに噂されている。
活動を初めて九年――それなりに名が知られた熟練冒険者として自負がある。買った恨みも数知れず。故に由海はいつかこんな日が来るだろうと覚悟はしていた。しかし、何故今なのか。仕掛けたのは誰か。妙な違和感を抱きつつ疑問を片隅へと追いやった。
(自力での脱出が困難だとしたら、せめて誰かに連絡を)
由海は身に纏ったスーツに意識を集中させ、身体に触れる硬い感触を探した。
残念ながら会社員用とプライベート用のスマホは奪われているようであった。
残るは冒険者用の小型スマホ。大腿部にベルトで固定してあるそれは、しっかり感触があった。
念入りに調べる余裕がなかったのか、自身を冒険者だと知らなかったのか。どちらにしろ助けを呼ぶ手段はある。
由海は安堵しつつも、より一層警戒を強めた。
不意に揺れがなくなった。
そこで由海は車で運ばれていたのだと気が付いた。
薄目で車内を確認する。
監視をするように傍に控える男が一人。
男は由海には全く興味がないのか、手元で器用にコインを転がしていた。
(あのコイン、どこかで……)
引っかかりを覚えつつも視線を次に移す。
運転席と助手席に男が二人。
二人は何度か言葉を交わし車外へと出る。
耳を澄ませると外から怒鳴り声が聞こえる。
その内容は由海には聞き取れなかった。
がたんっ、とバックドアが開かれ由海は即座に目を閉じた。
「女は寝てるか?」
「問題ねぇ。ぐっすりだ」
「味見もできねぇなんてつまんねぇ仕事受けちまったよ」
「ガンマさんに逆らう勇気あんのか」
「あるわけねぇつーの。殺されちまう」
男達は会話をしながら由海を車外へと運び出す。
由海は男に担がれながら臭いに意識が向いた。
(潮の香り。海? 波の音もする。船の音響信号。どこかの港ね)
由海の身体は、一瞬の浮遊感とその後の衝撃で揺れた。
先ほどとは違い絶えず揺れる。彼女は船に乗ったのだと察した。それもそこそこの大きさの船。ボートほど小さくはなく大型クルーザーほど大きくもない。小型クルーザーから中型クルーザーほどのサイズだと感覚から予測する。
「どれだけ待たせるんだ。こっちは高い金を払うんだぞ」
さらに別の男の声がした。こちらは車内にいなかった声だ。
だが、ひどく聞き覚えのある声。由海は同じ声の持ち主を頭の中で探し始める。
――須崎係長?
ヒットした人物に由海は自身の記憶を疑った。
しかし、何度脳内検索をかけても同じ人物がヒットしてしまう。
ただ、あり得ないとは思わなかった。須崎はしつこいまでに由海にアプローチをかけていた。再三断りを入れても飲み会の場に誘い出そうと画策し、三度も妻を持つ身でありながら告白をしてきたのだ。あげく部下を使って飲み会の場に引きずり出そうとしていた。遙人と急速に仲を深めた辺りから大人しくなったので遂に諦めたのだと安心していた矢先のことであった。
(ここ数日会社に姿を見せなかったのはこういうことだったのね)
むしろ由海は納得すらしていた。同時にさらなる疑問も生まれる。
なぜ一般の会社員である須崎が、このような相手と知り合いであるのか。
魔法を使用したのなら、迷宮探索経験のある人間なのはほぼ確定だ。
人数と手慣れているところを見るに、そういった依頼を引き受ける組織なのは明白だった。だからこそなおさらに繋がりに違和感を抱く。
船のエンジンがかかり移動が始まる。
由海は陸から離れる事実に急速に不安を抱いた。
(どうしよう。海に出られたら助けが来られないかもしれない)
船が進むほどに不安は増していた。
「彼女を客室に運んでくれ。お前達は邪魔が入らないよう見張りだ」
「ちっ、わーってるよ。どうぞお好きなだけ」
由海を担ぐ男が歩き出す。
ドアを開けた音がしたかと思えば、程なくして由海は柔らかい感触の何かに投げ出された。
それはベッドであった。
須崎は鼻息を荒くし「足の縄を切れ」と男に命令する。
「切ったぞ」
「じゃあ下がれ。音がしても絶対に入ってくるんじゃないぞ」
「そういう依頼だ。大人しく従ってやる」
由海は足を縛っていた縄が解かれ『しめた』と歓喜した。
しかし、未だ完全ではない今の状態で即座に逃げ出すのはむしろ危険だ。まずは須崎を取り押さえ人質にとりつつ外の連中を倒す。プランができた由海は、保険にと冒険者用スマホをまず先に手に入れることにした。
「この時を待っていたんだ。ふひ、ふひひ、西島由海を手に入れられるぞ」
「ここまでクズだったなんて驚きました」
「意識が――ぶげっ!?」
瞳を開いた由海は、仰向けになった状態で須崎の顎を下から蹴り上げた。
その勢いで大腿部にあったスマホは、ケースから飛び出し宙をくるくると回転する。
由海は身体をひねり、後ろに縛られた手でスマホをキャッチ。体勢を素早く戻し、須崎からスマホの存在を隠した。
(先輩! 遙人先輩助けて!)
彼女の脳裏に藤宮遙人の顔が浮かんだ。
『もし何かあれば俺に連絡してくれていいからさ。必ず駆けつけるから』
彼女自身なぜ遙人に助けを求めているのか分からない。
いくら魔力を持っていても、この状況で一般人の藤宮遙人がどうにかできるとは考えづらかった。それでも、由海は遙人が助けてくれると信じていた。
あの日、由海の命を救った彼だから。
記憶を頼りにスマホを操作し、藤宮の仕事用スマホに電話する。
その間に須崎はダメージから復帰していた。
「やってくれる。とんだじゃじゃ馬女だ。だけど嫌いじゃない。逆に興奮したよ。拒まれれば拒まれるほど手に入れた瞬間に得られる快感は最高だからな。浜松なんて簡単に股を開く女とは違う。君はリスクを冒し大金を払う価値がある」
「須崎係長。今ならまだ引き返せますよ。人を使って私を拉致した件は許せませんが、まだ罪は軽い。きちんと反省してくれるなら私も必要以上の罪は問いません」
「怖いなぁ。気を許したらあっという間に警察に突き出されそうだ。だけどあいにくそれは君には無理だ。西島君、君は無力なんだよ」
「無力かどうかその身で――」
上体を起こした由海は目を鋭くし、身体強化を発動させようとした。
だがしかし、体内を巡る魔力は不規則に乱れ、由海の魔法は発動に至らない。
初めての出来事に由海は大きく目を見開いた。
逆に須崎は薄笑いからさらに暗く笑みを深める。
「君が冒険者だってことは把握しているよ。私は君の上司なんだから」
「!?」
「魔力操作ができないだろ? 君に打った薬は意識の混濁と魔力操作を困難にさせる。なぜか混濁の方は効き目が薄かったようだが、肝心の効果が効いていて安心したよ。もう理解できたかな。魔力を使えない君は普通の女の子だ」
かつて感じたことのない恐怖が由海を襲う。
須崎の言うとおりであった。魔力を使えない自身は力のない無力な女である。衝撃の事実に脱出プランは崩壊した。
どうあがいても逃げ出せない。須崎の手のひらの上であった。
須崎は余裕たっぷりに客室のテーブルに移動する。
そこには銀色のアタッシュケースが意味深に置かれていた。
「一つだけ君に懺悔しておきたいことがある。あれは君が入社したての頃だったかな。係長に提出する書類がいじられていたことがあっただろ。あれは私がやったんだ」
「貴方が!? でもなぜ!」
「藤宮を陥れるためさ。君はあいつのとばっちりを喰らっただけだ」
「先輩が狙い……? 貴方と先輩に何があったというの?」
「君には関係のない話だ。とにかくあいつの教育係としての評価を下げてやろうと君の書類データに手を加えた。甲斐あって彼の評価は落ちた」
スマホを握る手に力がこもる。
由海は目の前の上司であった男に、かつてないほど怒りを抱いた。
「先輩、ごめんなさい。助けるつもりだったのにぜんぜん助けられてなかった」
「また藤宮か。教育係になっただけで気に入られた男が。私が君の教育係にさえなれていれば、こんな手段を使うこともなく手に入れられていた」
ばちんっばちんっ。アタッシュケースの施錠が解かれ蓋が開かれる。
須崎は小瓶と注射器を取り出した。
注射器を小瓶に刺し中の液体を抜き取る。
「これが見えるかい?」
「薬?」
「そう、裏ルートで入手させた薬だ。依存性が強く打つだけで快感を味わえる。君はこれから私の所有物になるんだ。徹底的に依存させて死ぬまで可愛がってあげるよ」
由海は須崎の想像を遙かに超えた悪意を前に、無意識に悲鳴を漏らしていた。
残酷な光景を目にした。冷酷な光景を目にした。殺伐とした光景を目にした。
冒険者を続けてきた彼女にとって死はすぐ近くにある。
だがしかし、心の死がすぐ近くに迫ったのは初めてだった。どんな魔物よりも目の前の男が恐ろしかった。人間が恐ろしかった。
「助けて先輩! 遙人先輩!」
「叫んでも無駄だ! あいつはここには来られない! 藤宮遙人は何もできない!」
注射器を持った須崎が由海に迫る。






