15話 日常のすぐ傍にある闇
日曜日にもかかわらず出勤した須崎慎司は、オフィスに入るなり不機嫌となった。
なぜならいるはずの藤宮の姿がどこにもなかったからだ。
疲れ果てそれでもなお仕事が終わらず、絶望する彼の表情を楽しみにしていた須崎は、眉間に深い皺を寄せた。
須崎は藤宮のデスクに行き、チェアの背もたれに触れる。
冷たい。先ほどまでいた形跡はない。
ずいぶん早い時間に退勤したと考えられる。
須崎は舌打ちをして自身のデスクへと向かう。
「これは?」
デスクに置かれたファイル。
嫌な予感がした須崎は、鞄をデスク横に放り出しチェアへと腰を下ろした。
手に取ったファイルを開くと、それはまさしく自身が藤宮へ押しつけた仕事であった。彼の目は上から下へ素早く移動し次々にページをめくる。
「終わらせたというのか!? そんなまさか!」
ファイルを読み終え次のファイルを手に取る。
さらに次のファイル。次のファイル。
全てを確認し終えた須崎は、デスクを叩き怒りに顔を歪ませた。
藤宮には処理しきれない仕事量を与えた。間に合わなかった藤宮に頭を下げさせ、その上で嬉々と評価を下げられたはずであった。しかし、予想に反し完璧な形で書類を提出されてしまった。もちろん急ぎの仕事ではない。それでもやった事実は残るのだ。須崎はそう考えながら不快感に歯をきしませる。
思い起こされるのは、新入社員だった頃の自身。
右も左も分からなかった須崎は、一刻も早く業務に慣れようと必死であった。
だが、失敗からの失敗。上司や先輩からの評価も上がらず晴れない日々は続いていた。一方で同期でありながら上がりもせず下がりもせず淡々と仕事をこなし、すでに一定の評価を貰っていた藤宮の姿が眩しかった。なぜ自分だけ。どうして上手くいかない。次第に藤宮への黒くどんよりとした感情が芽生えるのを覚えた。
そして、忘れもしないあの日。
へまをして落ち込む私に、あいつは「そんな時もあるさ。まだまだ挽回できるよ」なんてヘラヘラした顔で言葉をかけてきやがった。そこで私は知った。あいつは何も思っていない顔をして心の中でずっと私を馬鹿にしていたのだと。
考えれば考えるほど腸が煮え繰り返った。あの瞬間、あいつは崖っぷちにぶら下がる私の手を踏みつけたんだ。今すぐこの怒りを奴にぶつけたいとさえ思った。だが、私は耐えた。立場が逆転する日を待った。そして、私はあいつを追い抜いた。勝ったのだ。
あとは訴えられない程度にじわじわ追い込んで自主退職させるつもりだった。
自殺でもしてくれれば最高の結果だっただろう。なのに、近頃の藤宮は息を吹き返したかのように、いや、それ以上に仕事をこなしている。
須崎はスマホを操作し西島由海の画像を表示させた。
スーツ姿の西島はカメラに気づいておらず、その目線は藤宮がいるであろう方向へ向けられていた。
「手伝った者がいるな」
指をスライドさせた須崎は、表情を緩ませる。
スマホには無数の隠し撮りしたであろう西島由海の画像があった。
その全てが社内で仕事をする姿。横顔、後ろ姿、耳元の髪をかき上げる仕草、コーヒーを飲む姿まで。藤宮と笑顔で食事をする光景になって須崎はぎりりと歯噛みする。
「こいつと私、どこが違うというんだ。全てにおいて私が勝っている。私は勝利者だ。なのになぜ手に入らない。西島由海」
須崎は西島由海を一目見たときから心を奪われていた。
彼女が入社した時点ですでに須崎には妻が居た。諦め切れなかった彼は西島を幾度となく食事に誘いそのたびに断られた。妻と別れると言って告白も三度した。だが、それもすげなくフラれてしまう。もはや自身の誘いには乗ってこないと考えた須崎は、部下を使い再三自身が主催する飲み会に誘いをかけた。結果は惨敗。西島は一度として飲み会の場に現れなかった。
須崎は藤宮を手助けする人間がいるとしたら西島しかいないと踏んでいた。
西島が藤宮に好意を寄せているのには早くから気が付いていた。
当然だ。誰よりも西島を見ていたのは須崎だからだ。
気掛かりなのは近頃の西島と藤宮の距離である。
仕事にかかりっきりだったはずのあいつが余裕を持ち始め、弁当まで持ってくるようになったのだ。同じく弁当組だった西島と合流し、和気藹々と談笑までするようになった。社内ではすでにカップルとの噂が流れている。
須崎は感情のままスマホをデスクに叩きつけた。
ヒビの入った画面には、藤宮と西島の昼食の光景が表示されたままであった。
「どうにかしなければ。この際、藤宮は後回しでかまわない。先に西島を手に入れないと。あれほどの女は他にいない。手に入れて徹底的に私好みに調教してやる」
須崎は足音が聞こえ、前のめりになっていた姿勢を正した。
オフィスに顔を出したのは上司――柳原部長であった。
「おはようございます。部長も休日出勤でしょうか」
「そんなところだ。ところで須崎君、少しばかり話があるんだがかまわないかね」
「問題ありません」
「そう、だったら僕のデスクに来てくれるかな」
須崎は部長を追うように席を立ち、彼のデスクへと向かう。
彼がチェアに腰を掛けると同時に須崎は部長の前に到着した。
「お話しとは」
「小耳に挟んだことがあってね、事実かどうか確認しておく必要があると思ったのだよ。君は係長になって何年かな」
「二年です。私を推してくださった柳原部長には感謝しております」
「古い友人の息子さんだからね。もちろん君の実力に期待しての人事でもある」
前置きはいいさっさと本題に入れ。
須崎は笑顔を貼り付けながら内心で毒づいていた。
柳原は淡々とした口調で「ところで」と話を続ける。
「藤宮遙人。彼は君の部下だね」
「!?」
その名に須崎は平静を装いながら動揺していた。
なぜ部長からその名が。まさかバレたのか。そんなはずは。これまで上手く誤魔化してきた。問題ない。証拠もないのだ。
「たった一人に対し過剰なまでの業務を与えていると耳にした。これは真実か」
「誤解です。優秀だからこそより多くの仕事を与えているだけです。処理の早い人間に仕事が集中するのはどこの部でも同じでしょう?」
「その点については否定はしない」
柳原の反応に須崎は安堵した。
藤宮はこれまでパワハラを受けていることにすら気づいていなかった。たとえ気づけたとしても言い訳ができる範囲で追い詰め続けていた。お間抜け。とんだ大間抜け。じわじわ真綿で首を絞められているのにあいつは笑っていたのだ。
しかし、さすがに正体がばれてしまった。苛立ちが我慢できなかったのだ。
部長が嗅ぎつけたのなら潮時かもしれない。これからは西島と出世のみに目的を絞るとしよう。
そう須崎が考えたところで柳原から「これに心当たりはないかね」とスマホに動画を映した。
『急ぎの仕事だ。今日中に全て終わらせろ』
『須崎! いくらなんでもこれは!』
『言うことが聞けないのか?』
『くっ』
『須崎係長だ。同期だからと馴れ馴れしく呼び捨てにするな万年無能が』
『!?』
『それじゃあ頑張りたまえ』
それは須崎と藤宮のやりとりであった。
須崎は目を見開き冷や汗を流す。
「証拠としてはまだ不十分だろう。しかし、これが世間に出ればパワハラを放置したとして我が社が炎上するのは避けられない。幸い僕の方で流出は止めたが、二度三度と繰り返されてはフォローも難しくなる」
「私は、パワハラは行っておりません。信じてください」
「もちろん信じているとも。だからこそ聞かせて貰いたい。これはどういうことだと」
柳原は鋭いまなざしを須崎に向ける。
対して須崎は、彼から『なぜぼろを出したのだ』と責められているような錯覚を覚えた。
競争を是とする社内においてライバルの排除は日常茶飯事だ。柳原もそうして部長の座に就いていた。故にパワハラ自体を否定はしない。あらゆる手段の一つでしかないからだ。ただし、それらは全て公にならないことが絶対条件であった。
「まぁいい。今回は注意だけで済まそう」
「感謝いたします。ご迷惑をおかけしないよう上手く――」
「ところで君に質問がある」
「なんでしょう」
かぶせるように言葉を続けた柳原へ須崎は寒気を感じた。
見上げる柳原は一段と声のトーンが低くなりその眉間に僅かばかり皺が寄る。
これまでとは一線を画す内容だと暗に示されていた。
「実はね顧客リストの一部が何者かに盗まれたようなのだよ。須崎君は何か知っているかね?」
須崎の背筋が凍り付いた。
冷や汗が大量に噴き出し視界が揺れる。
「し、知りません。なぜ私に?」
「君も係長の一人だからね。一応だね。ところで3月20日の十八時四十分はどこにいたか教えてもらえるかな」
「その時間は、部下と居酒屋におりました」
須崎の返答に柳原は「そう」とだけ答え、手元の書類に目を落とした。
まるで尋問。須崎はあらかじめ用意しておいたアリバイを伝えながら、早打ちする心臓の鼓動を感じていた。
「だけど君の姿を社員の一人が見たと証言しているのだけれどね。忘れ物でも取りに来たのかな」
「え、ええ、スマホをとりに一度だけ。まさかお疑いですか?」
「もちろん信用しているよ。ただ、社のカメラをものの見事にくぐり抜け、よく戻ってきたものだと感心はしたがね。カメラの位置を把握しているのかな?」
微笑みを浮かべる柳原の目に一切の感情はなかった。
口調こそ柔らかいが、彼のその態度が須崎をクロと認めていた。
須崎は唇が震え生きた心地がしなかった。
それはほんの出来心だった。
知り合いに金を積まれつい引き受けてしまった。
それでも須崎は会社を上手く出し抜ける自信があった。
自分ほど優秀な人間はいないと自負していたからだ。
部長という後ろ盾がありごまかせると踏んでいた。
「この話はよそう。先にも伝えたが僕は君を信用しているからね。ところで……君は好きな地方とかあるかね? 香川県とかいいよね。うどんが美味しい」
「あ、その」
柳原は微笑みを浮かべたまま、須崎をじっと見つめていた。
「まだ仕事が残っておりますので失礼させていただきたく」
「そうか、長々と話をして悪かったね。頑張って」
「はい」
一礼してデスクを離れた須崎は、オフィスを飛び出し廊下でスマホを取り出した。
操作するその手は震え呼吸は荒い。
何度も押し間違えをして、ようやく目的の相手に通話ができた。
「仕事を依頼したい。そうだ。気が変わったんだよ」
スマホ越しの相手は荒っぽい口調で須崎を笑っていた。
平静さを欠いた須崎は、廊下を不規則に歩きながら通話相手と言葉を交わす。
「船はこっちで出す。絶対に逃がすなよ。証拠も絶対に残すな。こっちは高い金を払うんだからな。薬? 良いじゃないか。楽しめそうだ」
次第に須崎の興奮したように息を荒げる。
先ほどまでとは打って変わりその表情は愉悦に満ちていた。
スマホの向こう側にいる男は「仕事のしすぎでついにぶっ壊れたか」と野太い声で笑っていた。
「壊れる? ああ、壊れたさ。こんな会社で働くのはもうんざりだ。こき使うだけこき使いやがってそのあげく我が儘の一つも聞きやしねぇ。おい、もう一度聞くが足は付かないんだろうな。捕まるのだけはごめんだからな」
男は「ウチの組織力を舐めるな」と唸るような低い声で返事をした。
須崎は安心したように、スーツの内ポケットから『狼の頭部』が刻まれたコインを取り出す。
「準備だと? すぐじゃないのかよ。ちっ、しょうがねぇな。できる限り早くしろ。その分報酬も上乗せしてやる。いいな、早くだぞ」
通話を切った須崎は「これで俺の物だ」と笑みを浮かべた。






