1話 疲れ切った会社員は迷宮と出会う
桜が舞い散る四月。西に傾いた陽が空を黄金色に染める。
腕時計の針は十七時四十分を指していた。
スーツ姿に鞄を片手にぶら下げる俺は、空に浮かぶ綿飴のような雲を眺めながら、駅から自宅までの長いようで短い帰りの道を歩いていた。
”またたび荘”と書かれた看板の前で一人掃除をするおばあさん。
いつものように彼女に帰宅の挨拶をする。
「ただいま戻りました」
「お帰り。相変わらず具合の悪そうな顔をしてるね。その目の下のクマどうにかできないのかい。ぽっくり逝かれて事故物件にされちゃこっちが迷惑するんだよ」
「なんかすみません。仕事が忙しくて」
「早く良い子見つけて体調管理でもしてもらいな」
睨むような三白眼のおばあさんは、帰宅した俺にいつもと変わらない口調で淡々とそれでいて少しばかり軽快な返事をしてきた。
田中さんは俺が住むアパート『またたび荘』の大家さんである。
若い頃はたいそう美人だったらしく有名デパートのエレベーターガールをしていたらしい。それが年を取るとこんなしわっしわになってしまうのだから時間とは残酷だ。
「失礼こと考えてるね」
「とんでもない。変わらずおきれいだと」
「ふん、んなこたぁわざわざ言われなくともわかってんだよ」
そう言いつつも田中さんの反応はまんざらでもなさそうだった。
ここに来て数年、少しずつだが彼女がどう言った人間なのか理解しつつある。
言葉はきついけど根は優しい方だ。
「本当にあんのかよ。デマじゃねぇの?」
「信頼できる筋から手に入れたマル秘情報だ。新迷宮は間違いなくある。ここ編集でカットしておけよ。メンバーにクレームを付けられるリーダーなんて視聴者は求めてないからな」
「どうでもいいけど疲れた。ねぇ焼き肉食べに行かない?」
またたび荘前の道では三人の男女が会話をしていた。
無骨な全身甲冑姿に大剣を携えた男性は、もう一人の男性が構えるカメラに向かって不機嫌そうに返事をする。ローブに杖を握る女性は退屈そうにあくびをしていた。
三人はその後もわちゃわちゃ会話を続けながら通り過ぎていった。
「なんだいありゃ」
「たぶん探索系の動画配信者ですね。田中さんもニュースで目にしませんか。迷宮とか冒険者とか」
「あぁ、時々出てくるあれね。年寄りのあたしにはなにがなんだか」
田中さんは理解ができないといった様子で困惑していた。
二十九歳の俺ですら未だに世の流れに追いつけていないのだ。ご高齢の彼女にはより不可解なものとして映っているはずだ。
十五年前――未知なる空間が前触れもなく人類の前に現れた。
最初の発見は日本ではなく海外、空間の入り口とその奥に謎の構造物が確認されたことで世界中に激震が走った。それを皮切りに続々と世界中で発見され誰がいつどのようにして生み出したのか、人為的かどうかさえ不明な謎の現象として注目を浴びることとなったのだ。
迷宮内で発見された『未知の鉱物』と『正体不明の道具』は、各国を前のめりにさせるに十分な材料であった。しかし最初期の資源採取は困難を極めた。迷宮内に出現する”魔物”と呼ばれる新種の生物は通常兵器が利きにくく、迷宮内で採取した鉱物による武器もしくは迷宮内で発現する”魔力”によってしか排除ができないと言う事実が判明したのである。
各国は迷宮内を限定的な治外法権とし、一般人や企業による迷宮攻略を大々的に認めた。その流れに押される形で日本も調査と資源採取を主とする”迷宮探索士”通称『冒険者』の 活動を認め早急な法整備に取りかかったのである。
世はまさに空前の大迷宮時代。
ゴールドラッシュならぬ迷宮ラッシュで世界はお祭り騒ぎである。
とまぁ日本も十五年前を境に劇的に変わったわけだが、実際のところ直接関わりがあるのは政府や企業、冒険者などの関係者のみ。ごくごく平凡に生活を続けている我々には対岸の出来事でしかなくそれらしい恩恵を受けた記憶も無いのが現状だ。
「新迷宮ってことは、またどこかが迷宮化したんでしょうか」
「どうだっていいよ。普通に働いて満足に飯食って寝られりゃあそれだけで充分。わざわざおっそろしい化け物がいるような場所に自分から飛び込むなんて気が知れないね」
「なんだ知っているじゃないですか」
「うるさいね。いつまで無駄話してんだい。通行の邪魔だよ」
「すみません」
田中さんは箒で俺を追い立てるように仕草する。
逃げるように彼女から離れ自室へと向かう。
うーん、そんなに顔色悪いかなぁ。体調は変わらないはずだけど。
雰囲気が暗いのは元々。昔からオーラがなさ過ぎて馬鹿にされてきた。社内でも空気や幽霊なんて言われる始末だ。
それでも学生時代はもう少し覇気があった気がする。
これも多忙な業務とアラサーになった影響かね。くたびれたおっさんですみません。うん、まぁまだ、おっさんって歳でもない気がするけど。
かんかんと音を鳴らし金属製の階段を上がる。
築三十年以上のボロアパートなだけあって古くさいを通り越してレトロだ。都内で安く借りられるのだから贅沢は言えない。意外に立地は良く近くにはスーパーやホームセンターに銭湯などと生活に必要なものが揃っている。もちろんコンビニだってある。
俺の部屋は階段を上がって左から四番目である。表札には『藤宮遙人』の文字が。
鍵を取り出しこれまた古びたドアに鍵を差し込みドアノブを握る。
「つっ!?」
静電気だろうか手に小さな痛みが走った。
反射的にノブから手を放す。
今日はそこまで乾燥していなかったと思うけど。
違和感を抱きつつ再びドアノブを掴む。
痛みはなく問題なく回せそうだった。
「まただ」
ピカピカの新品であった頃はさぞかし快適な開閉であっただろう。今はフレームが歪んでいるからなのか錆びついているからなのか、はたまたその両方なのか、開けて十㎝のところで一度止まる。
「いい加減修理を頼まないと。地味にストレスが溜まる」
よいしょっと――。
力を込めてドアを引くと森の爽やかな香りと風が俺を包み込んだ。
視界に広がるのは深緑豊かな森の風景である。草花がざわざわ揺れ小鳥の心地良いさえずりが聞こえる。
「――――」
落ち着け。疲れているんだ。
一度ドアを閉めて深呼吸しよう。それがいい。
ばたん。
ドアを閉めると深く呼吸をする。
まいった。幻覚を見てしまうなんていよいよ過労死を心配するところまで来てしまったか。一度病院で診てもらっておくのもいいのかも。すでに大病を患っている可能性だって無いとは言い切れない。だってさ、都内のアパートで、それも自宅の玄関が森とつながっているなんて誰が信じる?
「森なんて無かった。あったのは俺の部屋だ」
ドアノブを握りしめそーっと開く。
再び十㎝ほどのところで止まってしまった。隙間から中を覗くと眩い日の光に照らされた森の風景が変わらずそこにあった。
「現実……?」
これはいわゆる迷宮化というやつでは。
それまであった建物や部屋を飲み込み異空間化する現象。
あるとしたらそれしかない。
さっきの探索系配信者達はここを探していたとか?
いや、それはない。ここは俺しか出入りしていないし鍵だって閉めてあった。
ひとまず大家である田中さんに報告すべきでは。
「田中さん」
二階の通路から下にいるであろう田中さんに声をかけてみる。
しかし、返事はなく彼女の姿もなかった。
まいったな。もう帰ってしまったか。
明日も仕事があるし……しかたがない。今日は寝カフェに泊まろう。
よりにもよって俺の部屋が。
この場合中にあった私物とかどうなるんだろう。
通帳とか印鑑が心配だ。着替えだってどうしようかな。
元に戻るのだろうか。そんな話は聞いた覚えはないけど。
再びドアを閉め施錠する。
部屋を離れる足は重く疲れを感じた。
◇
「頼まれていた書類です」
「確認しておく。今日はもう帰っていいぞ」
係長は帰り支度をしていた。
書類を彼のデスクに置いた俺は疲れた足取りで席に戻る。
周囲のデスクからはすでに人が消え、帰り支度を整えた同僚達が続々とオフィスから出ていく。
腕時計を確認すると時刻は十七時過ぎ。
今日も定時帰宅できそうだ。
しかし、帰っても部屋が……。
こういう時ってどこに連絡すれば良いんだろう。
田中さんへの報告は大前提として、その次は区役所とか?
ただ、言ったところで元には戻らないだろうな。そんな話を耳にした記憶はない。むしろ完全封鎖もありえる。
そうなれば私物の行方が分からないまま泣き寝入りってことも。
…………。
報告よりも先に状況を把握しておくべきでは?
そう、部屋の持ち主として何が起きたのか調べておく必要がある。その過程で私物も探索すれば良い。
って何でわくわくしてるの俺。
割と追い詰められてるの分かってる?
嘆息しつつ俺も帰り支度を始める。
「これから飲み会を開くんだけどどうかな」
「参加したらみんな盛り上がると思うよ」
オフィスの出入り口で大塚と中田が女性に声をかけていた。
飲み会ねぇ。一度しか誘われたことないけどまだやってるんだ。
俺なんかが参加してもつまらないだろうけど。社内では空気とか存在感ゼロとか言われてるみたいだしさ。とりあえず泣いて良いですか?
「藤宮先輩が参加するなら私もいきますけど、そうじゃないなら不参加でお願いします」
二人が声をかけていたのは西島さんだったようだ。
さらりと癖のない黒く艶のある長髪。長いまつげとぱっちりとした瞳。スーツを着ていても分かる胸部の膨らみと確実に男性社員の目を引くすらりとした脚。それほど高くない身長も相まって美人ながら可愛らしい印象を与えている。
彼女は同僚の『西島由海』。教育係として世話して以来、未だに俺のことを先輩と呼んでくれている可愛い後輩だ。最近は顔を見るくらいで話もできてないけど。
「そんなつれないこと言うなよ。後生だから参加して、頼むって」
「不参加でお願いします。それじゃあ私は帰りますので」
「ちょ、西島さん」
彼女は誘いをバッサリ切り捨て帰って行った。
残された大塚と中田は意気消沈とばかりに嘆息した。
「またフラれた。なんで藤宮なんだよ」
「あの空気を参加させるって難易度たけーって。他の参加者からクレームが来たらどうすんだよ。アイツ呼ぶくらいなら別の奴で席埋めるっての」
「あ、やべ。藤宮いるじゃん」
「お先に失礼しまーす」
俺に気がついた二人は逃げるように退勤する。
西島さん……断る理由に俺を使わないでもらいたいな。
俺が飲み会に参加するってなったらどうするつもりなんだろう。
ま、その時は別の言い訳をするか。
上着に袖を通し鞄を掴んだ。
◇
再び自宅のドアを開けた俺は、昨日の光景が夢でないことを今さらに実感する。
風に揺れる木々のざわめき。濃密な深緑の香りが都内ではあり得ないほど満ち満ちている。
「た、ただいま……」
恐る恐るドア枠をまたぎ向こう側へ。
自宅の認識でドアはきちんと閉じた。もしもの場合に備えて施錠はしないでおく。
時刻は十八時過ぎ。外は茜色に染まる夕暮れだ。にもかかわらずここは目が痛くなりそうなほどの綺麗な青空であった。
俺がいる辺りは比較的木々の密度が低く開けた場所であるようだった。周囲に目をやれば崩れたレンガの壁らしきものがあり、壁は囲むように配置されていた。
建物の跡だろうか……大きさ的に一軒家くらいありそうだ。
振り返って先ほど入ってきたドアを再度確認する。
レンガの壁に埋め込まれるようにアパートのドアが置かれていた。これだけ見ると明らかに場違い。異様なまでに浮いている。
「拍子抜けするくらい何も起こらないな。迷宮には魔物が生息してて危険だと聞いてたんだけど。迷宮によって出てくる魔物の数が違うのかな。ここはすごく少ないとか」
ごろんと草の絨毯に転がる。
ちゃんと空を見上げるなんていつぶりだろう。
空気も新鮮で疲れが身体から溶け出すようだ。
あ、やばっ。昨日あまり眠れなかったから今頃睡魔が。
明日は休日だから時間を心配する必要は無いんだけど……ぐぅ。
「ぶぁっくしゅ!!」
寒さからくしゃみが出る。
そこで一気に目が覚め俺はがばっと上体を起こした。
「外? あー、違うそうじゃない。迷宮に入って横になって、いつの間にか寝ていたみたいだ。いったい何時なんだ。真っ暗でほとんど何も見えない。スマホスマホ、あった。時刻は……九時間も眠っていた!?」
十八時に帰宅したので現在は翌日の午前三時頃である。
スマホで辺りを照らせば意識を手放す前の景色と違いは無かった。空気が澄んでいるからなのか真上にはまるで数億個の宝石を散りばめたような星空があった。上京する前でもこれほどの夜空は目にしたことはない。
ひとまずスマホの画面を消しポケットに入れる。
あれ、なんか身体が軽い? いつもよりスッキリしてるというか、寝ても割と疲れが残っていたのに今は走り出したくなるようなくらい元気が溢れてる。まさか森のリラックス効果?
「あ、鞄。外に置いていたんだ。あの中には社員証と仕事用のスマホが――」
ドアを開けて外に出た俺は、目を点にして固まった。
なぜならドアの向こう側には変わらず、夕暮れの東京があったからだ。
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