大華は路地裏にて咲き舞う
5月某日。
ゴールデンウィークの大型連休が明け、同時に春の温かさが落ち着き始めてきた頃。
ここフラレンシア学園も桜は散り、麗らかな空気が漂い学び舎に通う者たちを眠りに誘う。
そしてこの2学年Cクラスの中にもその眠りに誘われ、現国の授業中にも関わらず夢の世界を満喫している少年がいた。
「それじゃあ、ここの問題を……藤倉くん答えて……って……」
現国教師、小林リツは黒板から生徒の方を向き直り生徒を指名しようとした時寝ている生徒に思わず溜息を漏らした。
「先生、和明寝てます」
彼の目の前に席を置く男子生徒、市川孝介はそう告げると後ろを向いて熟睡するクラスメイトを揺らして起こそうとする。
「和明、起きろ。 先生呼んでる」
「…………」
返答がない。どうやら本当に熟睡のようだ。彼の席は窓際の一番後ろ。日差しが程よく当たり春の暖かな風と匂いがもっとも広まる空間。確かにこれは眠くもなるし眠るにはとてつもなく良いシチュエーションだ。
……授業中であることを除いて。
リツはぷっくりと頬を膨らませて不満げな顔をすると分かりやすいくらいの怒りの足取りで和明の隣へとやってくる。
「こら、藤倉くんっ! 起きなさい、そんなに私の授業は…………」
頬を膨らませたまま彼のからだを無理やり起こす。そしてもう一度注意しようとした途端、日差しに照らされる彼の顔が絶妙な角度で美しいその顔を演出する。その顔に思わずリツは見とれてしまっている。
「先生、騙されるな。 その顔は寝てる振りの顔だ!」
「はっ!」
危うく騙されるところだった。
そう、これは彼の策略。
再び起こそうとした時彼の顔を見ると和明は片目を開けて、てへなんて口にしてその額には汗を流していた。
「んん……酷いよ、孝介……せっかく寝てたのに……」
昼時、フラレンシア学園の大食堂にて。
「眠くなるのはわかるが、小林先生の授業で寝るのはおすすめしないぞ。 怒った先生は可愛いがあとが面倒だしな」
現国教師、小林リツは優しい。あまり怒らず、常に笑顔を絶やさない男子人気も女子人気も高い女教師ではある。しかし彼女は怒るとなんと面倒くさくなる。どうめんどくさくなるかというと……終始その日が終わるまで子どものように拗ねるのだ。ちなみに宿題も倍になる。孝介の必死の説得あって今回は落ち着いたが。
「それにな、和明。 今日はよかったからいい様なものの、もしあいつに見つかったらタダじゃ済まないぞ……」
「あいつ……ああ、あの人ね……たしかに。 今日は穏便に済んだからいいけど……」
食事をしながら、2人は互いに冷や汗をかきながらお互いに苦笑いを浮べる。そう、この学園において目をつけられては行けない人物が何人かいる。先程から話しているのは、その中でも筆頭の人物である。
「この間服装検査で引っかかった先輩が居てな、その先輩に新しい制服あげてわざわざ改造した制服治してから返したんだとさ」
「律儀すぎる……というか素人がそんなの直せるものなのそれ……」
「うちのサッカー部の先輩なんかこっそり持ち込んでた漫画を図書館寄贈とか言って没収されてたし」
「捨てずに漫画を図書館に寄贈する時点でもうやってる事のベクトルが違う……」
「うちの図書館、漫画普通にあるしな……貸出厳禁だけど」
他にもその人物に対して様々な噂が出てくる。
遅刻常習犯には出席の1時間前に電話するとか、忘れ物常習犯には貸出教科書やらなんやら用意するとか、居眠り常習犯には課題の割増だとか反省文だとか……聞く限りやってる事は横暴そのもの。そんな人物の裏での呼び名はと言うと……
「鬼の局長、だったっけ」
「鬼の局長、または鬼城……この学園一の規則魔……ザ・学園のルールブック……」
「誰が鬼城ですって?」
「げっ」
思わず2人して背後からの声に素っ頓狂な声が漏れる。振り向く必要などない。その影と声、そして口調で誰が後ろにいるかなど容易に想像が出来る。
背の肩甲骨ほどまで伸びた黒髪、すらりとしたその体型は見る者を魅了はすれどその切れ長の瞳と視線が逆に相手を萎縮させる。
「さて、飯も食ったし行くか!」
「そうだね!次移動教室だしね!」
2人は大声でいいながら立ち上がり食器を持ってその場を去ろうとした時、後ろから頭を鷲掴みされる。今にも骨が軋む程の握力に2人は動けずにいる。
「ふんっ!」
そのまま2人は再び椅子に座らせられ彼らの目の前へとその女子生徒は移動し両腕を組み睨みつける。
不味い、これは非常にまずいと2人は自身のこれからの結末を覚悟する。
成城理名。フラレンシア学園2年A組所属。2年生にして風紀委員長を務めている。鬼の風紀委員長と呼ばれ規則にとてつもなく厳しい。警視総監の父を持ち母もまた元は警察関係者。そんな家庭に育ったが故か本人も正義感が強い。この学園に入学後、直ぐに風紀委員を立ち上げることを生徒会に申請。許可がおりると共に風紀委員長に一年の頃に就任、以来学園の校則の鬼と呼ばれ鬼の局長の2つ名を持つ。
実際、彼女がそういったことをしてきたおかげで遅刻者や授業中の居眠り、校則違反などが減ったのもまた事実。一部の生徒たちからはやりすぎなど言われたり、反感を買われているが、それ以上に人望も信頼も厚い生徒である。
「で、藤倉くん」
向かいの席に座り、理名は和明へと視線を向ける。
痛い。とてつもなく痛いぞこの視線と、和明は隣の孝介に救いの視線を求める。しかし孝介は無理だと言わんばかりに口を閉じている。
「また、今日も授業中居眠りをしたそうだけど?」
「はは、ははは……な、なんの事かな……! 」
誤魔化すように笑顔を作りながら話すも、その口元と声は震えている。驚く程に下手な嘘である。
「いい加減にしなさい藤倉くん。 貴方、2年生にもなって居眠りや遅刻は恥ずかしいと思わない?」
しまった、と和明は思わず焦った顔になる。
これは昼休みがまるまる潰れるお説教タイムだ。
「成績は悪くないのに、内申点に響いて留年することになるわよ。 去年だって……」
「やんのかこら!!」
いままさに長いお説教が始まろうとした時、食堂の奥の方で誰かの怒号が響いてきた。
見れば、男子生徒2人がぶつかったぶつかってないなど、足を踏んだ踏んでないなどというくだらないことで喧嘩をしている様だった。
「……はぁ、全く……ここに居なさい、藤倉くん。 まだ、話は終わってないから」
「あ、にげた」
理名が和明に釘を誘うとしたところ、気づけば彼は大急ぎで逃げてしまっていた。
なんというかあまりにも早い。逃げるのが早すぎる。そうしてそこに取り残された孝介は、ちらりと理名を見た。
「…………」
「ひぇ」
理名のえも言われないほどの表情。これは間違いなく捕まれば地獄の説教コースが待ち受けている。
しかし理名は1度その鬼のような顔をやめると、未だに喧騒が鳴り止まない食堂の奥へと、孝介には何も言わずに静かに髪をなびかせてその場をあとにして行った。
(和明、ご愁傷さま……)
ここは、フラレンシア学園。旧東京、東京にある高校。
生徒数およそ1500名、教職員およそ200名と、日本随一の進学校でありマンモス校。
普通科、理数科など、他多数の専門教科を併設し、中には経営科や商業科、工業科と多彩な分野の生徒や教員が集う。
進学校でありながら「学ぶべき意志ある者にこそ教養を」という校訓を元に、どんな不良だろうと問題児だろうと学ぶ意欲があるならば入学は叶う。無論、それなりに試験は必須ではあるが、最終試験である面接に合格さえすれば入学可能だという。
そしてこの学園の何よりの特徴は、様々な施設にある。
農業科の農業エリア、工業科の工場エリア、他にも24時間併設のトレーニングエリア、グラウンドも2箇所あり、来客用の庭園や中庭も数カ所存在する。
そんな大きな学園の中に、この男とも女とも見える少年、藤倉和明は在籍している。
所属学科は農業科の造園部、今年で2年生。普段の成績と言えば、可もなく不可もなく。とはいえ授業中の居眠りや宿題忘れなどが少し多いため、ちょっとした問題児である。
時刻は昼休み。この学園の昼休みは他と比べて少し長い。その理由は学園自体が広いため、その移動にかかる時間などを考慮して1時間半のお昼が用意されている。
そして、和明は絶賛理名から逃げていた。
先日に続いて、2日目の授業中の居眠りである。
それがものの見事に理名にバレ、昼休みに和明は追いかけられる羽目になった。
外を走る男女。男は体力がないが、生存本能が働きこれまでに無い速度で後ろに迫る般若から逃げていた。
ついでは男の後ろを追いかける女。この女の走るフォームのなんと美しきことか。
さながら、山姥とそれから逃げる百姓である。
五分ほど逃げ回ったところで、曲がり角を曲がりたまたま空いていた窓へと飛び込み即座に窓を占める。
そして、見失った理名は般若の顔をしたまま周囲を見渡した。確かにここに逃げたはずだが、見当たらない。
和明は息を殺し、逃げ込んだ先の廊下で彼女が去るのを待つ。やがて、足音がゆっくりと遠ざかっていくのを感じ取れば安心したように息を吐いた。
「危なかった…...」
全速力で逃げ回っていたせいか、落ち着いた途端に一気に疲れがどっと押し寄せてくる。ただでさえ体力がないというのに一生分走った気分だ。
「また、逃げてるの?」
「うわっ!?」
突然隣から聞こえてくる声に和明は思わず飛び上がってしまう。
てっきり理名が和明を見つけたのかと思ったが、違った。
桃色の柔らかなふわりとした髪、そしておっとりとした栗色の瞳が和明の事を見つめていた。
「八凪さん......! びっくりした......」
「あら、飛び込んできたのは和明よ? 私は貴方より先にここに居たわ」
安堵した顔を浮かべる和明に微笑みを向けながら八凪と呼ばれたおそらくは和明と同級生であろう女子生徒は淡々と告げた。
「それより、土足で廊下にいたらまた注意されるわよ?」
彼の足元をゆびさす。
そういえば外から飛び込んできたから靴は履いたままだ。慌てて和明はその靴を脱いで小脇に抱えた。
「また授業中に寝てたの?」
「う......まぁ、そんなとこだよ......」
「あの子は少し生真面目すぎるから、大変ね。 そうだ、今から時間あるかしら?」
「え、あ、まぁ、あるけど......」
びくりと思わず和明は後ずさる。
「大丈夫よ、別にあの子に突き出したりはしないわ。 今から少しお茶にするの、良かったら一緒にしていかない? 理名から隠れるのに、うってつけだと思うけど」
純粋な微笑みを浮かべて女子生徒はそういうと茶道室と書かれた部屋の扉を開けて問いかける。
このままでは見つかるのも時間の問題、とはいえ逃げる気力も正直残ってない。
和明は小さく頷くと立ち上がり、彼女の元へと歩み寄ってその教室へと入っていった。
八凪優香、フラレンシア学園2年生、経済学科所属。
東京では知る人ぞ知る、大手ドールメーカー、アンテイア・ドールズの若き当主である。
そんな彼女に誘われ、茶道室で和明は彼女と彼女の後輩である1年生とお茶を飲んでいた、その目の前には少し豪華な和菓子も添えられている。
「大和屋和菓子さんから試作品の和菓子を先日頂いたの。 良かったら食べて感想を聞かせてくれ、って」
「大和屋和菓子って、あの有名な......?!」
「あら、知ってるのね。 そうよ、お母様と社長が長い付き合いだから私にもくれたの」
「ほぇ......これ、絶対1箱1万もする奴......」
こんな高いもの、自分も貰っていいのかと問いかけると優香は嫌な顔などせずに頷いた。そして、彼の前に1年生の女子生徒が点てたお茶が出される。
(これ、どう飲むのが正解なんだろ......)
茶道の作法など和明は一切分からない。どうしたものかと悩んでる時、和明をみて優香が口元に手を押えながら笑っていた。
「礼儀正しいのね、和明は。 そんな気にしなくていいのよ。 足を崩して、リラックスして好きに飲めばいいわ。 別に部活動をしてる訳では無いのだから」
どうやら、悩んでいた和明をみて優香が助け舟を出してきた。彼女のその優しさを無下にする訳にも行かず、和明は微笑み返すと無礼はないよう自分なりに丁寧にそのお茶を口にした。
ほろ苦く、冷たい味が口の中に広がる。
そしてその手は自然と彼女から貰った高級和菓子に伸び、自然と食していた。
今まで食べたことの無い味。甘みが口の中に広がり、お茶との組み合わせが絶品。
優香は、和明が感想を言わずともその美味しさを視線で感じることが出来た。
「ご馳走様です」
「お粗末さまでした」
食後のお茶と高級和菓子に舌鼓をうち、満足感のある顔を浮かべながら和明がお礼を言えば、優香と1年生の女子生徒は頭を下げた。
「あら......」
ふと、ポケットに入れていた優香の携帯が通知を知らせる。取り出し、その画面を見るとなにやら微笑みその携帯をしまった。
「ごめんなさい、ちょっと次の授業に関するメッセージ来てたの」
「気にしなくていいよ、僕はお客さんの立場だからさ」
「ふふ、礼儀知らずなんて言われるかと思ったわ」
「誰だってそういう面あるよ。 俺なんか授業中よく寝てるしね!」
誇らしげに言うところでは無いのだが、人間誰しも不十分なところがある......という彼なりの気の利かせ方らしい。少なくとも優香はそう感じた。
「居眠りも程々にしないと、いよいよ理名の雷も落ちるわよ?」
もう既に落ちてるとはいうまい。このままでは放課後の学園奉仕コースか、原稿用紙数十枚の反省文になる。
「その理名なら、先程委員会に呼ばれて自分の学科の方に帰って行きましたよ」
2人で会話していると、茶道室の中へと1人の男子生徒が入ってくる。片目が隠れるほどの長い緑黒色の髪に、ラウンド型のメガネをした人物の片手にはなにやらお土産のようなものがあった。
「いらっしゃい、雅」
「失礼します、優香。 藤倉くんも、こんにちは」
「こんにちは、修禅院さん」
修禅院雅、和明と優香2人と同じく2年生の生徒。普通科に所属し、優香とは幼い頃からの友人である。
「雅でいいですよ、藤倉くん。 本日は茶道室で避難ですか?」
「そんなところ。 にげてたのを八凪さんたちが匿ってくれたんだ」
どうやら外から会話を少し聞いていたのか雅と呼ばれた男子生徒は笑いながら問いかけると和明はバツが悪そうに頷いた。
「安全ってわかったなら、そろそろ行くね。 お茶、ありがとう八凪さんと......」
先程いた1年生にお礼を告げようと思ったがどうやら片付けで下がってしまったようだ。優香は代わりに伝えておくと口にして、和明はお辞儀をして立ち上がった。
「もう行くんですか? お土産があるんですが、良かったら藤倉くんも......」
「んーん、ありがと。 次は移動教室だから早く行かないと、また機会があったらそのときにもらうよ」
本当は先程から貰い物ばかりのため、和明なりの遠慮であった。その気持ちを知ってか知らずか、雅も無理矢理渡すわけもいかなかった。
「それじゃあ、失礼しました」
礼儀正しく頭を下げ教室を後にする和明にふたりはまたねと声をかけ、彼は去っていった。
「行ってしまいましたね。 残念、もう少しだけお話をしたかったのですが......」
「あら、彼のこと気になってるの?」
「最近理名がよく彼と友人の話をしてるので、どんな方なのかと思って」
和明の友人、孝介のことだろうか。
2人は理名にとっての1番の問題児である。居眠り、宿題忘れ、部活サボりなど様々。2人とも成績は悪くないし、孝介に至っては学年上位の成績なのだがなにせ授業態度がよくない。教員たちに頼まれ、理名も対処しようとしているがどうにも上手くいかない様子。
「和明は面白い人よ。 それに、噂によると彼の寝顔とっても綺麗なんですって」
そういえば、と優香が和明のクラスにいる知人の言っていたことを思い出す。
和明はよく居眠りをするため、クラスメイトたちは彼の寝顔をよく見る。その寝顔の美しさたるや。
人によって彫刻のようだと言い放つ者も多い。当然、和明自身そんな自覚は無いのだが、どうやら裏では人気があると噂。しかもそれは授業中にしか見られないということで、なかなかレアなのだとか。
確かに和明の顔はあれでいて整っている。男か女か見分けられないほどに。
大袈裟な表現というのはこの世にいくらでもあるが、和明の寝顔に至っては事実らしい。常日頃無気力な彼の寝顔がどんなものなのか、優香も雅もどうやら気になる様子。
そんな、世間話のような会話していた2人。やがてその場に沈黙が訪れた。
しばし優香は視線を近くにいた後輩に送ると、意図を察したのか女子生徒は小さく2人に頭を下げ礼をしてからその教室を静かに去っていく。
さらに数秒、足音が遠ざかることを確認した優香は優しく雅に微笑みかけ、雅もまた優香に微笑みを返した。
「それで、今日の要件は何かしら」
普段よりも僅かに低い声で優香は尋ねる。
本来、雅は茶道部の一員では無い。彼は剣道部の部員、ましてや今は昼時。お昼を食べに来たにしては遅すぎるしなにより弁当はもっていない。
そして先程はお土産、などと言っていたが……どうやら本来の目的は他所にあるらしい。
「昨夜の件で、連絡が来ています。 報酬の受け取りは先程完了、今夜君と僕、そしてStrikerとWitchが呼び出しを受けています。 場所の指定は夕方頃に通達がくるかと」
「わかったわ。 連絡役ご苦労様、Assassin」
いいえ、と雅は微笑んで返した。お土産のついでなのでと言葉を付け足して昼休みの残り時間を見る。まだ少しの余裕はある。
普通科は基本的には移動教室が少ない。今戻っても時間に空きが出来るだろう。
そして何を言うでもなく優香は茶道具を取ると静かにゆっくりとお茶を作り始めた。
(いないよね……?)
きょろきょろと和明は自分の教室に帰る途中で周囲を警戒しながら歩いていた。
雅は理名が呼び出しを受けて戻ったと言うが、万が一にも遭遇するかもしれないと思いこんなふうに外を歩いていた。傍から見れば不審者である。
しかしあまり周りから怪しまれないように、視線をさりげなく周囲に配っていた。
やがて第1校舎へと向かってる途中にある体育館に差し掛かると、重く鈍い音が体育館から響いてきた。
え?喧嘩?とでも疑うほどのその音が気になったのか、和明はちらりと体育館を覗き込む。
音の場所はボクシング部。
小窓から覗いてみるとそこには赤毛の女子生徒がトレーニングウェアでサンドバッグをパンチしていた。
しかしどうにもその音は、聞いてわかるほどにありえないくらい重く響いていた。
周りにほかの部員もいないことから恐らくは単独練習をしているのだろう。
パンチの度にサンドバッグがミシミシと音を立てる。今にも破裂しそうなほど。
(ガタイいいなぁ)
自分よりも遥かに鍛えてる体、その腹筋や上腕二頭筋が彼女のたくましさを物語っている。
まって、音エグくない?そんなレベルの打ち付け。それも鍛え抜かれた体から繰り出される故か、サンドバッグをぶら下げる鎖が激しく揺れる。
もう一度ちらりと見るとその顔はまるで何か怒りを発散するようななにか……。
触らぬ神に祟りなし、和明は足早にその場を去ろうと踵を返したその瞬間、何かにぶつかる。
「わ……」
なにかではなく、だれかであった。
ぶつかった先から、小さく声が漏れる。視線を下にやると、そこには5月だと言うのに首元にマフラーをしている男子生徒。
「ごめ、ん……あ、かずあ、き……」
「こっちこそごめん! ……って、シロ?」
お互いが面識のあるもの同士。
空石シロ、フラレンシア学園2年生。機械工学科所属。
和明の同級生であり、1年生の頃に仲良くなったそれなりに付き合いの長い生徒。
「もう、すぐ……授業、だけど……なに、してる、の?」
口元をマフラーに埋めて隠しながら、普通とは違ったゆっくりとした口調でシロは小さく首を傾げ尋ねる。
理名から逃げてる途中と、和明が答えるとそれだけで今の彼の状況を察したのか、なるほどと頷いた。
理名を見なかったかと和明が尋ねようとしたときシロは彼が口を開くよりも先に、彼女が学科棟に戻るのを見たとおしえてくれた。
彼の服装が体操着であることと、胸の前で抱えている体育の教科書をみれば彼がこれから体育館で授業があるというのは見てわかった。
すると、未だに体育館のトレーニングルームからサンドバッグを殴る音がシロにはようやく耳に入ったのか和明と目線を合わせ「誰…?」と問いかける。
「香織だよ。 来る前から居たんだ。 そういえばもうそろ授業だもんね、戻らなくていいのかな?」
「ん……じゃあ、ぼく、が……つたえとく。 また、授業遅刻した、ら……いよいよ、風紀委員に、おこ、られる……」
「あれ、香織って結構もう……?」
「もうリーチだ、あと1回でスリーアウトだな」
突如和明の背後から声がする。思わずそれに和明もシロも2人してびっくりしていた。そこには先程のサンドバッグをボコ殴りにしていた、2人よりも背の高い女子生徒が制服を雑に着崩しながら肩からタオルをかけた姿で立っていた。
黒澤香織、フラレンシア学園普通科所属の2年生。部活動は無所属、身長175センチ。別名、フラレンシアの問題児筆頭。
「香織、おつ、かれ……」
「おう。 和明、黙って見てるのはさすがにどうかと思うぜ?少しは声かけろよ」
どうやら和明が彼女をこっそりとみていたことには気づいていたようだ。和明も別に彼女目当てで見ていた訳では無いため、誤解のないように弁明しようと思ったが香織も笑って、冗談だと和明の肩を優しく叩いた。
和明がシロに驚いたところで香織はサンドバッグを殴るのをやめてこっちに来たと言う。
時折彼女は休み時間などにボクシング部の顧問の許可を得てストレス発散にここのサンドバッグを殴りに来る。何かあったのだろうかと和明も聞こうと思ったが、シロはやめといた方がいいと和明に目線を向けて首を横に振った。
やがて時間を見ると授業の時間も差し迫ってきている。和明と香織の2人はシロに別れを告げ、肩を並べて教室へと戻っていく。
「そういえばこの間はありがとな。 課題見せてくれたおかげで提出間に合った」
「別にいいよ。 前に香織には助けてもらったしね、困った時はお互い様」
数日前、午後の授業で提出する課題を香織はやるのを忘れかなり焦っていた。単位にもかなり影響する課題だったため課題忘れ常習犯である香織は珍しくこの世の終わりかと思うくらい焦っていたところを、たまたま選択授業で同じだった和明にうつさせてもらったのだ。
おかげで提出には間に合い、単位も無事確保したとのこと。和明もそれには良かったと微笑んで喜んだ。
最初の頃もこうして2人は出会った。
香織は普通科に所属し、普通科では選択授業と普通5科目の授業を受けるが専門科の生徒は五教科及び専門教科、そして任意で選択授業を2種受けることが出来る。それを受けることでなにか大きな差があるかと言えばさほどないが、卒業後の就職活動に少しは影響が出る程度らしい。
和明は世界史と政治経済を追加で選び、香織は世界史と現代社会を選択授業。同じ授業で一緒になった2人は偶然にも隣の席となり、1年生の時に初日に提出しなければならない重要な課題を忘れた香織は和明に初対面で助けを求めた。
それ以来2人は知り合い、それなりに話す仲となった。
「今回は結構猶予あったとおもうんだけど、何かあったの?」
この課題自体、一ヶ月前から出されたものでかなりやるには量もそれほど多くなく単純に調べ物程度のはず。授業でその課題を出された時にも、2人してこれはやらなきゃやばいと言い合っていたのだが。
「あ〜、ほんとは最初の時は忘れてたんだけどよ。 1週間前にやろうと思ってたら、忙しくなっちまって手つけられなかったんだよな……」
「それは災難だったね。 そういえば孝介もその時忙しくて課題前日まで手付かずっていってたっけ?」
ふと孝介がそんな愚痴を今朝零していたことを思い出す。しかしあの男、適当そうに見えて成績は学年1位。その気になれば1日で課題を終わらせられるような男。
だが、香織はお世辞にも成績がいいとは言えない。恐らくは和明よりかは悪い可能性がある。
とはいえ、和明も誰かに課題を写させてもらうなどたまにあるため彼女のことはいえない。
「今週もう3日連続遅刻してるし、課題忘れもあるしいよいよ成城の奴が出てきそうだな」
「わかってるなら気をつければいいのに」
「だってよぉ……起きれねぇんだもんアタシ朝って」
どうやら香織は朝に弱いらしい。学園から帰ったあとは忙しい、とよく彼女は口にするがなにかバイトをしてるのだろうか。
以前そのことを問いかけたことがあるが、香織は「いろいろとな」と答えるだけではぐらかすばかり。この学園はアルバイトなどは特に禁止されていない。何をしているのか気になるし興味はあるが、和明とて人のプライベートに深くまでは入るほど無礼な人間ではない。
いずれにせよ、彼女も彼女の事情があるのは当然。そんな香織に和明は一言、無理しないでね?またいつでも課題くらい写させてあげるからさ。などと返した。
「あんがとよ、そんときはまた頼むわ。 ってか、お前もバイトとかかけ持ちしてんだろ? よく課題する時間とかあるよな。 コンビニとか色々やってんだろ?」
彼女の問いかけに和明は、バイト終わりに夜遅くまで課題を片付けてると答えた。
「俺ってゲームとかやると夜遅くとか朝までやってたりするくらい夜型の人間だからさ、課題もその流れでやってるんだ。 そのかわり、日中ものすごく眠たくなるんだけどね……」
そう、だからこそ和明は授業中によく寝ている。バイトの関係で遅くになってしまう、などと言い訳してはバイトしなければいいと多方面から言われてしまうためそんな言い訳はしてない。
なるほど、だからさっき成城に追いかけられていたのかと香織は納得する。無論、図星。その言葉に和明も苦笑いをうかべる。
「あんまし、働きすぎて体壊すなよ」
彼の身を案じるように香織が言う。
「お前が倒れちまったら誰がアタシに課題写させてくれんだよ」
そっちかー、と思わず和明は笑う。
しかし彼女が心配してくれたのも事実。その言葉は嬉しかったのか、和明もありがとうと言葉を返した。
そして2人は笑い合いながら生徒玄関を上がりそこから各々の教室へと戻っていった。
教室に戻る途中で和明は孝介とばったり出会い、2人で教室に戻ることにした。
無事な和明をみて、孝介は理名から逃げ切ったんだなと面白げに笑うと和明は、命からがら逃げ延びたと冗談げに笑う。
廊下を歩いていると、暖かな風が廊下の窓から流れ込んでくる。その空気に思わず和明は立ち止まり、外の景色を眺めた。
どうかしたか、と孝介は問いかけ和明はなんでもないと返して再び歩を進めていった。
また、眠くなりそうなそんな予感。良くないことではあるが、こんな空気では抗えるはずもないと心の中で常々思ってしまう。
時折、夢を見る。
何も無い、水槽の中をただただ浮かんでいる夢。
目の前に広がるのはただの水。
だけど、呼吸はできる。
この矛盾に気づいた時、これが夢なのだと理解した。
水槽の外には何も無く、ただただ白い空間が広がっている。
ここがどこなのかは分からないけれど、心地は良い。
だが……始まりあるものには終わりがあるように、この夢もじきに終わりが来る。
亀裂が、水槽に突如現れる。
そらきた。
これが、終わりの合図。
そろそろ、起きなくては……。
鐘の音が鳴り響く。
授業が全て終わり、放課後を知らせる鐘の音。
その鐘の音を皮切りに、和明の瞼はゆっくりと開いた。
未だに重いその瞼を開こうとするが半分しか開かない。このままでは朝まで寝てしまいそうな勢い。それだけはさすがに宜しくないと直感したのか、半開きの瞼のままどうにか体を起こし背伸びをする。
「ふ、ぁ……」
眠気は抜けきっていない。教室にある壁掛け時計をみれば既に放課後になってからそこそこの時間が過ぎている。ポケットのスマホを取り出すと通知が溜まっていた。その相手は孝介。
内容を確認すると、そこには急用出来たから先に帰るとの旨があった。
(あれ、サッカー部って県大会近いんじゃなかったっけ?)
市川孝介はフラレンシア学園のサッカー部に所属している。ポジションはフォワードで1年生の頃から天性のスポーツ万能能力を発揮しレギュラーに収まっている。
勉強は優秀、スポーツも優秀。弱点がない、と思われそうだがその実彼は部活サボりの常習犯である。
そもそも彼自身、本気でサッカー部に入りたくてサッカー部にいるのではない。
たまたま中学時代に助っ人でサッカー部に一時的に入り、それを偶然見ていたフラレンシア学園のサッカー部顧問にスカウトされ、本人は極めるつもりないと答えたもののかなり強引に話を勧められたのだという。
結果として、時折のサボりには目を瞑るとの条件付きでこの学園に入り、更にはサッカー部にも入部。
そんなシナリオがあり、そんな話を聞かされた時それはそれでどうなのと和明も呆れたものだ。
(なんで起こしてくれなかったの、と)
わざとらしいそんな冗談の返事を孝介に送ると、直ぐに返事が帰ってきた。
起こしても起きないお前が悪い。なんとも冷たい返事ではあるが、これはデフォルト。いつもこんな感じである。
というより、それほどまで寝入っていたのだろうか。
家で眠る時は眠りが深いが、ここで寝る時は眠りはほとんど浅いはず。
よほど疲れていたのだろうと思いながら、もう一度欠伸をすると席から立ち上がる。
その時だった。
「じ〜〜……」
「うぇ?」
視線を感じる。
その視線は……机のすぐ真横。
見ればそこには小柄な女子生徒。机に手を添え目元だけ覗くように和明のことを見つめていた。
「ええ、と……小鈴?な、なにしてるの?」
名前を呼ばれた少女は、ぴこんとアホ毛を揺らす。
動くんだそれ、と和明はびっくりする。
「和明ぐっすり寝てたから、起こすのも悪いと思って起きるの待ってたヨ」
カタコト喋りの少女、猫宮小鈴。同じく2年生、商業科に所属。日系中国人である。
起きるのを待ってたとは優しいが、ずっとそうしていたのだろうか。傍から見れば少しびっくりする。
和明が立ち上がると、小鈴もひょっこりと立ち上がった。
かなり小さい。身長は153センチほどだろうか。おそらくまだ中学生で通じる。
「一緒にかえろっ」
どうやら一緒に帰るために待っていたらしい。
和明と小鈴は帰り道と方向は同じだ。時折和明の部活がない時はこうして一緒に帰ることがある。
今日は和明は部活動行くつもりもなくバイトもないため、帰って課題をやろうと思っていた。
再び時間を見ると、もうそろ夕方。ちょうどいい時間だと思うと、カバンを手に取った。
「じゃ、帰ろっか」
「…………」
「……? どうかしたの?」
猫のような瞳で和明を見上げる小鈴。その視線は和明を見てるのかそれとも部屋の隅を見上げてるのか。捉えどころがほんとに無い。
(エキセントリック不思議っ子……)
「ねぐせ」
自分のアホ毛をぴこぴこと動かしながら小鈴が呟く。
それを指摘されるとスマホ取り出しカメラで鏡代わりにしてみるとねぐせが出来ていた。
それを手で直そうとすると、小鈴がしゃがんでしゃがんでとせがんでくる。
言われた通りにしゃがむと、小鈴は和明の寝癖に手を触れてぺたぺたと直していた。しばらくするとそのぴょっこりとはねていたねぐせが治まった。
ぐっじょぶっ、と小鈴がサムズアップ。
「ありがと、小鈴」
和明は微笑んでお礼を言うと、思わず手を伸ばして撫でそうになる。慌てて和明はその手を引っ込めた。
(なでぬ?なでぬ?)
なぜ?と言った顔で見つめてくる。
撫でてよかったのかと和明は気づくと、今更ながら恥ずかしくなり躊躇うも、手を伸ばし彼女の頭を優しく撫でた。
(むっふー!)
何度か撫でただけで満足気に喜んでいる小鈴。
さながらこれは猫と言うより、犬に近い。
やがて小鈴も置いておいたカバンを手に取ると帰ろうと催促してくる。
何故これほどまでに彼女が和明に懐いているのか。
それは未だに謎なのだが、小鈴曰く昔街で迷子になった時に和明に案内してもらい助けて貰ったのだと言う。
そんなことあったっけと和明は覚えていないのだが、小鈴は覚えていたらしい。詳しく聞こうとしても、小鈴は小鈴自身が覚えているからそれでいいのだ、と。
2人は肩を並べて生徒玄関を通り過ぎては、靴に履き替え外へと出る。
まだ日は沈んでいない、もう2時間もすれば日は傾くだろう。
帰り際にどこかで食事をしていくのも悪くないかもしれない。
そんなことを考えていると曲がり角で何かと衝突する。
「あう……」
「あ、ごめん……って、シロ」
誰かと思えば、シロであった。肩にはカバンをかけ帰る気満々の服装をしている。
「本日、2度目、の……しょう、とつ……じこ……訴訟……案件……」
「免許返納した方がいいかな、これは」
わざとらしく自分の頭を撫で痛い素振りをしながらも、その実痛くは無い。
和明もそんな彼を見て冗談ひとつ零しながらわざとらしく首を傾げる。
「慰謝料、……駅前の、すいーつ2個、要求、す、る」
なんということだろう。
この少年、慰謝料を請求してきた。これは困ったと言わんばかりの和明の困り顔。
「裁判長、判決お願いします」
和明は隣にいる小鈴に問いかけると、小鈴は考える素振りを見せながら大きく右手を上げ有罪!と返答。
その返答に和明は観念したのか、降参と言いたげに両手を上げた。そして和明が歩き出すとその両脇を小鈴とシロが並び、歩き出して行った。
旧東京、東京。
かつてここは日本の大都市である東京という名があった。
しかし20年前、2020年に行われた東京オリンピックにより全てが激変してしまった。
当時の2020年は何十年ぶりかの東京オリンピックということもあり日本は大はしゃぎしていた。自国も他国も、それらを祝福するかのようにあらゆる国境を超えてこの国に人間がその一大イベントに参加。
だが、予想外にもその数は多かった。ただでさえちいさな島国。そんな国に世界各国から一大イベントを見に大量の人間が訪れたらどうなるか。
物事には許容量というものが存在する。
そしてその許容量を超えたときに起こるのは……パンク。
あまりにも多くの人々が日本を訪れたことで、警察や様々な機関が麻痺。
おまけにそれだけではない。その混乱に乗じて起きたのは、日本を拠点にしようとするマフィアやギャング。数々の麻薬組織がこの日本へと極秘に入国をしていた。
オリンピックの影で、規制の目が緩くなったことで裏社会の人間がこの国に入り、麻薬を横行させた。
しかし同時に問題もまた起こる。
次に起きた問題は……縄張り争い。古くから日本を拠点としていた組織と、この機に乗じた新組織、更には警察機関などと三つ巴の問題となりそれが原因でかつてはオリンピックの最中にも関わらず東京のど真ん中で麻薬戦争紛いなことが起きたことすらある。
日本が変わったのは……それからだった。
マフィア、警察、ヤクザ、ギャング。様々な組織の闘争。一般市民を巻き込み増える犯罪。それにより東京は壊滅状態になった。
それを建て直したのは、御三家と呼ばれる日本社会の富豪、財閥、そして重鎮たち。
彼らは手を組み、崩壊した首都東京を立て直した。かつての失敗を繰り返さぬようにと、各々の大企業が手を取り生まれ変わったのが最近の大きな歴史である。
「和明ー! はやくはやくっ!」
東京センター街。ここはこの中央区の中でももっとも賑わう場所。交通量も多く、人の数も尋常ではない。かつての渋谷のスクランブル交差点など決して目では無い。
この時間帯ならば定時上がりの社員や学校終わりの学生たちで大半が賑わう。
そこら辺にはクレープ屋や、ファミレス、コーヒーショップなども多く平日週末問わずの賑わいを見せる。
そんな数多くの店が並ぶ場所で、小鈴とシロは駅近くのスイーツハウス・ヘンゼルとグレーテルと書かれた店の前へと止まり和明を急かした。
現在、季節柄の春限定スイーツが販売されている。
一流三ツ星パティシエ監修の特別スイーツの数々が期間限定で並んでいる。店の前の看板には「本日限定スイーツ、ベリータルト・春の彩。 数量残りわずか」そう書かれた看板を目にした3人の足は素早く店の中へと向かっていた。
入店し着席。店員に声をかけその数量限定の商品を注文をするとその到着を待った。
待つ間、彼らは今日の学校の出来事を話したり次の抜き打ちテストの情報を密かに提供し合ったりと学生らしい雰囲気に包まれていた。
やがて運ばれてきた極上のスイーツ。期間限定である点と、有名パティシエの作品である点、値段は勿論張るがそれに相応しい見た目とその味に3人は舌鼓をうった。
そんな彼らの楽しげな雰囲気に、その日の店の厨房では喜びが溢れていたと言う。
「ご馳走様でした」
3人は行儀よくそう呟き、会計を終えてお店を出る際にも同じように従業員に向けて口にした。
そんな礼儀正しい3人のことは、従業員やシェフたちの記憶にも深く刻まれたに違いない。
「和明は今日はバイト?」
小鈴はコンビニで買ったフルーツアイスを食べながら真ん中を歩く和明に尋ねた。
「今日は確か……火曜日だから、ないよ。 その代わり帰ったら課題やらなきゃ……そろそろやらないと理名に呼び出しされちゃうしさ」
サボり魔、という訳では無いが宿題忘れの多い和明。そろそろ理名からのペナルティが来てもおかしくは無い。そんな危機感を持っていると、車道側を歩くシロがなんの課題か尋ねる。
それは和明のとてつもなく苦手な数学である。
「すう、がく……なら、おしえ、れる。 ……おしえ、よう……か?」
「ほんと? 助かるよ、じゃあ良かったら今日……」
その時だった、シロの学生鞄に入っていた携帯が鳴る。取り出し、ちょっと待って、とシロが立ち止まるとそれに合わせて2人も立ち止まった。
しばらくするとメールの中身を確認し終えたシロがため息を漏らして呆れた顔をしている。
「ごめ、ん……とうさ、んが帰ってきて、欲しい……って」
何かあったのだろうかと心配になった和明は小さく頷いた。
「ん、わかった。 大丈夫だよ、早く帰ってあげて」
和明も心配そうな顔をしながら、勉強はまた今度教えて、と微笑んで言葉を返す。その言葉にシロは一言、ありがとうというと、足早にその場からかけていった。
そんな彼の姿が見えなくなるまで見送りながら、取り残された和明と小鈴。
「今日はもう解散、かな」
「そうネ、ケーキありがと和明!」
「どういたしまして。 寝てた俺の護衛料だと思って」
「にひ! それならまたいくらでも!」
いぇいっ。2人で仲良くハイタッチをしては、駅まで向かう。
小鈴はここから三駅ほど先にある中華街に住んでいる。知り合いの薬剤師、ホン、という漢方薬の専門家のいえで世話になりながら、日々を中華街のバイトで暮らしてるという。
中華街の看板娘、小鈴。中華街で彼女を知らぬものは居ないほどの有名人で、彼女が来てからというもの中華街は繁盛しているらしい。
なにより、出前の速度。彼女は片手で出前を担ぎ、片手で自転車を高速運転する。その速度たるや競輪選手も真っ青である。
やがて2人は駅にたどり着くと、改札を定期をかざして通っていく彼女を見おくり手を振りながら和明はその場を後に、帰宅路へとつく。
彼女を見送る途中、駅構内を走り人の上を楽々と飛び越える姿はさながら障害物競走。
そんなヤンチャな小鈴の姿を見た気がしたが……見なかったことに。
一方の和明はというと……今夜の晩御飯は何にするべきか悩みながら自宅へと向かっていた。
東京、郊外。
かつては大抗争の場のひとつともなった、元京浜工業地帯。おびただしい程の破壊の後が残されたこの場所は、今や廃棄され立ち入るものたちはほとんど居ない。
ここの管理者の目を盗み侵入する廃品回収業者か、残骸を漁り売る不法移民、通称スクラッパーと呼ばれるもの達のみ。
そして、その廃棄された工業地帯を有効利用する者たちもいる。
彼らの名は、ワイルドハント。この場所を拠点とし、日本社会……否、裏社会において汚れ仕事を請け負う傭兵集団。
依頼内容を選びはすれどその仕事は多岐にわたり、暗殺、護衛、運び屋と様々。
そんな彼らの拠点は……地上では無い。あくまでも、この地上の工業地帯はカモフラージュでしかない。
地下およそ100メートルに位置する、ワイルドハント地下アジト。
午後19時30分。
八凪優香は家の使用人が運転してきた車からおりると、崩れたいくつもの瓦礫の中を歩いていく。
周囲に人の影や反応がないことを左手首の小型デバイスで確認しながら、とある工場跡地へと到着する。
ここはかつて半導体などを製造していた工場。その工場の本来ならば上に上がるはずの古ぼけたエレベーター……その横。
壁にある溝を軽くなぞり、そこから謎の端末が出現する。
手形の表示されたその端末に手を翳し、左眼をかざす。
『生体データ、認証。 おかえりなさい、Flower』
端末音声とともに壁から突如両開きの扉が出現する。
その自動ドアが開閉され、優香はその中へとはいる。
扉が閉じられると、その場所は……何も無かったかのように消失する。
「エリアIII、ブリーフィングルームへ」
『認証』
音声操作でエレベーターを操作し、エレベーターが動いている間優香は服装を正した。
制服では無い。 普段着る、上品な高等な服でもない。
ストリートカジュアルな格好の優香は、髪型を整え装着していたイヤホンを外した。
そして、エレベーターは目的地へと到着する。
開かれた扉を通ると、目の前には一方通行の人が通るには十分な無骨な灰色の通路。
通路の途中にはいくつか部屋があり、その最奥には両開きのドア。そのドアへと向かって、優香は歩を進めていく。
途中、なにやらいい匂いに鼻腔を擽られながら目的地であるブリーフィングルームへと到着する。手を翳し扉を開くと中には既に先客がいた。
「遅れてごめんなさい、始まってる?」
「いや、まだ。 雅がお茶作ってるってさ」
机に足を乗せ、退屈そうに欠伸をしていた香織が答える。
先程の匂いの原因は彼の作った紅茶の匂いらしい。楽しみと期待に胸を躍らせながら、四角く長い黒テーブルを囲むように配置された椅子のひとつへと、香織と向かい合うように腰かけた。
「遅れたネ! もう始まってる!?」
そう言って慌てて部屋へと駆け込んできた小鈴。額から汗を浮かばせながら、優香と香織を見る。
しかし2人は肩を上下させて、首を振る。
「なーんだ、急いで損した……」
疲れたように荒らげていた息を落ち着かせて、香織の隣に腰かける。
猫宮小鈴。16歳、天真爛漫女子高生。毒物、薬物の天才。
コードネーム・Witch《魔女》。
「そもそも時間指定なんてなかったんだ、急いでも仕方ねぇだろうが」
黒澤香織。17歳、格闘女子高生。圧倒的破壊力、人間戦車。
コードネーム・Striker《破壊者》。
「言ってくれれば車で迎えに行ったのに」
八凪優香。17歳、若き女子高生当主。狂い咲く人形遣い。
コードネーム・flower《華》。
「どうやら、みんな揃ったようですね」
修禅院雅。 16歳、天才料理人男子高生。 ワイルドハントの狂剣及び懐刀。
コードネーム・Assassin《暗殺者》。
雅は全員分のティーカップをトレンチに乗せて、一人一人の目の前に置いていく。その傍にはクッキーが添えてあり、自分の分は優香の隣へ、最後のひとつは……ブリーフィングルームのたった一つの上座へと置いた。
その直後、ブリーフィングルームの扉が再び開閉される。
そこに現れたのは、顔を全て包帯で覆い、片目だけを覗かせた1人の細身の男。
両手には黒手袋を装着し、整えられたスーツの上からコートを羽織り、その右脚は悪いのか杖を付いていた。
「またせた、揃っているな」
革靴の音を鳴らしながら、男は椅子へと歩いていきゆっくりとコートを取ろうとすると雅は彼を支えコートを取り近くのポールハンガーへとかけ、彼をゆっくりと座らせた。
「ありがとう、Assassin」
雅にお礼を告げると、雅は微笑み返してから優香の隣へと移動して腰掛けた。
名を、ハンドラー。 ワイルドハントを束ねる者の一人、年齢、職業不詳。
コードネーム・shepherd《羊飼い》。
メンバーは彼のことをハンドラー・シェパードと呼ぶ。
「始めよう。 まずは、先日の依頼達成ご苦労だった。 お前たちのおかげで依頼人のオーウェン・ローデリッヒは大層満足してた。 Striker、Witch、ターゲットの捕縛御苦労」
シェパードの言葉に香織と小鈴は満足そうに、得意げな顔を浮かべる。
「Assassinは警察の陽動感謝する、Queenにも後日伝えてくれ。 お前たち二人の陽動のおかげでスムーズに仕事が出来た」
「恐縮です、ハンドラー」
小さく頭を下げ、いつもの冷静な顔をしているが付き合いの長い優香は彼がとても喜んでいることをその表情から見て取れた。
「flower、ハードディスク及びデータ回収御苦労。おかげで奴らの逃走先と国外の裏切り者や内通者のデータが手に入ったそうだ。 今回の依頼に関しては報酬は既に受け取り済み、分配はまた後日行う」
目の前に置かれた紅茶を飲みながら、一息をつく。
「マリアンヌ・フレイフスか……いい茶葉だ」
「オペラ・ソリッドです。 昨日お母様が、皆に是非にと……」
「悪くない。 マリアンヌの紅茶は久しく飲んでなかった……」
香りを堪能し、ゆったりとした時間を少しだけすごしながらシェパードはティーカップを置いた。
「さて、今回このメンバーでの会合の理由は次の任務でこのメンバーを主体とした編成で動く可能性があるからだ」
シェパードは手首のデバイスを操作すると、ブリーフィングルーム中央のデスクにホログラムを映し出す。
「横浜港?」
見覚えのあるようなその港。そんな優香の問いかけにシェパードが頷く。
「2日後、横浜港に謎の貿易船が入港する。 本来ならばほとんどの受け入れは名古屋港だが直前で横浜港へと変更された。 情報によるとどうやらその船は……ブツを積んでるらしい」
「……麻薬か」
香織の顔が険しくなる。
「大型のコンテナ船ですね、出航場所は?」
「メキシコだ。 中身は香辛料、スパイス系だと事前に申告されているが、乗組員がクロだ」
画面をスライドし、乗組員名簿を表示させファイルごとに並べていく。
ホログラムに表示された乗組員名簿の各経歴書を優香はスライドしていき一つ一つ眺めていく。
「傭兵、ギャング、傭兵、傭兵、殺人犯、強盗……あら珍しい、元パティシエもいるわ。 後は、タクシードライバーも」
一般職の経歴を持っているが、明らかなマフィアやギャングに名簿登録をされている。
「入港予定日は2日後、荷降ろしは……三日後? 奇妙ネ。 なんですぐに降ろさないヨ」
「わからない。 Assassin、Witch、ふたりで調査にあたれ。Assassinは直近の横浜港の従業員のシフトと、ここ2週間から3週間以内の人員交代を洗いだせ」
「わかりました」
「Witchは中華街で集めれる情報を集めろ、中華街の連中は情報が早い。 海路で不法入国する連中も多いんだ、知ってるやつが必ずいるはず」
「まかせて! そういったことなら、フォン大老がなにか知ってるネ!」
「任せた。 Strikerは今夜から横浜港周辺の監視を頼めるか」
「問題ねぇよ、アタシのジョギングルートをちょいとばかし変える。 横浜にあるマンション借りるぜ」
「わかった、鍵を渡しておこう」
シェパードは懐から鍵束を取り出すと、その中の鍵のひとつを取り出し香織に渡す。
「ちゃんと鍵を使え、開かないからとドアを拳でこじ開けるなよ。 前のように管理会社や大家に金を払いたくない」
「わーってるよ! あんときのことはあやまったろ!」
シェパードの言葉に思わず声を荒らげてバツの悪そうな顔をしながら鍵を奪い取る。
シェパードは鼻で笑うと今度は優香へと視線をやった。
「今回俺は動けん。 部隊指揮はshadowに任せる、臨機応変に対応しろ。 flowerはshadowと共に動け、アイツのバックアップをするんだ」
「わかったわ。 彼女は何処に?」
「今は中央区ブリッジの近くだ、今から行くといい」
「恐らく仕事中かもしれないから……巻き込まれないようにな」
1時間後、中央区ブリッジ付近の埠頭にて。
優香は今回は車での送迎ではなく、お気に入りのバイクでこの場所へとやってきていた。
埠頭付近にて彼女は居るのだと聞いていたが、今のところその姿は無い。
ふと、埠頭の奥の方からなにやら車のライトが見えた。そこだろうかと優香は歩を進めるが……その手前50メートルのところで足を止め、物陰に身を隠した。
優香は裏社会での生活はさほど長くは無い。
母親と裏社会を歩き始めてからまだ3年かそこらである。
しかしそんな彼女にも、状況把握能力はある。
ただ事では無い、と。
なぜなら、そこには麻袋を被せられた人間が3人。両手両足を後ろに縛られ正座させられ、その前では半グレらしき男3人とアタッシュケースをもった恐らくはマフィアらしき男が二人が立っていた。
優香は懐の装備を確認する。
ハンドガン一丁、そしてマガジンが一本。
切り抜けられぬ状況ではない。だが、人質が3人。
それを助けることは果たして可能か頭の中で整理する。
状況は、五分五分。
(相手は5人、人質は三人……大型の武装は確認できない。 けれどそれぞれがハンドガンや小型火器を所持している可能性も無きにしも非ず……どうしようかしら。 応援を呼ぶ? いや、間に合わない。呼ぶ間に人質が拉致、或いは殺される可能性がある)
「分析は、終わったか?」
背後から突如現れる人の気配。咄嗟に武器を抜こうとするが、それは得策ではないと悟った優香は、深呼吸をした。
冷たく、重く、深海のような深さの声と気配。まるで海の底にでも引き込まれたかのような感覚、そしてその気配に優香は額に冷や汗を浮かべながら振り向く。
「普通に、来ることは出来なかったの?」
額に僅かな冷や汗を浮かべながらもいつもの平静な頬笑みを浮かべて、優香は後ろを向いた。
「なァに、お前さんが分析を熱心にしてるもんでな。邪魔をしたら悪いと思ったのさ」
そこに居たのは長身の女性。顔は暗闇でよく見えないものの、全身を黒で覆う格好。暖かい日和だと言うのに漆黒のコートを纏いその両手は暗殺の指紋を残さない為なのか黒手袋を着用していた。
「悪い人……貴女がここに居るのは、もしかして……」
「嗚呼、仕事だ。 エマーリアからの依頼でな。 よし……詳しい話は後だ。 バックアップを頼む」
何かを感じたshadowは、優香にそう告げる。
「あの男二人の目を引け、後ろは俺がやる」
優香の隣にしゃがみこみ、肩に手を置く。
「わかったわ。 人質も任せていいのかしら?」
「問題ない、男二人を無力化してくれりゃいい。頼んだぜ」
優香の肩から手を離し、ほんの少し後ろに下がると……気づけば彼女の存在はその場から露と消えてしまっていた。
そして優香は彼女の相変わらずの神出鬼没さに驚きながら、物陰から姿を現し男たちの元へと近づいた。
「すみませぇん……ごめんなさぁい。 ここ、どこれすかぁ……?」
優香は千鳥足で歩み寄り、ふらふらと車の灯りを頼りにするようにちかづいていく。
「とまれ! だれだてめぇ!」
半グレのリーダーらしき男が、おもむろに拳銃を抜く。
「やめろ。 こんなとこで撃とうとするんじゃねぇ。 これだから最近の若い衆は……」
スーツの男二人は若い男に武器を下げさせ、優香の元へと歩み寄った。
服を着崩した千鳥足の女性、はたから見たら酔っ払いにしか見えない。
「わたしぃ、しんじゅくにぃ、…あう。 いきたいんです、けどぉ……」
わざとらしく男にもたれ掛かり、上目遣いでサングラス越しの顔を見上げる。
「よしよし、大丈夫だ姉ちゃん。 仕事が終わったら送ってやるからとりあえず車ン中で寝てな」
紳士的な対応をとる男だが、その目は明らかに優香の豊満な胸元を見つめその足を見つめ下卑た視線を浮かべていた。本人は悟られてないつもりだろうが、無事に家に送ってくれる保証などないだろう。
「おい、車に乗せてやれ」
「へい」
部下の男は、もう1人の男の手を借りて支えるのを交代しようとしたその時だった。
二人、ここまで近くに来れば優香の射程内だ。
「フッ……」
軽い呼吸と共に、高速のジャブが男二人の顎に炸裂。そして追い打ちをかけるかの如く華麗な胴回し回転蹴りを繰り出し、一瞬にして男二人は気を失ってしまう。
「大地と共におねんねしてなさい、下衆」
冷徹な眼差しを転がる男たちに向けて、その視線は次に半グレ3人を捉えた。
「てっ、てて、てめぇ! 一体……!?……へ?」
しまったはずのハンドガンを再びその3人は優香に向けるが引き金が引けないことに気づく。
セーフティがかかってる訳では無い。彼らもおそらく銃の扱いは知ってる。
だが、引き金が弾けない。
気づくと……男たちの手が、指が切り落とされていた。
ずるりと本体を外れた腕は地面に転がり大量の出血。
「ひ、おれ、おれのうで……ぎゃぁ……」
悲鳴をあげようとしたその矢先だった。
男の体が逆くの字に曲がり……宙に浮く。
暗闇の中目を凝らして優香は確かに確認した。
男の胸から貫通する1本の刃。
痛みのあまり声を出せない半グレのリーダーらしき男。
派手な出血と共に刃は背後から引き抜かれ男の体は地面で膝を着く。
「あ、あ……あ……」
背後からの気配。それを感じ見あげようとした瞬間に、男の喉は思いっきり切り裂かれた。
血飛沫の中、夜目に慣れてきた優香の瞳が、shadowの姿を目視する。
口元を黒いマスクで覆い、その右眼は眼帯。眼帯の下に浮かぶ火傷跡は彼女が通ってきた苦難の道を知らしめるかのよう。
街灯の下に姿を現した女性は、両手に持つ鋭利な……恐らくは特注品であろう漆黒のカランビットナイフを思いっきり払い血を拭う。
そしてそのナイフを背後の腰元のホルスターに納めては拘束されながら恐怖に怯える人質たちに歩み寄った。
「エマーリアんとこの従業員だな?」
彼女の問いかけに人質3人は激しく首を縦に揺らして返答。
確認できたshadowは左耳に装着したイヤホンをタッチし電話をかけた。
「エマーリア、完了だ。 人質の回収を頼む、3人とも無事だ」
相手との会話をしばらく続けながら、ようやく終わったのか電話を切り優香の方へと向く。
「御苦労さん、優香。 アドリブにしては上出来だった。 おかげで楽になったよ」
「いいえ、このくらいいくらでも。 私も、勉強になったわ……アルファルド」
優香は彼女の戦闘を久しぶりに見た。
暗闇の中へと消え、暗闇から出現する。まるで幽霊のように。
ワイルドハント束ねるもう1人の存在。
職業不詳、年齢推定20後半。暗闇を駆ける亡霊。音無き狩人。
名を、アルファルド。
コードネーム・shadow《影》。
「脱力した状態からの踏み込み、見事だった」
気絶したままの生きている男二人をアルファルドは拘束し、遺体たちと共に座らせる。
立ち上がり優香の前に立つと、口元のマスクを下ろした。
顔にもいくつかの浅い傷が散見されるが、何より目立つのはその眼帯の下の火傷跡。その過去の傷を優香は詳しくは知らないが、知っているのは彼女が戦地で生まれ戦地で生きてきた、ということだけ。
「だが、脱力加減が足りねぇな。 今のお前の体なら、もそっと脱力できる」
そんなアドバイスをしながら、男たちの車をなにか無いかと漁り出てきた免許証と身分証明書を回収。
「もう少し努力してみるわ。 次は、いつ稽古を付けてくれるの?」
「必要ない、お前は天才だ。 なんせあの母親の血を引いてるからな。 それに俺は教えるのが苦手なの知ってるだろ。 俺の真似をしろ、技を奪えとは言わん。 経験だよ、何事も。 実戦で試せ、恐らくは次の任務で何か得られるかもな」
そう言いつつやがてやるべきことを終えたのか、アルファルドは170はゆうに超える身長から見下ろしながら、優香の元に歩み寄りその肩をぽんぽんと叩いた。
通り過ぎるように歩いていく彼女の後を追って隣を歩く。
「次の任務は、聞いてるの?」
「嗚呼、シェパードの野郎から詳細は聞いてる。 とりあえずは情報収集だ」
しばらく歩き、隠していたバイクへとアルファルドは跨る。近くに停めていた優香も自分のバイクへと跨るとヘルメットを被り共にエンジンをかけた。
『今回その謎のコンテナ船のことを調べるために、エマーリアたちから手を借りたんだがその前に仕事を手伝ってくれと言われてな』
ヘルメットに内蔵されたインカムから無線通信で会話を行いながら2人は併走して、元京葉工業地帯……現在では不法移民や海外勢力のたまり場とも言われる荒廃地区と呼ばれる場所へとふたりで向かっていた。
アルファルドの話によると、メキシコ関係の船ならばメキシコ人に聞けば間違いはないと踏んだ彼女はこの荒廃地区を拠点とするメキシコ武器カルテル「サモエド」の幹部の1人、エマーリアに接触した。
しかし、街にエマーリアの許しなく武器を売買しようとする素人がいるとの事でそいつらを捕まえて欲しいとの事だった。
「あの人質だった3人は?」
『不幸にも、武器の荷運び中に襲われ拉致された奴らさ。 間抜けなこった』
鼻で笑いながら共に街中を走り、中央区を抜け出すと少し速度を上げて高速に乗りやがて2人は目的地である荒廃地区へとその足を踏み入れた。
「前回の依頼の時はありがとう。 私の失態を拭わせてしまったわね」
「気にするな、残党処理は得意分野だ。 ぐっすり寝てる時にシェパードの野郎に叩き起されたのは腹が立ったがな」
かつて栄えていた歌舞伎を思わせるかのような繁華街。ネオンが光り輝き、露出の多い服を来た娼婦、ブランド品で固めた服装の若者、揃いのカラーの服を纏うギャング、そして……明らかな裏社会の人間であることを思わせるかのような風貌のものたち。
この街は、荒廃地区。
東京大抗争終結後、元は大抗争の避難民や同時に多発した海外の内戦や戦争から逃げてきた海外の難民を保護するキャンプに変えていた。しかしそれから数年、政府の遅い対応に耐えきれなかったものたちは自分たちでこの街を作り始めた。
ギャング、弱小マフィア、そして不法移民など様々なものたちが入り乱れ、スラムのような荒廃した街が完成した。違法薬物や、違法武器、売春、果てには一時期は人身売買などが横行。
普通の人間は決して立ち入らない。
それがこの荒廃地区の成り立ちである。
数年後、この街に目をつけた海外の大きなマフィアや、カルテルたちが一時期はこの街で陣取りゲームを始めたことがあったがそれが今では東西南北に別れて様々な国のマフィアが支配している。
「さて、と。 ここだ」
「ここは?」
「最近、エマーリアがBARを開いた。 仕事終わりの1杯がてら、依頼の報酬の受け取りさ」
アルファルドはそう言うと、BAR・アフタープライドの店前に立つ彼女よりも少し背の高い黒人の屈強な男に視線をやる。
「景気はどうだい、グリッド」
「姐さん、ようこそ。 ボチボチってとこです、開業1週間にしては悪くないかと」
「姐さんはよせよ。 エマは?」
「ボスは2階です。 気をつけて下さい、コロンビア人のペダスが来てる」
耳打ちをするようにグリッドはアルファルドに囁いた。
「ペダス・メリフィスか、なんだってこんな所に?」
「この店は元々、コロンビア人に借金してた親父が持ってた店でしてね」
なるほど、と。話の大筋は読めた。
つまりは、ここの親父の土地は俺の土地、アガりの何割かを寄越せって話だろう。
「コロンビア人も焼きが回ったな、金に困ってるわけでもないだろうに……あんがとよ、グリッド」
言いながらアルファルドは彼の胸ポケットにチップを差し込み、優香と共に店の中へと入る。
アメリカンな雰囲気のその酒場はとても広く、中では様々な人種が入り乱れ酒を楽しんでいた。
机の数も多く、カウンターも多い。
かたやポーカー、かたや飲み比べと80年代の西部劇にでも出てきそうな雰囲気。店内の片隅にはダーツが2台、そしてその隣にジュークボックスがあり、ポップジャズが流れている。
「よう、アル! 仕事終わりかい?」
「そんなとこだ、ジェイク。 なにか依頼でも?」
「なんもねぇよ、ウチの組織も平和なもんだ。 また仕事があったら頼むよ、9割引でな!」
「一昨日来やがれ、お前たちになら特別サービスで10割増にしてやるよ」
通りすがりに見知った顔と挨拶を交わし、冗談を投げ合いながらその男のテーブルのショットグラスを取り飲み干して優香と共に通り過ぎていく。
カウンターまで行くと、これまた見知った顔なのかすぐ隣の腰掛けている男と拳をぶつけ合い無言の挨拶。
バーカウンターのマスターらしき老齢の男はアルファルドと目が合うと、2階に続く階段にたつ黒服の男に目をやる。
「かまわねぇさ、元より用事は俺が先だしな」
アルファルドがそう告げると、やれやれとマスターは肩を上下させる。
そしてアルファルドもまた優香に目配せをしてその階段へと向かった。
直後、立ちはだかる巨漢の男2人。
コロンビアカルテル・ボエサミリアファミリーの構成員。通ろうとするアルファルドと優香を止めるが、アルファルドの顔を見て思わず2人は下がっていく。
「お利口さん」
通り過ぎざまにそう告げ階段を上がる。
「相変わらずね、貴女」
「義理と面子で成り立つのさ、傭兵や裏社会ってのは。 お前さんも顔や名がが知れ渡れば少しは分かるようになる。 ……嫌でもな」
階段を上がりながらそんな会話をしつつ廊下に差しかかる。いくつものドアがあり、その向こうからはベッドの軋む音や男女の声、挙句には叩くような音、そして快楽に沈む声が響いてくる。
呆れた顔のアルファルドを見ながら、思わず優香はくすくすと笑った。
こういう雰囲気の場所は、嫌いではない。学園に通うよりも実に楽しく有意義。
そんな彼女の心の内を知ってか知らずかアルファルドは、こんな大人にはなんなよと釘を刺すように笑いながら呟いた。
しばらく歩いてたどり着いた突き当たりのドア。そのドアの前にたつ男は、アルファルドの顔を見ると頭を下げ挨拶を交わす。それにアルファルドは手を挙げ返事をしながら、男は扉を開いた。
「ふざけんじゃねぇ!」
入ってきてまっさきに聞こえてきたのは怒号だった。
ブラウンのブランドスーツを着たサングラスの褐色の男、その男は部屋の奥でデスクに腰掛ける褐色の赤毛の女性に怒鳴りつけていた。
男の名は、ペダス・メイグリッド。コロンビアカルテルの幹部にして、この荒廃地区にアジトを持つマフィアの1人。
「ふざけてんのはお前さんだろうが」
真っ向に男と言い合いをしているこの気の強い女、優香もよく知る人物。
エマーリア・ブロブナンス。この荒廃地区を拠点としている武器の密売を専門とするメキシコカルテル・エル・プレナスのナンバー2の地位を持つ幹部。
この街全ての武器の販売ルートを牛耳っており彼女の許可なくこの街での武器密売は許されていない。
「あのおやっさんの借金はあたいらが返し、あんたとの契約は白紙になった。 そしてあたいらはそれを助ける見返りとしてこの店を貰ったんだ、あんたのモノはひとつも無い」
言い合いをしている2人を横目に、優香と互いに目を見合せながら。たまたま近くにあったファストフードドリンクの飲みかけを手に取るとそれをアルファルドは飲み始める。
まさかこの喧騒が終わるまで待つつもりだろうか。
「いいか、元々ここのじじいは……ってうるせぇな誰だ人が大事な話してる時に!!」
怒号の矛先が、音を立ててドリンクを啜るアルファルドへと向けられる。
「なっ……シャドウ……」
「おや、アルファルド、来てたのかい?」
どうやら喧騒ばかりで彼女たちに気づいていなかったようだ。ドリンクを飲みきったアルファルドは満足気に息を、はふ、と漏らす。
「ゆっくりでいいぞ、のんびり待っててやる。 バーガーの出前でも頼みながらな。 どうぞごゆっくり、夜中まででも朝まででも喧嘩すりゃあいい、なんなら新年明けるまでまっててもいいぞ」
そんなことを言いながらドリンクを隅に置き、そんな彼女をみた2人は静かになる。
「くそっ……また来るからな!」
ペダスは不満げにアルファルドとエマーリアを交互に睨みながらその場を後に部屋を去っていく。その背中をエマーリアは中指を立てて、二度と来るなと吐き捨てた。
「すまない、待たせたね」
「いいや、気にしちゃいない」
デスクから腰を下ろしてアルファルドとエマーリアが向かい合う。
「依頼の方は完遂したと10分ほど前に確認した、ありがとさん。 こっちが報酬の金と、メキシコ本国からのここ1ヶ月の出港リストだ」
テーブルにあったアタッシュケースをアルファルドに渡し、書類の入ったホルダーを渡されるが、アルファルドにアイコンタクトをされ優香が受け取る。
アルファルドはアタッシュケースを開けると中の金額を確認し、問題ないと分かるとそのアタッシュケースを閉じた。
「他に必要な情報はあるかい?」
エマーリアはテーブルにあった葉巻をアルファルドに渡すが、アルファルドは首を左右に振った。
やがてアルファルドの視線が尋ねるように優香にむけられるよ、優香は首を左右に振り、これ以上の情報は必要ないとアルファルドは答える。しかしなにか思い出したように口を開いた。
「武器を買いたいんだが、ここでも買えるか?」
「お、さっそくお買い物かい? いいねぇ、金は手に入れたらすぐ使うに限る。 もちろん、あるとも。 とはいえ、倉庫ほどの数はないんだけどね」
アルファルドの言葉にエマーリアは嬉しそうに目を開かせると、テーブルにあるスイッチを押した。
すると、モダンな作りの部屋の壁全てが動き出し、くるりと反転する。
そこから出てきたのは、大量の銃火器。
それぞれがジャンル分けをされ、分かりやすいようになっている。そしてエマーリアのデスクの後ろには弾薬や爆薬など様々なものが姿を現す。
「これのどこが数はない、だ」
この数全ての武器を使えば、組織間の抗争など何回でもできる。それほどの量の武器にアルファルドは呆れつつ、優香はなんと目を輝かせていた。
壁に並べられる武器の数々。ハンドガン、サブマシンガン、アサルトライフルにスナイパーライフル。そんな様々な武器を散歩でもするように眺めながら、ふと優香の脚はショットガンの並べられる棚の前で止まり、眺めていた。
その様子を見ていたアルファルドはエマーリアに視線をやる。
「イチオシは?」
「もっちろん。 お嬢ちゃんの気に入りそうなのがあるよ。 今朝入りたてホヤホヤの新品さ」
エマーリアは彼女の問いかけに上機嫌に答えると、テーブルの下から長方形のアタッシュケースを取りだしてテーブルへと置いた。
優香はそれを見ると再びアルファルドの隣へと戻り、その瞬間にエマーリアはアタッシュケースを2人に向けて開いた。
その中に収められていたのはショットガン。しかしほかのショットガンとどう違うのかは優香には分からない。その隣でアルファルドが、ほう、などと驚いた顔をしている。
「持ってご覧」
エマーリアはそう言うと、優香はそのショットガンを手にし違和感に気づく。
重厚感のあるそのショットガンだが、触れてみて気づく軽さ。そして触り心地、グリップを握った際の感覚とコッキングした際の音の違和感。
「軽いわ……」
「ご名答。 ベネリM6、見た目は重いがパーツを厳選し軽量化を施してある。 2020年前期のモデルと比べて格段に軽くなってる。 そして、そこだけじゃあない。 近代化改修キットをあたいの依頼を元に最高峰のガンスミスが特注で組み込んだ。 室内戦、室外戦、そのいずれでも最大火力を発揮する。 フォアエンド、そしてグリップは特殊素材を使って滑り止めになっていて水に濡れてようが泥にまみれてようが滑ることは無い。 他にも、トリガー、フロントバレル、トリガーガード、ボルトキャリアやチャージングハンドルも素材を厳選しカスタマイズしたんだ。 イタリア製の最高傑作を、このあたいがカスタマイズし仕上げた……あたいイチオシの一級品さね。 お望みなら、マーケットに出てるカスタマイズパーツも欲しいのがあれば揃えるよ」
エマーリアが自慢げに語りながら、優香はショットガンを扱う一連の動作を行う。
その顔には満ち足りたようなものが浮かび上がっていた。
「そいつを頼む、エマーリア。 弾薬は12ゲージを5箱、12ゲージ炸裂弾を3箱くれ」
「はいよ」
「えっ?」
優香の顔が驚きをうかべる。
そんな驚く彼女をよそに、アルファルドは先程受け取った金のいくらかを彼女の前に積みエマーリアはそれを受け取り満足気に頷いた。
差し出された弾薬をショットガンのアタッシュケースに詰め込み、ショットガン本体も詰め込んだ。
「よかったねぇ、お嬢ちゃん。 ママが誕生日プレゼントだってさ」
「そンなもんじゃねぇよ。 弟子が仕事を頑張ったんだ、これくらいの褒美は必要だろ、お前さんの仕事が成功したおかげでボーナスもゲットできた。 オマケにお前さんがいたから、さっきのエマの依頼も簡単に終わったんだ」
アルファルドの言葉に未だ驚きの顔を隠せない優香ではあるが、彼女の言葉にいつもの平静な微笑みを向けると頭を下げ、ありがとうと呟いた。
その後、酒を交わしながらアルファルドとエマーリアが近況報告や世間話をしているとしばらくして時間を見たアルファルドは優香と共に荷物をもってその場を後にした。エマーリアと別れる際に、優香に優しく笑みを浮かべ手を振り、優香は軽く会釈にてその場は解散となった。
店を出て、優香は本当に良かったのだろうかとアルファルドのことを見上げながら尋ね返した。
正直、優香は自分の働きを十分すぎるものだったとは考えていない。やりようによってはもう少し上手く出来た筈だと。
「そりゃまぁ、お前さんお察しの通りさね。 息の根を完璧に止めきれず、相手の通信手段を先に潰さなかったおかげで増援も来た。 ハードディスクやデータの回収はよくやってはいたが……少し遅すぎる。 死体を確認したが、内部にいたのは5人、廊下に3人。 廊下の制圧は早かったが、中に入ってからが遅すぎだ」
アルファルドの指摘は間違っていない。
優香の実力はワイルドハントの中でも精鋭の部類ではあるが、長く傭兵をやっているアルファルドから見ればその実力はまだ小鹿に等しい。
歩きながら、出店のホットドッグを購入し食べつつアルファルドは優香に突入から制圧までの見直しをしていた。
数々の指摘に対して優香はぐうの音も出ない。
「射撃の腕もまだ甘い、確実に相手を殺る方法……覚えているか?」
「……確実に死んだと確信がない場合は頭に2発目を撃ち込む」
「exactly.」
あっという間にホットドッグを平らげたアルファルドが優香の答えに頷く。
「では、2発目を叩き込む基準は?」
「被弾箇所が、首から下だった場合」
「人質及び爆弾のスイッチなどその他外的要因がなく、相手が無防備状態の場合の突入時の無力化優先度は?」
「手前から、或いは武器の近いものから」
「Exerrent.」
「突入する前に……内部をしっかり確認すべきだったわ。 或いは通信手段の切断を怠らなければ……」
「それが分かってるなら、問題は無い。 次の任務では成功するさ」
薄く笑みを浮かべてそう呟き、優香はますますなぜ武器を購入してくれたのか分からない。
「学びを得た、だろう?」
確かにアルファルドに指摘され、気づいたことも多々ある。アルファルドはこれ以上の指摘はしないつもりらしく、そこから先何か言うこともなかった。
「この武器はお前の成長へのご褒美と、さっきの仕事の手伝いへの報酬さ。 若き当主殿は、金は腐るほどあるだろうしな」
彼女の言葉に優香は目を見開きながら、やんわりと微笑み返した。
ありがとう、小さく呟いてはその言葉にアルファルドはなんてことはねぇさと答えて今日の所は帰路に着こうとお互いの愛車を停めた駐車場へと向かう。
「それに、だ」
アルファルドが歩きながら小さく、閉じかけていたその口を開く。
「弟子には、特注品を持たせるのがしきたりでね。 一人前になる前の日に、新たな相棒を与え、その相棒と共に戦場を踏ませる」
「しきたり……?」
「生き残ってみろ、そいつと一緒に。 そうすりゃお前さんも晴れて一人前さ」
生き残れなきゃ死ぬだけさと付け足して薄く笑う。
彼女の言葉に優香は沈黙してしまう。
本当にしきたりなのだろうか。そう言ってるだけで、実際は何かほかの真意があるのではないかと優香は疑ってしまう。
その時だった、優香がなにか少し遠くの背後から違和感を感じ足を止めようとした瞬間である。
「とまるな、歩き続けろ」
アルファルドの緊迫した声が小さく囁かれる。その言葉に慌てて優香は止めようとした足を無理やり進め彼女の隣を歩いた。
間違いない、尾行されている。それにはアルファルドも気づいていた。しかし彼女は何かをするでもなく、ただただに歩き……駐車場に向かっていた足も進路を変えていた。
「素人だな、殺気を撒き散らしすぎだ」
呆れたように漏らしながらアルファルドはポケットに手を入れる。中から取り出したのは葉巻、それを口に咥えるも火は付けず、すれ違った店のガラスで反射した背後を確認する。
2人を取り囲むようにパーカーで顔を隠した明らかな不自然な集団。彼らは後ろから確実に彼女たち2人に着いてきていた。
「尾行される際の注意点は、相手に気付かせないことだ。 そうすれば奴らはターゲットを殺れる確信を持ち、傲慢になり、確実にしくじる」
彼女の言葉に優香も納得。自らも背後と人数を確認しながら、ちらりと少し先の路地裏に目をやる。それに気づいたアルファルドも良さげな場所を見つけたのか、足取りを崩すことはなく共にその路地裏へと入っていく。
人混みを離れ、路地裏に入っていく2人を男たちは慌てて走って追いかける。だが、いない。しかしこの先に抜けられる道は無い筈だと6人の男は持っていた金属バットや鉄パイプを手に、逃がすまいと走る。
しばらく進み完全に人のいない路地裏。そしてその先には何も無く、フェンスで区切られた行き止まりしか無かった。
「くそ!」
逃がしたと男たちは怒りの声を上げながら、振り返り帰ろうとした時だった。
そこに立っていた、一人の女性。街灯はなく、月明かりに照らされた路地裏で桃色の髪の育ちの良さげな女は小さく微笑んだ。
「こんばんは、いい夜ね」
「な、いつの間に……!」
「もう1人はどこ行きやがった!」
「構わねぇ、女ひとりだ、やっちまえ!」
哀れなものだ。
眼下でのやり取りを、アルファルドは上で眺めていた。
自分たちがわざと狩場に誘導されたことも気づかず、あまつさえ相手が独りだとタカをくくって武器を手に無警戒に突っ込んでくる男たち。
恐らくは、波止場で始末した半グレ組織の仲間だろう。大方敵討ちと言ったところで間違いは無さそうだ。
金属バットや鉄パイプを構え、優香の元へと駆ける半グレたち。
なぜ相手が銃を持っているとは思わないのか。なぜ自分たちがこの状況でも有利だと思えるのか。アルファルドにとって不思議でしかない。
一方の優香と言えば、ただただ立っているだけ。駆ける必要も、歩く必要も無い。
一輪の花は、ただただ待つだけでいい。
半グレたちが同時に鈍器を振りかぶり、優香に振り下ろすその瞬間だった。彼らの体はまるで見えない何かに押さえつけられたかのように動かない。
……否、動けない。
少し動かせば確実に触れれる。そんな距離だと言うのに誰一人として優香には触れることが出来なかった。
「甘い蜜には御用心、ってな」
優香の指が、舞うかのように優しく揺れる。
骨の折れる音が路地裏に響いた。
向かって正面の男の首が、へし折れる。
左右の男は、首を締め付けられ窒息。
そしてその後ろのふたりは、気づけばその両脚を何かによって拘束され倒れ顔から地面へと思いっきり叩きつけられる。倒れ込んだふたりはそのまま意識を失い気絶した。
「変わり者の硝子瓶」
再び指を舞わせると首の折れた男と窒息死した2人はそのまま音を立て地面に転がる。
僅かに月明かりに照らされた彼女の指先から舞うキメ細やかな……蜘蛛の糸のようなもの。
彼女の名は、人形遣い(マタードール)"flower"。
その美貌は見るものを甘く惹き付け、堕落させ、暗闇へと誘い込む。
彼女の武器は、ワイヤー。目に見えぬ極細の糸こそが、彼女の最大の武器である。
常人の視界ではおよそ視認することは不可能なほどの極細の糸は予め配置しておくことで何も知らぬ油断した相手を意識外から拘束し、暗殺する。
彼女のワイヤーは切断するほどの性能は無いが相手を殺すに足る強度と、彼女の腕前も合わさり現状彼女にとって最も扱い慣れた武器である。
闇に踊る一輪の花……獲物を誘い、その命を奪う、故にこそflower《華》。
弱点としては、予め設置することが前提となり、突入や特定の集団戦には向かないということである。
(改良が必要そうだな)
そんなことを思いながら、アルファルドは葉巻の煙を浮かべて彼女のすぐ隣へと着地する。
「久しぶりに見たが、相変わらずいい腕をしてる。 さすが、紅蜘蛛の娘だ」
「ありがとう、アルファルド。 ……まだ、お母様には遠く及ばないわ」
褒められたことに素直に喜びながらも、謙遜するということを忘れず。彼女のその謙虚さこそが強さの一つでもある。
「さて、こいつらはどうしたもんかね」
転がる死体と気絶した体、この路地裏に捨ておいてもいいがまた報復に来るのも面倒だ。
「ま、いいか」
アルファルドは考えるのをやめて、踵を返して歩き出した。
「いいの? 報復が、また来るかもしれないわよ?」
「そんときゃ殺すさ。 その2人が朝まで生きてんなら、その死体共をみていい見せしめと警告になる。 俺らを敵に回したらどうなるか、そいつらにふれまわってもらおうかね」
優香から少し離れた所で葉巻を深く吸い込んでから吐き出し、紫煙をくゆらせる。
「優香、先に帰れ。 俺はちょいとばかし他に用事が出来た」
「わかったわ。 任務に関しては?」
「明日また連絡する。 情報を帰って俺も精査しなくちゃならないからな。 他の奴らにもなにか有益な情報を手に入れたら随時報告するように言っといてくれ」
「了解、じゃあ今夜はこれで。 ……ありがとう、アルファルド」
「ん、気をつけて帰んな」
その言葉を最後に優香は近くに隠していたショットガンのアタッシュケースを拾い上げるとその場を後に去っていく。
「ふぅ……やっぱり、詰めが甘いなアイツも」
背後から、男のひとりが呻く声が聞こえる。
意識を戻しかけの男を、視界の端に捉えながらゆっくりとブーツを鳴らして歩いていく。
「ったく、大人しく寝てりゃ良かったものを。 ……ま、弟子のしりを拭うのも、師の務めってな」
葉巻の火を消し懐にしまう。
「虎太郎、いるか」
瞬間、彼女の背後にアルファルドよりも遥かに大柄な女が現れる。黒ずくめの服装に口元をマスクで隠しその髪すら正体を悟られぬように布で包まれ隠されていた。
「はっ、ここに」
「情報を吐かせろ、人員、活動内容、アジト全て」
「御意」
女は懐から小包をひとつ取りだし、意識を戻しかけの男に近づいていった。
次の日、荒廃地区で逆さ吊りの死体3つと激しい拷問の後と思われる原型を留めないズタボロの死体、そしてたった1人の生存者が野ざらしにされていた事が大体的に話題となったが、僅か一日で忘れ去られた。
これがこの荒廃地区の日常。名も無き死人のことなど、半日で忘れ去られる。弱肉強食の世界。
そして、そんな彼らの日常であるハズの世界が少しずつ……少しずつ、なにかが歪み始めていた