蝉しぐれ
「正市、あなたに聴きたいことがあるって、警察が来ているわよ!」
平日の朝。自室に飛び込んで来た両親に叩き起こされる。警察? 朝っぱらから、いったい何事だ?
「おい、正市! お前、何をしたんじゃ! まさか逮捕されるのではなかろうな!」
「父さん、母さん、心配しないで。僕は、警察にお世話になるようなことは何もしていないよ」
そう言って、慌てる両親を落ち着かせ、ベッドから上半身を起こす。ここは、地方の観光地。僕は、両親と共に実家の民芸品店で働く、アラサー独身男。
窓の外では、蝉たちが、ゲリラ豪雨のようにうるさい。長い梅雨がやっと明けたと思ったら、今度は蝉しぐれ。朝っぱらから観光地街のいたるところで、ニイニイ、ミーミー、ジージーと、叩きつけるように降っている。
パジャマのまま二階の住居から階段を降りて、一階の店舗スペースへ行くと、開店前の店舗の裏口で、二人の警官が僕を待っていた。
「おはようございます。朝早くにすみません。関戸正市さんですね」
「はい。……あの~、今日は、どういったご用件で?」
「関戸さん、あなた、村井克樹さんという方をご存知ですね」
「村井克樹……え、誰それ? 誰だっけ? 突然聴かれても、パッと思い出せない。村井克樹……う~ん、知っているような、知らないような……、あ、思い出した! 高校までこの町に住んでいた僕の同級生。ニックネームは、かっちゃん!」
「昨晩、東京の自宅マンションで、死体で発見されました。我々が発見をした時は、かなりの腐敗が進んでおり、発見推定ですが、死後一か月ほど経過していると思われます。詳しい死因は、まだ分かっていません」
「……驚いたな。でも、その事件と僕に、何か関係が?」
「村井さんの自宅の固定電話の最後の発信履歴が、こちらの電話番号だったのです。ひと月ほど前、村井さんから連絡がありませんでしたか?」
「思い当たることが無きにしも非ず。以前、深夜に長い着信がありました。固定電話のデジタル表示に見慣れない電話番号が出ていましたので、迷惑電話と判断をして出なかったのです。そうか、あれは、かっちゃんからの電話だったのですね」
警察はしばらく僕に事情聴取をした後、パトカーに乗って帰って行った。自室に戻り、もう一度ベッドにごろりと寝転がる。窓の外では、相変わらず、蝉たちがゲリラ豪雨のように鳴いている。
激しい蝉しぐれの中で、僕は、昔を振り返っていた。だんだん、徐々に、少しずつ、記憶が蘇って来る。村井克樹、かっちゃん。今も昔も歴然と交友関係の薄い僕にとって、彼だけは、恥ずかしげもなく「親友」と呼べる唯一の人物だった……
かっちゃんは、この町の観光地街にある朽ち果てる寸前のボロアパートに住む僕の同級生だった。彼は、とてもいいヤツだった。いつも僕のことを第一に考えてくれる、すごく優しい、少し変わったヤツだった。
小中学生時代の、僕のセピア色をした記憶のフイルムには、常にかっちゃんが躍動をしている。一本の髪の毛がウネウネと蠢く古ぼけた八ミリビデオの映像の中で、僕と彼は、いつだって満面の笑みを浮かべている。
夏休みになると、毎朝かっちゃんが――
「しょ~ちゃ~ん」
――と独特の節回しで、玄関の前で僕の名を叫ぶ。
僕は、うるさく鳴り響く蝉しぐれの中からかっちゃんの声を聴き――
「は~あ~い~」
――とこれまた独特の節回しで返事をする。
それから、捕虫網を持って近くの神社に駆けて行き、二人で大量の油蝉を一心不乱に捕獲して遊んだ。
12変速式自転車に跨った六年生たちが、同じく捕虫網を持って神社に現れ、小学生のくせに煙草をプカプカしながら、僕とかっちゃんの蝉取りエリアを強引に占領してしまった時は、僕たちは、そこから少し離れた用水路に移動して、水路に投げ捨てられたコーラやスプライトの瓶を拾って、駄菓子屋に持って行く。
当時は、飲んだ瓶や拾った瓶を酒屋や駄菓子屋に持って行くと、10円で買い取ってもらえたのだ。でも、ヘドロまみれになった瓶や、バキバキに割れた小さな瓶の破片などを見境なく持って行くと、普段は温厚な駄菓子屋のお婆さんに「ゴミばかり持ってくるな!」と叱られ、夕暮れ時に拾った瓶を再度水路に捨てに行くこともあった。
「しょ~ちゃ~ん」
夏休みが終わっても、かっちゃんは毎朝登校する前に僕の家に寄って僕を呼んだ。いつも同じ時間に呼びに来るかっちゃんに迷惑をかけられないので、僕は、毎朝遅れないように身支度をした。
僕たちは小学校、中学校と、いつも一緒に登下校をした。中学生になった時、僕が気まぐれに水泳部に入ると言ったら、かっちゃんも一緒に水泳部に入部した。僕が大した理由もなく地元の二流の県立高校に進路を定めたら、僕よりずっと頭のいいはずのかっちゃんは「しょうちゃんが行くなら」と言って、なんと僕と同じ高校を受験した。
かっちゃんは僕の親友だ。直接相手に伝えこそしなかったが、僕は、心からそう思っていた。
しかし、高校生になって、僕の中の何かが変わった。
僕は、かっちゃんより、同学年の女の子に夢中になり、かっちゃんより、もっと刺激的な男友達に惹かれるようになった。
「しょ~ちゃ~ん」
ところが、高校生になってもかっちゃんは相変わらず毎朝僕を呼びに来るのだ。近所中に響き渡るその声を、僕は恥ずかしく思うようになり、うざったく感じるようになった。
かっちゃんは、ずっと小学生の頃のままのかっちゃんだ。それが僕には無性に苛立たしかった。
「しょ~ちゃ~ん」
「ごめ~ん、寝坊した。僕に構わず、先に学校に行って」
「しょ~ちゃ~ん」
「ごめ~ん、今、朝ご飯を食べている。一緒に登校出来ない」
「しょ~ちゃ~ん」
「ごめ~ん、今日は、学校行きたくないから休むわ」
あからさまに邪険に扱っても、かっちゃんは、懲りずに毎朝僕を呼びに来た。マジでやめてくれ。いつまで小学生気分なんだよ。察しろよ、迷惑なんだよ。布団に潜って耳を塞ぎ、心の中で叫ぶ。やがて僕は、かっちゃんの呼ぶ声にいっさい返事をしなくなった。聴こえないふりをした。かつて大音量の蝉しぐれの中から、一瞬にして聞き分けることの出来たかっちゃんの声は、彼より先に大人に成長をした僕には、もう聴き取れない周波数になったのだ。そう自分に言い聞かせた。
そして、とうとうかっちゃんが、僕を呼びに来ない朝がやって来た。
全ては自分で蒔いた種でありながら、この時ばかりは、得も言われぬ喪失感に苛まれた。良かったじゃないか。お望み通り、親友を失ったんだ。そう自嘲をした。自嘲するより他にすべがなかった。
その日から、僕たちは、ただの知り合いになった。僕は、高校生になってはじめて出来た彼女や、新たに知り合ったいわゆる「不良」と称される友人と遊んだ。かっちゃんはかっちゃんで、新しい交友関係を築くのに、さして時間を要しなかった。そりゃあ、そうだ。かっちゃんは、とてもいいヤツなのだから。僕というクズ人間の呪縛から解放された彼は、瞬く間に交友関係を広げ、学年の人気者になって行った。
顔を合わせれば普通に会話をしたし、共通の友人を仲介して一緒に遊ぶこともあった。でも、交わす言葉の端々に、かつての絆のようなものを感じることは無かった。重ねて述べるが、僕たちは、ただの知り合いになり果てたのだ。
高校を卒業した僕は、家業を継ぐために、実家の民芸品店で働き始めた。かっちゃんは、都心の大学に進学したらしい。その後の彼の人生を、寂れた観光地で働く僕が知る由もなかった。
かっちゃん、東京で何があったの?
ひと月前のあの夜、君は僕に何を伝えようとしたの?
「しょ~ちゃ~ん」
「しょ~ちゃ~ん」
「しょ~ちゃ~ん」
あれ? 激しい蝉しぐれのどこかから、かっちゃんの声がする。布団に潜っても、両手で耳を塞いでも、あの独特の節回しで、彼が僕を呼び続けている。
ごめんね、かっちゃん。高校生になって君を邪険に扱ったのは、決して君のことが嫌いになったからではないんだ。違うんだ。本当にそんなんじゃないんだ。
「しょ~ちゃ~ん」
ひょっとして君は、あれからもずっと、叩きつける蝉しぐれの中で、僕を呼び続けていたの?
「しょ~ちゃ~ん」
聴こえるよ、かっちゃん。
「しょ~ちゃ~ん」
聴いてくれ、かっちゃん。
「は~あ~い~」
窓の外では、蝉たちが、ゲリラ豪雨のようにうるさい。
今日も暑くなりそうだ。