86. 父と子 (アレクの視点)
クララと庭園で別れてから、そのまま執務室に入った。すでに、昼近い。
一歩、足を踏み入れたとたん、あちこちから口笛やクラッカーが鳴った。朝帰りをからかう野次が飛ぶ。この盛り上がりはなんだ?
部下全員が、私の婚約が首尾よく成ったことを喜んでくれた。みなの助言が役に立ったと告げると、誰もが満足そうに頷いた。ローランドだけは、始終仏頂面だったが。
父国王から、政務室へ顔を出すようにと伝言が届いていた。すぐに向かおうとすると、ローランドに襟をぐっと掴まれた。
「シャワー浴びてこいよ。女の残り香なんて、つけてくるな」
このバカ騒ぎの原因に納得した。だから、みなにバレたのか。私からはクララの香りがする。幸せを感じて口元を緩めると、ローランドに小突かれた。
分かっている。王族たるもの、けじめが重要だ。乱れた私生活を提示していいわけがない。
執務室で軽くシャワーを浴びると、新しい服に着替えた。ちょうどいい機会だ、父にクララとの婚約のことを話そう。
私が到着すると、父は人払いをした。母が亡くなってから十年余り、私たち父子は互いが互いの、一番の理解者だった。
「どうやら、うまく行ったようだな」
「ご心配をおかけしました」
「気にしなくていい。お前を色恋とは無縁な立場に置いたのは私だ。その方面に疎くなって当然だ」
「父上も母上を口説くときには、苦労されたのですか?」
「当たり前だ。お前の母は、地上に降り立った天使だぞ。並の女ですら口説いたことがなかった私が、どうやって彼女と結婚にこぎつけられたのか。聞くも涙、語るも涙な世界だ」
「そのエピソードは、王宮の蔵書で読みました。新聞に掲載されていたものが書籍化されていて」
「ああ、あれは王族の洗礼みたいなもんだ。お前も分かると思うが、ああいうのは美しく婉曲されたフィクションだ。王妃は、読んで激怒していたぞ。私が美化されすぎだと。そうは言っても、国王を持ち上げるのはよくあることだ」
「王族はある意味、国民の夢みたいなものですから。当代の記者も、そこは時代に合わせて上手に内容を操作してくれています」
「そうだな。とにかくよくやった。クララ嬢は、市井で大人気だそうじゃないか。愛のために命がけでお前を守った武勇。しかも気さくで謙虚な態度に、好感度は鰻登りだ。ちらっと見かけたが、美しい娘じゃないか」
父は私の頭をぐちゃぐちゃとなでた。子供じゃないんだからと思うが、父にとってはいつまでも私は小さな息子らしい。
「隣国の王女と政略結婚すると、平然と言ってのけたときは、恋の一つもしてないのかと心配したが。あんな娘を隠しておくとは、全くお前も隅に置けんな」
「恐れ入ります。早速ですが、結婚の時期についてご相談したいのです。式は先になりますが、明日にでも籍は入れたいと」
こうなった以上、いつクララが身籠ってもおかしくない。王家の男子には強い魔力が宿るため、妊娠に至るまでは時間がかかる。とはいえ、それは統計データの話であって、クララがそうだとは限らない。
彼女にとっては、順番が逆になることは好ましくない。私にとっては、結婚までお預けというのは受け入れられない。
「お前の気持ちは分かるが、王女と破談になったばかりだしな。あちらの都合であったとはいえ、対外的には少し待ったほうがいいという意見が多い。お前達は若いし、今は婚約だけにして、結婚は一年後くらいに……」
「却下します。彼女と離れては暮らせません」
私がそう言い切ると、父は嬉しそうに笑った。
「お前がわがままを言ったのは初めてだな。王妃にも見せてやりたかった。そうか。結婚していなくても、一緒に暮らせればいいということだな」
「そんなことができますか?」
「まあ、任せておけ。今夜、クララ嬢を晩餐に呼んでいる。そのときは、万事、話を合わせてくれ。悪いようにはしないから」
「分かりました」
父が何を企んでいるかは知らないが、ここはとりあえず任せてみよう。
なんだかんだ言っても大国の王。綺麗ごとだけで回せない政治世界で、交渉にかけては右にでるものはいない。あの北方を、外交だけであそこまで抑えておけたのは、他ならぬ父の手腕だ。
駆け引きや根回しなど知らないクララには申し訳ないが、私のために諦めてもらうしかない。なんと言われても、私にはもうクララを手放す気はないから。
案の定、晩餐でクララはガチガチだった。何を考えたのか、父は大臣たちを呼び、懸案事項を討議しながら食事を摂っている。
クララとは最初に挨拶を交わしただけで、後はまるで無視。これでは、嫁いびりだ。
末席に控える侍女や、部屋の外で待機するメイドの私を見る目が痛い。
「次は、王都に新設された、高度治療専門産婦人科病院に関してでございます」
「うむ。不妊治療専門病院だったな。何か問題があるのか?」
「はい。患者には女性が多く、治療もデリケートです。細かい要望を吸い上げられていません。女性を専属で担当官にするべきかと。ただ、人選が困難で……」
「そうか。夫婦間の魔力差や、出産年齢の上昇で、妊娠しづらい夫婦が患者だったな」
男女の魔力差。クララに魔力はないが、私の魔力量は多い。こういう組み合わせでは、子供が授かりにくい。それを魔法や薬で補助する目的で、この病院は建てられた。
クララは、会議に真剣に耳を傾けていたが、この話題には特に興味を持ったようだ。本当は、あまり聞かせたくない話だった。私と子が成しにくいと知ったら、クララは後継を心配する。
私が軽くにらみつけると、父はすっと目を逸らして、クララのほうを見た。
「ところで、クララ嬢。あなたは既に、王太子の子を身籠っているのか?」
いきなり何を言い出すのか、この父は!
クララは真っ赤になって俯き、他はみな聞こえないフリをして、そっぽを向いて黙り込んだ。
私が抗議の目線を送ると、父は軽くウィンクしてきた。……胃が痛い。