82. 秘密の花園
殿下のことを考えて、後宮で眠れない一夜を明かした。そして、寝不足の私を待ち受けていたのが、マリエルの激怒だった。
メイド・ネットは、色々と思い込みが激しい娘っ子集団。かなりズレている。
でも、年頃の娘が恋愛至上主義なのは、極めて普通のことだと思う。大国の王太子と貧乏下級貴族の恋模様。夢中になるのは、かなり自然な話だ。
とはいえ、寝室の様子までモニターされるのは、いくらなんでもプライバシーがない!
今日はなんとしても、殿下と二人だけで話したい。告白というのは、至極プライベートな問題だから!
マリエルの小言を聞き流して、オレンジジュースを飲む。昨日、殿下の膝の上で飲んだものと同じ味がして、目に涙がにじんだ。
そのとき、侍女長様が部屋に入って来た。マリエルは、頭を下げて壁際に控える。
「ご機嫌はいかがですか?よく眠れましたか」
「いえ。あ、はい。おかげさまで」
寝不足の赤目を見て察したのか、侍女長様はそれ以上は聞いてこなかった。代わりに、マリエルに向かって話しかける。
「あなたが、マリエルね。ヘザーから話は聞いています。今日から、クララ様のお世話をお願いしますよ。あちらで、他のメイドたちとお茶をしていらっしゃい」
「はい。よろしくお願いいたします」
マリエルが去ると、侍女長様は人払いをして、私の前の椅子に座った。
「それで、よく考えられましたか」
「はい。ありがとうございます。あの、殿下に会いたいのです。私の気持ちを、きちんとお伝えしたくて。会ってくださるでしょうか」
私の言葉を聞いて、侍女長様はにっこりと微笑んだ。
「殿下は、本日、お休みを取ってらっしゃいますよ。昨日は、悪友たちと飲み明かされたようですね。執務室も閉鎖。表向きは、国王陛下が留守中の働きを労って、みなに休暇を与えた、ということらしいです」
「そうですか。では、お疲れですね」
殿下はたぶん北方との情勢が怪しくなりだした頃から、寝る間も惜しんで仕事をされていたはずだ。久しぶりの休暇なら、ゆっくりと休んだほうがいい。会うのは諦めよう。
「殿下はあなたがいないと、寛げないようですよ。伝言を預かってきました。『会いたい』と」
「本当ですか?殿下が?そう言ってくださったのですか?」
ニコニコと頷く侍女長さまが、なぜがぼやけて見え難い。ハンカチを渡されて、やっと私は、自分が泣いていることに気がついた。
「さあ、支度しましょう。きちんと朝食を食べて、お風呂に入ってね。ちゃんとお化粧をして、今までで、一番綺麗なあなたをお見せしましょう。殿下のお心を、がっちりと捕まえられるようにね」
「はい」
私は涙を拭いてから、蜂蜜がかかったヨーグルトを口に入れた。マリエルが持ってきてくれたのだろう。男爵家の領地で採れる蜂蜜のやさしい甘みが嬉しかった。
殿下は私を、『秘密の花園』と呼ばれる庭園で待っていた。王族しか入れないプライベートな異空間で、入口を知っているのはごく限られたものだけ。扉には鍵がかけられ、王族と招かれたものだけしか入れない魔法がかかっている。
侍女長様が、ドアの前まで案内してくれた。そして、彼女に見守られながら、私は扉の中へと入っていったのだった。
そこは、小高い丘の上だった。冬だというのに、柔らかく温かい春の風がさらさらと頬をなで、遥か下に見える湖までつづく草原には、色とりどりの野生の植物が花を咲かせていた。湖面は鏡のように澄んで、遠くの山影や空に浮かぶ雲が、くっきりと写っている。
牛の姿は見えなかったけれど、どこかで放牧されているのかもしれない。リンリンという澄んだ音が聞こえる。カウベルだ。標高が高いのか、雲がずいぶん低く流れていた。
その絶景に息を飲んだとき、私は遠くでブランケットの上に寝転がる人影に気がついた。帽子で顔を覆っているけれど、たぶん殿下だと思う。
私が近づいていっても、その足音で起きるという気配はなかった。眠っているのかもしれない。
「殿下、眠ってるんですか?風邪引きますよ?」
そばに膝をついて私が声をかけると、殿下は顔から帽子を取って、そのままうーんと伸びをした。
これ、この光景、どっかで見たことある。
ああ、そうか、学園の裏の芝生の丘だ。殿下と初めて会った場所。あのときは私が、こうやって芝生の上で寝転んでいたんだった。
「やあ、クララ。来てくれたんだね。ありがとう」
殿下は寝転んだまま、私を見て満面の笑みを浮かべた。そして、私の長い髪を一房掴んて口づけた。
急に髪を引かれたので、私は少し前のめりにバランスを崩した。すると、殿下の胸で抱き止められた。
「重くないですか?」
「羽みたいに軽いよ。ああ、暖かくて気持ちいいな。しばらく、こうしていていいかな」
私は返事をするかわりに、膝を滑らせて、自分の身を殿下の側に横たえた。殿下の背中にそっと手を回すと、殿下は私を抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
自分のか殿下のか分からない、早鐘のような心臓の音を聞こえた。
どのくらいそうしていたのか、心臓の音はトクトクと規則正しく整いだしていた。殿下の手は優しく髪や背中をなでて、唇は髪や額にキスを落としてくる。
殿下の体からは香木系コロンのいい香りがして、まるで天国にいるような心地よさだった。
殿下の体温と、柔らかい日差し。とっても暖かい。
昨夜、寝ていないせいもあって、私はついウトウトとしだしてしまった。そして、二人ともそのまま眠ってしまったのだった。