81. あの夜に何が
「殿下は寝室に入ると、すぐにクララ様の名前を何度も呼んで、シーツをカサカサさせたって。睦言で『可愛い』って囁かれたでしょう? 閨控えのメイドに、しっかり聞かれてますよ」
違う! それはきっと、私を起こそうとしたのよ! 普通に考えてそうでしょ。なんでそんな解釈に?
え、でも、可愛いって……? や、やだ、どうしよう、本当に? 殿下がそんなことを?
「殿下って、意外とせっかちなんですねえ。でも、とりあえずみんな、本当にホッとしましたわ。不発に終わったら、クビが飛びますもの。ヘザー様って、結構な鬼なんですよ」
あの夜は、何もなかった。断言できる! 殿下が、私の寝込みを襲うなんて、ありえない。
いくら鈍感でも、初体験してたら分かる……と思う。
「深夜シフトのメイドが、今度はお嬢様が何度も『殿下』とささやかれていたって。三時間耐久レース!それには驚きましたけど、まあ、嬉し恥ずかし初夜ですからね。燃えるのはありですから」
待って!それも誤解よ。私は目が覚めたので、殿下を起こそうとしたの!なんで、そういうタイミングでチェックしにくるの?意味わからない。意図的?
だいたい、プライバシーはどこに行ったのよ。それって、覗き見行為でしょ!
「その報告でやっと解散になりました。夜の護衛には騎士がつきますし、メイドはいらないですからね。私もリアルタイムで報告を聞きましたが、想像しちゃって寝付けなかったですよ。刺激、強すぎ」
やめてー!想像しないでー!そんなこと聞いたら、私も眠れなくなる!
そんなこと妄想されているなんて、どんだけ恥ずかしいの。もう、実家に帰って、引きこもりたい。
「で、これで終わりかなと思ってたら、まだ続いてたんですねえ。翌朝にメイドの緊急招集があったんですよ!」
ちょっと、もういいよ。その内容、聞くのも怖い。心臓がいくつあって足りない。
「朝シフトのメイドが、いつもの起床時間に寝室に入ったら、失神したクララさまの上に全裸の殿下が覆いかぶさって、キスマークを付けていたと!まさかの九時間ぶっ続け!みんな絶句でした」
ちょっ!ない!それはない!そのメイドは朝が早くて、寝ぼけて夢を見たのよ!
あ、でも、キスマークは付いてるよね。じゃあ、本当にそんなことが?
「さすがに、殿下も痴態を見られて、恥ずかしかったんでしょうね。そこで打ち止めだったそうです。裸にバスローブだけを羽織って、そそくさとベッドから出たそうですよ。はだけたローブからのぞく胸板とか、乱れた髪を無造作に掻き上げる仕草とか、もう色気が凄まじかったと!」
その色気は想像できるけど、え? 裸? し、下も脱いでたの? あのとき? は、履いてなかった? 嘘……。
「目撃したメイドは、報告しながら鼻血を吹いて倒れました。居間で控えていた別のメイドも、通りかかった殿下の姿を見て鼻血ブー。朝の定例ミーティングでも、この話だけで鼻血続出ですよ」
う。殿下の裸を見たなら、そりゃ、そうなってもおかしくないけど。
え、み、見たのかな、本当に? 私だってまだ見てないのに、ずるいっ!
「おかげで、お掃除メイドがあっちこちで鼻血を拭くはめに。ほんっと、迷惑だって話でしたよ」
なんか、これはもう私の話じゃないと思う。絶対に、誰かの創作小説の内容だ!
面白がって、事実を曲げてるやつがいる!そいつが犯人だ!黒幕だ!
「そんなこんなで、私たちメイドグループはやっと安心したんですよ。これで路頭に迷うことはなくなったと。立派にお役目を全うできましたからね!」
なんの役目よ。ヘザーは一体、メイドさんたちの何を管理しているの?
それにしても、路頭に迷うって。みなさん、それなりに身元がしっかりした娘さんたちなのに。たしか、市街の商家からの行儀見習いが多いとか。
幼いときから、テキパキと家の商売のお手伝いをしていたんだろうなあ。じゃなきゃ、あんなにキビキビと機転を利かせて動けないよね。
私はそんなことを、ぼーっと考えた。なんというか、あまりの衝撃に、脳がそれ以外のことを考えることを拒否していたので。
そんな私にイラッとしたのか、マリエルは私の前にあったテーブルに、ダンっと両手を付いた。その反動で、朝食のグラスからオレンジジュースがこぼれる。
恐る恐る見上げると、マリエルは怒りでうっすらと涙を浮かべていた。
「それなのに!それなのに!私たちがあんなに頑張ったのに!クララ様は何なんですか!血も涙もない!あまりにもひどい仕打ちです!」
「あ、あのね、マリエル、ちょっと落ち着いて」
「これが落ち着いていられますかっ!ちゃんと説明してださい!」
「えーと、説明というのは、何の……」
「そんなの決まってます!殿下のプロポーズのことです!」
やっぱり、それだよね。うん、私もそれだと思った。この流れだものね。
「なぜですか?理由を、ちゃんと、みんなが、分かるように、ここで、はっきり、説明してください!」
目に涙をためたまま、鼻息を荒くして詰め寄るマリエルに、私は転移魔法が使えたらよかったなあと、ぼんやり考えていた。
「聞いてます?なんで、殿下の、プロポーズを、断ったのか、と聞いているんです!」
どうしよう。逃げたい……。