74. 幼い恋の終焉
私たちは果樹園に来ていた。元果樹園であった場所というべきなのか。シャザードの魔法戦のために、りんごの木はなぎ倒され、引き裂かれている。
「あのときは、ありがとう」
あれから約一ヶ月。色々なことが変わってしまった。そして今、ようやく言いたかった言葉が言えた。
「礼を言うのは俺の方だ。お前がレイ殿を連れて来てくれなきゃ、俺は死んでた」
「不思議ね。シャザードはもういない。王女様もレイ様も。カイルも行ってしまった」
私はバッグから小箱を取り出して、ローランドに差し出した。ローランドは驚いたように目を瞠る。
「カイルから預かってたの。いつか会えたら、返そうと思って」
ローランドは黙って箱を受け取ると、そっと蓋を開けた。そこには公爵家の象徴であるエメラルドが、柔らかい日の光を受けて燦然と輝いている。
「これはあの日、お前に渡そうと思ってたんだ」
もしもあの襲撃がなかったら、私は今、この指輪をはめていた?ううん、そうはならない。私はきっと、これを受け取らなかった。
「あの襲撃の翌日、カイルがこれを王宮まで持ってきたんだ。お前が羽織っていた、俺の上着に入っていたって」
「うん。聞いた」
「そっか。クララに渡せって言われたんだ。でも、突っぱねた。そしたら殴られた」
なんで、カイルはローランドを殴ったんだろう。優柔不断に頭に来て……って言ってた。嫉妬だって。
「ヘザーとお前からの怒りの鉄拳だと。まあ当然だよな」
「え、それはどういう意味?」
ローランドは足を止めて、こちらを向いた。真剣な目を向けられて、目がそらせない。
「俺はお前が好きだった。なのに、お前を諦めようと、ヘザーの好意を利用した。そんな婚約、カイルが怒って当然だろ」
ローランドが、私を好きだった?嘘を言っているとは思えない。言う必要だってない。じゃあ、これは本当のこと?
ローランドは前髪をぐしゃっと握った。これは辛いことに耐えるときにする癖だ。
「カイルには、何度も言われた。逃げずにきちんと向き合えと。でも、俺にはできなかった。お前の口から、決定的なことを言われるのが怖かった。俺を愛していないという言葉を、聞く勇気がなかった」
その気持ちは分かる。私も同じだから。好きな相手の本当の気持ちを聞くのが、怖いと思っている。
「ヘザーは昔から、ずっと俺を応援してくれてた。お前とのことも。辛いなら自分を利用しろと言ってくれた。俺はお前への気持ちを断ち切るためだけに、ヘザーと婚約したんだ」
ローランドは昔から私のことを……。カイルとも付き合ってなかったの? じゃあ、カイルが嫉妬するほど好きだった相手って……。
涙が頬を伝った。ヘザーの気持ちを思うと苦しかった。王女様のお茶会まで、私はヘザーの気持ちに気がついてもいなかった。ずっと一緒にいたのに。一番の親友なのに!
泣いている私を、ローランドは静かに抱き寄せた。ローランドも泣いていた。どこまでも心優しい、私たちの大切な二人の友人のことを想って。
ヘザーとカイルはずっとその本心を隠して、私たちの幸せを願ってくれていた。
「テロのとき、ヘザーを失えないと思った。あいつを、生きて幸せにしたいと思った。だから、死ねない、死なせないと」
ヘザーは命がけで私たちを庇ってくれた。愛する人と恋敵を、なんのためらいもなく。そして、自分を置いて逃げてくれと言ったのだ。
「口には出さないけど、ヘザーは不安がってる。だから、早く安心させたい」
「結婚するって聞いたよ。おめでとう」
「ああ。ヘザーを家族にしたいんだ」
ヘザーの両親は亡くなっていて、実家には身の置き場がない。ローランドと結婚して公爵家に入れば、きっとそこがヘザーにとって一番落ち着ける場所となる。
ローランドは私の両肩をつかみ、私の目をじっと見つめた。
「俺はヘザーと生きることに決めた。だけど、お前にどうしても聞いてほしいことがある。俺が先に進むために」
私は無言で頷いた。私ができることはない。してもいけない。
でも、ローランドは幼い頃から、私を愛してくれていた。そして、私も彼がいる空気が好きだった。
形は違うけれど、そこには確かに愛があった。
「子供の頃から、ずっとお前が好きだった」
ローランドの心が、泣いている。そして私の心も。愛し合って結ばれるという運命ではなかったけれど、私たちは互いに強く惹かれ合っていた。どこかで歯車が掛け違っていたら、たぶん互いの手を取っていたであろうくらいに。
「一度だけでいいから、ちゃんと伝えたかった。お前は俺のすべてだった」
私は黙って頷いた。これは愛の告白ではなくて、決別のための言葉。ローランドは、私に伝えることで、その気持ちを思い出に昇華しようとしている。
「ありがとう。ローランドの気持ち、一生忘れない」
私がそう言うと、ローランドは私の肩に頭を乗せて、少しの間だけ泣いた。私はその頭をそっと撫でて、いつものように「大丈夫だよ」と笑った。
それが、私たちの幼い頃からの許婚関係の終わりだった。
果樹園の門の近くに、馬車を待たせてある。私たちはとりとめのない話をしながら、笑い合って馬車まで歩いていった。今までいつもそうしていたように。
ローランドはいつものように「じゃあ、また」と言って、私の手を取って馬車に乗せてくれた。それは、パートナーとして私をエスコートしてくれるときに、いつも彼がしてくれたことだった。
馬車が見えなくなるまで、ずっと門の前で見送ってくれるローランドを、私は馬車の後方の窓のカーテン越しに、こっそり見ていた。
様々な彼との思い出が洪水のように溢れて、私は声を上げて泣いた。ローランドとヘザー、そしてカイルが幸せになることだけを願って。
馬車が王宮につくまで、私は泣き止むことができなかった。