70. 嵐の農婦 (アレクの視点)
どのくらい眠っていたのか。久しぶりに熟睡した気がした。実際は、一時間もたたないくらいだったかもしれない。
私は、人の気配で目を覚ました。もちろん、それが誰かは分かっていた。セシルだ。
「起こしてごめんなさい。寝てた?急ぎの用事があるの!」
寝てたから、起こしたんだろう。セシルはいつもこうだ。慣れてはいるが、せっかち過ぎる。そう思って起き上がると、レイも伺候していた。
昨夜は、衣服はボロボロで、体中傷だらけだった。今は、きちんと手当をして、体を清めたようだ。妙にすっきりとした顔で、こざっぱりとしていた。
「私、もうレイとしたの!だから、アレクとはしないわ!」
何をして、何をしないと言っているんだ? なんの謎々だ。話が飛びすぎだ。いくらなんでも情報が少なすぎて、全く理解できない。
「だからっ!レイと結婚したので、アレクにはもう触られたくないの!」
私が、いつ触った? 誤解を呼ぶ表現はやめてほしい。いや、それよりも重要なのは、その前の情報じゃないか?
レイが、この従僕の鬼のようなレイが、自らが仕える主君と、ついに、とうとう、本当に?
驚いてレイを見ると、相変わらずのポーカーフェイス。だが、耳が真っ赤だった。なるぼど。納得した。
そういえば、セシルからはレイの魔力が放出されている。いつもと違う香りもする。レイの匂いか。
私は二人に、生暖かい視線を向けて言った。
「事情は、だいたい分かった。それで、私とせずにレイとすると」
「もうしたの!レイとしたら、他の男じゃ無理なのよ、絶対!」
何の比喩だ。結婚の話をしているのだが、違う話に聞こえるのは気にせいか? それにしても、一国の王太子を捕まえて『他の男』呼ばわりとは。しかも断言。
セシルもセシルだが、このレイという男、やはり侮れない。そんなにいいのか。
さすがのレイも、真っ赤になったり真っ青になったりしている。これでは単なるさらし者だ。
気の毒になって、私は話題を変える。
「北方はテロの失敗で崩壊寸前だ。すべてが混乱している。来週には父が戻るということだし、そのときに婚約解消を相談して……」
「そんな悠長なこと言ってられないの。すぐに国を出るわ」
「それは、軽率じゃないか?安全面を考えても、他国の動向を確かめてからのほうが」
「姉のこともあるから、辺境に寄っていくわ。そこで色々と相談するから」
「そんなに適当でいいのか?もっと計画的に……」
「レイがいれば大丈夫よ。世界最強の魔術師!シャザードを倒した英雄よ!」
頬を染めて熱っぽく語るセシルの横で、レイはかなり気まずそうだ。本当にセシルでいいのか、レイ。お前は世界の英雄なんだろう?考え直すなら今だが。
「婚約は正式に成立していない。手続き上は問題ないが、本当にそれでいいのか?隣国に戻らないで…」
「ええ。二人で自由に生きるの!農民になるのもいいかなって」
絶句した。甘やかされた絶世の美女と、世界を救った英雄の魔術師が……農民?
まあ、いい。セシルがこんなに幸せそうな顔をしているのは、子供の頃から一度も見たことがなかった。
「レイ、お前には、今後の当てがあるのか?」
私に問いかけられて、恐縮しきりだったレイは、言いにくそうに切り出した。
「王太子殿下に無断で、王女と婚姻を結んだこと。どんなお咎めも受ける覚悟です。ただ、もし許していただけるなら、必ず幸せにすると誓います」
「気にしなくていい。お前が戻れば、婚約は解消するつもりだった。まさか、婚約前に破談とは思わなかったが」
「申し訳ありません。私には西に知り合いがいるので、しばらくはそこで過ごして、ゆっくりと先のことを考えていこうかと」
この常識ある男がいれば、市井に出ても、セシルはなんとかやっていけるだろう。どちらにしろ、セシルはこうと決めたら一直線だ。もう誰にも止めることはできない。
「セシルは、妹みたいなものだ。幸せになれるなら、どんな結婚も賛成だ。色々と大変だとは思うが、よろしく頼む」
レイは深々と頭を垂れた。セシルはニコニコと、満面の笑みを浮かべている。この二人は、長い間お互いに恋し続けていた。ようやく結ばれたのだから、きっとよい夫婦になるだろう。
「そういうことで、アレクのことは、クララに頼んでおいたから安心して」
私は思わず、言葉に詰まった。気持ちはありがたいが、何もそこまですることはない。クララの処遇については、私に任せてもらいたい。
「余計なことだ。私のことは気にしなくていい」
「アレクのペースで進めたら、クララはおばあちゃんになっちゃうわよ!今夜から、この寝室で寝かすから。優しくしてあげてね!」
そういうことはするなと、夜伽事件のときにもあれだけ叱ったのに。まったく懲りていない。学習能力がなさすぎる!
呆然とする私を残して、王女とレイは紳士と淑女の礼をとってから、さっさと退室していった。このまま、すぐに出る気なのだろう。婚姻同盟不成立に係る事後処理を、私一人にすべて丸投げして。
だが、駆け落ちするのなら、大げさな見送りはしないほうがいい。彼らのことは、しばらく伏せておくべきだ。このことは、発覚するまでは黙秘しようと決めた。
それにしても、セシルたちのために増えた仕事を考えると、つい長いため息が出る。
だが、今夜からここにクララが来ると思うと、自然に頬が緩んでしまう。セシルのお節介も、的を射ていれば悪くない。
まるで嵐のように、周囲の者たちをかき回し、通った後をはちゃめちゃにしたままで、あっという間にセシルは去っていった。
彼女らしいといえば彼女らしいが、レイの今後の苦労は目に見える。私は少し、いや、かなりの同情を禁じ得なかった。