60. 肥沃な大地 (アレクの視点)
「これはどういうことなんだ?」
侍従長から手渡された婚約式次第に、私はざっと目を走らせた。そして、その内容に少なからず驚愕した。そこには八組のカップルの婚約報告が記載されている。ローランドの婚約者はヘザー?
「クララのこと?正式に婚約を発表させると言ったじゃない」
「それは聞いた。だが、なぜカイルなんだ?」
セシルは不思議そうな顔をした。
「元侍女たちで婚約者がいなかったものは、専属騎士と婚約させたのよ。最初からそのつもりで、人選をしてたの。ヘザーもその予定だったんだけど、先にローランドと正式に婚約したから」
「なぜそんなことに……」
「知らないわ。本人たちの希望よ」
まさか、ローランドは私に気を使って?クララを諦めるために、別の女性と婚約を?
「ローランドは、いつヘザーと?」
「襲撃の翌日だったかしら。アレクもローランドはだめだと言ったし、ちょうどいいタイミングだったわ」
私は確かにダメだと言った。つまらない妬心だったとは思う。だが、それはローランドと婚約させるなという意味ではなかった。
「私のせいなのか?」
私ソファーに座り込み、思わず頭を抱えた。ローランドとクララの未来が変わってしまった。そして、王女の命でカイルと婚約する?クララはそれでいいのか?
「ローランドが、ヘザーを選んだのよ。あの二人なら幸せになれるわ。クララも、幼馴染二人の婚約を喜んでるはずよ」
私の肩に手を置いて、セシルが優しく言った。だが、どうしても解せない。
「クララは優しい子だ。友人の幸福を願わないはずはない。だが、本人の気持ちは……」
「彼女の気持ちは、アレクが一番よく知っているでしょ。それに、命令じゃなければ、クララは誰とも結婚しなかったと思うわ」
「どういうことだ?」
「何を言ってるの?クララは相思相愛の相手と、無理矢理引き裂かれたのよ?アレクのことが好きなのに、他の男と婚約したりしないわよ」
「クララが私を……?」
彼女から愛を伝えられたことは一度もない。私の一方的な告白を、クララは黙って聞いてくれただけ。私を拒絶するには、彼女は優しすぎた。それだけだったはずだ。
「もういいじゃない。どうにもならないことは、どうにもならないわ。カイルはクララを好いている。政略結婚が当たり前の貴族社会で、一方だけからでも愛があるなら、その結婚は幸運よ」
「カイルがクララを……」
「ええ。たぶんずっと前から。ずいぶんと恋心を拗らせてはいたようだけど、思いがけない幸運だと受けとってくれているはずよ。クララも、相手がカイルで安心したと思うわ。彼なら無体な真似はしないでしょうしね」
そうだ。カイルもずっとクララを。学園にいるときも、騎士となってからも、影に日向にクララを守ってきた。あれは確かに、愛情だった。
「そうか。事情は分かった。取り乱してすまなかった」
私がそう言うと、セシルは黙って頷いた。
「カイルにはもちろん、クララを守るように頼んであるわ。ローランドにも気を配ってもらえるよう、ヘザーから伝えてある。大丈夫。今夜はきっとうまくいくわ」
「そうだな。ありがとう」
セシルの言う通りだった。とにかく今夜が勝負だ。これが失敗すれば、国民全員の命さえ危うくなる。それを回避するために、セシルは最大限に有効な算段を取り付けている。クララの婚約もその一部だ。任せていて間違いはない。
セシルが退出した後、私はすぐに執務室に向かった。ローランドはいつも遅くまで執務室にいる。もしかしたら、まだいるかもしれない。
今更とは思うが、もう一度ローランドの気持ちを聞いておきたい。本当にヘザーと婚約していいのか。それで二人は幸せになれるのか。
「ローランドを見なかったか」
執務室に残っていた部下は、突然現れた私を見て少し驚いたようだった。
「もう出ました。式の準備があるからと」
「そうか。何か言ってなかったか」
「特には。ああ、そう言えば、カイルの謹慎が解けたかを気にしていたようです」
「カイルの」
「はい。喧嘩の後、ずっと気にしてましたから」
「あれは、いつだったか」
「確か、ローランドは休暇明けでしたね」
カイルはあのとき、すでにローランドの婚約を知っていたんだろう。だからあんな真似を。
あの夜、私はクララを手放し、カイルに託した。無事にローランドの元へ戻っていけるように。だが、その翌日には、ローランドはクララから完全に身を引いた。
私たちはクララを守りたいと言いながら、実質的には、彼女をただ無責任に放り出しただけ。本当なら、カイルは私も殴りたかったはずだ。
失ったものは取り戻すことはできない。それでも、まだ失っていないものもある。この国の平和な未来は、まだ失われてはいない。そして、それだけが私がクララに贈れるものだ。
私はなんとなく薔薇園に足を運んだ。そして、ピンクの薔薇の蕾を一輪だけ切った。どんな色であっても薔薇は美しい。だが、土壌が荒れて水が不足すれば、すべての薔薇が枯れる。
肥沃な大地があってこそ、そこに生きるものが豊かになる。民にとっての国家とは、まさにそういう存在だ。すべての人間の命を守るのが、王族の務め。
「今夜が勝負だ。必ずやり遂げてみせる」
私は知らないうちに、そう呟いていた。