59. カイルのプロポーズ
カイルの屋敷の食事は素晴らしい。素材の良さを引き出す調理法は、シェフの腕だ。
テーブルセッティングも美しく、いくつもの燭台に灯るロウソクの火が、さらに料理を美味しく見せていた。
それでも、あまり量を食べることはできなかった。王宮を出た日から、ずっと食欲がない。胃が縮んでしまった。残念。
デザートのいちごシャーベットを食べ終わった頃、私はやっと本題に入ることができた。
「あの、カイル。謹慎中だって聞いたんだけど? 喧嘩したって……」
「未熟な人間なのを恥じてるよ。でも、ローランドに怪我はない」
「カイルは?大丈夫なの?」
「ああ。謹慎も明日までだ」
私はほっと胸をなでおろした。双方に怪我がないなら、それほど大事にはなっていないのだろう。でも、謹慎なんて、出世に響かないのかな。
「謹慎中なのに、家にいなくてよかったの?」
「王宮への出入りを差し止められただけで、外出は問題ない」
「そうなの。今日はどこに?」
「預けていたものを、取りに行ってたんだ。来客時に不在で悪かった」
「私こそ。勝手にヘザーを家に入れてしまって。その、あのときのことなんだけど……」
今がチャンスだ。焦る気持ちを抑えるように、私は話す順番を頭の中で整理した。偽装婚約の件を、きちんと話し合っておかないと。カイルだって、色々と気になるだろう。
そう思ったとき、急にカイルは私の側に来て片膝をつき、ゆっくりと私の右手を取った。その行動に驚く間もなく、カイルの言葉に更なる衝撃が私を襲った。
「結婚してほしい」
頭が真っ白になって、しばらく思考が停止した。これは、プロポーズというもの?
なぜ?なんで? どうしてカイルが、私にプロポーズしているの?
「私と?」
いや、この状況で、他の人の話なわけはない。でも、だって、これはおかしい。
カイルが私の結婚を申し込む理由なんてない。何かの間違いだ。空耳?幻聴?まさか、妄想の世界に……。
「北方から、君を守りたい。今、それができるのは僕しかいない。王女にも頼まれているんだ」
カイルの返答を聞いて、私は急に力が抜けた。そうか。そうだったんだ。王女様の命令。王宮を出たときから、これは決められていたことなんだ。
私たちに選択権はない。私が拒否すれば、カイルに迷惑をかけてしまう。
「分かったわ」
「今すぐに、結婚するわけじゃない。当面は、婚約者になるだけだ」
「形式だけの婚約……ということ?」
「そう思ってくれていいよ」
それを聞いて安心した。結局は偽装婚約ということに変わりない。情勢が落ち着いたら、すぐに解消すればいい。それなら、気も楽だというもの。
「……よろしくお願いします」
これは国家への忠誠!貴族としての任務。私たちは駒としての役目を果たさなくてはならない。それが私たちを支えてくれる国民への義務だから。
私の答えを聞いて、カイルは申し訳なさそうに微笑んだ。この婚約に私が異を唱えれば、カイルは自分が困ったはずだ。それにもかかわらず、求婚の形を執ることで一応の体裁を整えてくれたんだ。
カイルはポケットから、小さな箱を取り出した。今日、引き取ってきたというそれは、見事な意匠を凝らした婚約指輪だった。
中心に金で丸く雌しべが細工され、それを五枚の白金の花弁が取り囲む。その周囲にも、花弁に見立てた五つのガーネットを配置してあった。貴石を留める部分は白金細工の葉だ。
とても可愛い花の指輪。ガーネットは私の誕生石で、大好きな石だった。今日はわざわざ、これを引き取りに出てくれたらしい。お芝居の小道具に、労力と大金を使わせてしまうなんて……。
「ありがとう。素敵だわ」
精一杯の笑顔を作ってカイルを見上げると、カイルも優しく微笑んでくれた。その心遣いがかえって辛い。難しい演技をさせて、本当にごめんなさい。
婚約が解消できるようになるまで、カイルの婚約者を立派に演じきってみせる。カイルの努力に報いるんだ!
それにしても、この指輪のデザイン。赤と白のバラを象った。どこかで見たことがあるような気がする。まるで王家の紋章。
「チューダー・ローズ」
無意識に口からその呼び名が出た途端、カイルがいきなり私を抱きしめた。なぜか、なかなか離してくれない。これも婚約者の義務なんだろうか。女に慣れるための練習とか?
その夜は遅くまでカイルと一緒だったので、いつもより睡眠時間は格段に短くなった。それなのに、翌朝はいつもと同じ時間に、マリエルに叩き起こされた。眠い目をこすりながら、のそのそと寝台から降りた。
「おはよう、マリエル。カイルは?」
「もうとっくに起きておいでですよ?お呼びします?」
昨夜のことを思い出して、私は首をブンブンと振った。あんなに長いこと抱きしめるなんて。たぶん、カイルは酔っていたんだ。
真っ赤になっている私を見て、マリエルはにこにこと笑っている。だから、そういう目で見るのはやめてほしい。
でも、この婚約をみなが祝福しているらしい。偽装なのは申し訳ないけれど、それでもこの状況はありがたい。とりあえず、ここにいる理由ができた。
「さあ!今日は式典ですよ!しっかりお支度しましょう!」
「その前に何か食べたい」
マリエルにぎっちぎちなコルセットを付けられる前に、朝食を食べておきたい。空腹のために倒れるなんてことは、今日は絶対にできない。
舞台の幕が上がったら、私は全身全霊でこの役を演じきる。カイルの婚約者という仮面をつけて!
やっと殿下の役に立つことができる!それが嬉しいのに、なぜか泣きたい気分になった。