56. 君は輝きの中に (アレクの視点)
「明後日の婚約式なんだけど」
呼び出されて部屋に戻った私に、セシルは早速、要件を伝えてきた。つい、ブランデーの瓶に手が伸びる。
「まだ、飲むには早いわ」
もう夕方だが、まだまだ仕事が残っていた。飲むべきじゃないとは分かっている。ただの癖みたいなものだった。
クララが去った日から、どんなに体が疲れていても眠れない。だから、アルコールの力に頼っていた。
「後で、魔法茶を運ばせるわ。すぐに眠れるから」
「そうだな。頼む」
魔法茶には、強い睡眠作用がある。就寝中の防衛力が落ちるのを危惧して、今まで使用していなかった。
だが、強制的にでも寝るべきだろう。集中力が落ちれば、魔法のコントロールに支障をきたす。
「式では、クララの婚約発表もするわ」
やはりそれか。そういう話だとは思っていた。今夜、魔法茶が必要だと言ったのは、私の苦悩を減らそうという配慮だろう。
「わかった」
眉間を指で押さえながら、ソファに腰を下ろした。頭がガンガンと痛む。
「他にも、婚約するカップルがいるのよ。それで、段取りなんだけど」
「ああ、いいよ。君に任せるから。よろしく頼む」
私は適当に手を振って、その話題を終わらせようとした。だが、セシルはかまわず続けた。
「筆頭公爵家のローランドから、婚約報告があるわ。それに祝福を……」
「わかったから。もうこの話はやめてくれ」
セシルはため息をつき、ブレンデーの瓶を手にとった。
「今日は、この一杯で終わりよ」
私はグラスを受け取ると、ぐっとブランデーを煽った。喉を通る強い刺激に、喉が詰まるような感じがした。
「クララは元気よ。ヘザーに様子を見てきてもらったから」
どう答えていいか分からず、私は黙って空になったグラスを見つめていた。
「縁って不思議なものね。貴族は政略結婚が基本。だから、きっと大丈夫よ。」
「そうだな」
政略結婚と言えるのだろうか。ローランドはクララを愛している。ずっと昔から。子供の頃から。
お忍びで遊びに行った公爵家で、初めてクララに会った。今から十年以上前だ。
クララはまるで妖精のように可愛くて、私は一目で恋に落ちた。こんな子を妃にできるなら、王太子になるのも悪くないと思った。
そして、その頃にはもう、ローランドはクララの許婚だったのだ。長い時間をかけて築いてきた関係。それがあの二人の絆だ。
あの夜、ソファーで抱きしめたクララは、たしかに私に好意を寄せていた。そう感じた。
だが、彼女は最後まで、自分の気持ちを口には出さなかった。私を好きだとは言わなかった。
彼女が誰を愛しているのか、私は知らない。私が知っているのは、私が彼女を愛しているということだけ。
「話がそれだけなら、もう戻る」
私はグラスを置いて、ソファーから身を起こした。今は仕事に没頭したかった。
「いいわ。でも、ローランドはちゃんと祝福してあげてね。じゃないと、ヘザーが心配するから」
王女の第一秘書になったヘザーは、クララの親友だ。私のローランドへの態度が、ヘザーから伝わることもある。クララを不安にさせてはいけない。
「言われなくても、分かっているよ。心配しないでくれ。義務は果たす」
私はそう言うと、逃げるように部屋を後にした。ドアを締める直前に、背後にセシルの重い溜息を聞いた気がした。
運がいいのか、悪いのか。執務室に戻る途中の回廊で、ローランドに遭遇してしまった。彼は少し決まり悪そうな顔をして、そっと私に道を開けた。
主の想い人と結婚する。ローランドのような忠臣にとっては、気分がいいものではないだろう。
だが、主従である前に、私たちは友人であり、ただの男だ。一人の女を争って勝ち得たことに、身分の上下は関係ない。
「セシルから聞いた。正式に婚約するそうだな」
「ご報告が遅くなって申し訳ありません。急に決まったことだったので」
クララの安全のために、婚約を急がせたのは我々の事情だ。それなのに謙虚な態度を取る友人に、私は敗北感でいっぱいになった。
「本当に、彼女を幸せにできるのか」
私の口調はきつかった。それでも、ローランドはゆっくりと頷いた。その落ち着きが、揺るぎない自信を感じさせ、私はさらに焦燥感に駆られた。
「僕たちは幼馴染です。長いこと一緒にいて、気心も知れています」
「そうだったな。とにかく、おめでとう。幸せになってくれ」
「ありがたきお言葉」
ローランドは胸に手を当てて、私に臣下の礼を取った。私もそれに、鷹揚に頷いてみせる。
とにかく、この猿芝居を終わらせなくてはいけない。それが今の課題だった。
次の言葉に窮しているところで、思わぬ助け舟がでた。少し離れた場所に、ヘザーが控えている。
彼女はスカートの端をちょっとつまんで、淑女の礼を取った。私もそれに黙礼する。
「申し訳ありません。少し出てきていいでしょうか」
ヘザーの姿を見て、ローランドがそう言った。ヘザーはクララに会ってきたらしい。ローランドも気になるのだろう。それを止める権利など、私にあるわけもない。
「ゆっくりしてこい。彼女のことが気になるだろう」
「お心遣い、感謝いたします」
ローランドはヘザーの元へと、足早に去っていった。
彼らも幼馴染だったと、そのときに気が付いた。領地は隣同士。クララが公爵家へ入れば、いつも、ヘザーがそばにいてくれる。王女の秘書になったくらいだ。ヘザーも当分、他家へ嫁ぐ気はないはずだ。
あの三人が一緒のところは、よく学園で見かけた。楽しそうにじゃれ合う姿が、あまりに自然で眩しかった。
大理石でできたこの回廊は、あの学園の緑とは程遠い。そして、この冷たい王宮が、私の生きていく場所だった。
ここに捕らわれていたクララを、自由な光の中へ返せたことを、今は喜ばなければならない。そう思って、私は再び前へと歩き出した。