53. ヘザーの来訪
ヘザーが訪ねて来たのは、王宮を出てから三日目だった。私はカイルの家に居候中。
「クララ、無事でよかった!心配したのよ。顔色が悪いけど、大丈夫?」
「ちょっと寝不足なだけ。大丈夫よ」
王女様の命令だとは聞いた。そのおかげで、私はなんの関係もないカイルのお家に、お世話になっている。大事なお客様扱いされて、非常に居心地が悪い。
それに、殿下のことを考えると、目が冴えて眠れなくなってしまう。だって、あんなの初めてだった。
失恋したというのに、殿下の愛撫を思い出して、頬が熱くなる。あの先を想像すると、体中が溶けてしまうような気がする。
えっちな惚け顔を晒さないよう、私は表情を引き締めた。ヘザーの目にどう映ったのかは、絶対に知りたくない。
「そう? 元気なのね」
ヘザーはちょっと心配そうな顔をした。でも、すぐに気を取り直したように微笑んだ。
「うん。心配かけちゃって、ごめんね。急なことで、連絡もできなくて」
「無事ならいいのよ」
ヘザーは私を抱きしめた。その温かい体温に癒やされる。人肌が恋しい。殿下に抱きしめられたい。そう思うと、また目が潤んでしまった。恥ずかしい欲望を隠したくて、私はヘザーをぎゅっと抱きしめた。
若いメイドが、お茶とお菓子を持ってきてくれる。私たちは、他人の家で午後のお茶をする。図々しいなあと思う。
あの夜に降った初雪は、もうすっかり解けてしまっていた。外は快晴。でも、冷え込みはさらに深い。熱いお茶を飲むと、ヘザーはふうっと息をついた。
「それにしても驚いた。あんたがカイルの家に匿われているなんて。カイルって家ではどう?学園のときみたいに、ポーカーフェイス?一緒にいることあるの?ギャップ萌えイベントとかあった?」
イベントって何?ヘザー、私のこと心配してたんじゃないの?
「カイルは変わらないよ。無口だけど優しい」
「ふーん。ツンデレか。予想通りね」
冷静に分析するヘザーを見て、学園でもこうだったなあと懐かしく思う。ヘザーの男子評価はすごく適当だ。興味がないから。
「王女様のお使いで来たんでしょう?秘書になったのね。ヘザーにはそっちのほうが合っているわ」
大人っぽく髪を結い上げて、スーツドレスという装い。いかにも職業婦人という感じがした。
「当たり前よ!私はキャリアを目指しているの」
文章を読むのも書くのも好き。そんなヘザーの夢は、新聞記者だ。もちろん、貴族の娘がなれるものではない。そう言えば、政治家になりたいとも言っていた。夢が大きすぎる。
「そうね。侍女に戻った人はいたの?」
私は気になっていたことを、思い切って聞いてみた。侍女は側室候補。いずれ殿下の後宮に上がる。情勢が落ち着けば、子を得るために日々のお勤めに励む。
それは、愛じゃなくて、後継を絶やさないという目的のため。そう思いたい。
「誰も戻らなかったわ。後宮の話はこれで立ち消えよ」
ヘザーの答えに、心底ホッとしている自分に、嫌気がさす。もう私には関係ないことなのに。
国の繁栄のためには、殿下の幸せのためには、その心を癒やす愛妾の存在を望むべき。でも、そんな清らかな心は、私にはとても持てそうにない。
「そうなの……。誰も残らなかったのね」
少しだけ元気が出た。殿下は王女様だけのもの。それならいい。なんとなく、それならいい。
「まあ、表向きはそうなんだけどね。実は殿下から、後宮への出仕は不要と打診があったらしいわ。そりゃあ、そうでしょうよ。私たちなんて当て馬で、あんたを側室に狙ってたんだから!」
私は飲んでいた紅茶を吹き出しそうになり、思わずゴホッゴホッとむせた。
「ちょっと待って。なんでそんなこと」
ヘザーには隠し事はできない。昔からそうだった。私のことは、なんでもお見通しだ。
「ふうん。そんなに焦るってことは、告白されたのね。鈍いあんたでも、はっきり言われたら分かるもの。で、なのにここにいるってことは、殿下は振られたってこと? だからヤケを起こして、側室はいらないなんて言ったのね」
どう答えていいのか。ヘザー、なんでそんなに鋭いの? まさか、覗き見が趣味じゃないよね? パパラッチ?
そう。私は殿下が好き。そして、殿下も私を好いてくれていた。お互いの気持ちを確認できたのが、別れるときだった。こんなことは、誰にも知られちゃダメ。誰にも言う気はない。
ヘザーはしばらく、一人でお菓子を食べて、お茶を飲んでいた。こういうときは何も言わないのが、ヘザーの優しさだ。
「王女様は、なんて?」
ヘザーは、王女様の名代として来ている。そうでなければ、私の居場所は分からない。しばらく身を潜めて、北方の目を自分から反らすこと。それが、今の私の使命だった。
「あんたの婚約を急がせたいって。王女様の婚約式には、公式発表したいらしいわ」
一体、なんの話? 王女様、話が飛びすぎじゃない? そりゃ、殿下と無関係だってはっきりさせるには、誰かと婚約してしまうことが、一番の近道だとは思う。でも、こんな急に言われても。相手の心当たりがない。
「私の婚約?え、何それ。誰と?」
「ローランド」
「はあぁぁあ?」
間の抜けた声が響く。なんでローランド。それだけはないでしょ。まさか、からかってる?
俯きがちに目を伏せたヘザーを、私はマジマジと見つめたのだった。