50. 君だけに愛を (アレクの視点)
目尻に、頬に、顎に。彼女の涙を拭ううち、私たちはどちらからともなく、唇を重ねた。あの学園の丘の上のときのように。
優しくついばむようなキスをするうちに、彼女の唇が薄く開かれた。私は彼女の髪に指を差し入れ、その背中に腕を回して、更に深く口付ける。
クララの両手が、おずおずと私の背中を這う。やがてその体に、火が灯ったような熱を感じた。同時に私の体からも、抑えようのない情熱が迸る。
私たちは、まるで熱病に冒されたかのように、互いの熱い唇を貪った。混じり合う唾液は蜜よりも甘く、危険な媚薬だった。
クララは全身で私を受け入れ、強く求めてくれている。このまま一つに溶け合ってしまいたいと、そう望んでくれている。
このまま彼女と共に生きられるなら、もう何もいらない。国も立場も、何もかも捨てて二人だけで。それができればどれほど幸せか。どこか遠くの、誰も知らない土地で、二人だけで。
私はクララから唇を離し、彼女の顔を見つめた。頬は真っ赤に上気し、瞳はうっとりと夢みるように潤んでいる。長いこと私に吸われた唇はふっくらと熱を帯び、赤く充血しているのがとても艶めかしかった。
古来から、いったいどれだけの男が、こうして女に堕ちていったのか。彼女のこんな顔を、他の誰にも見せたくない。
欲望に突き動かされてて、クララを押し倒そうと肩に手をかけたとき、首筋に残る印が目に入った。それが私に理性を引き戻す。
ダメだ。彼女は手折ってはいけない。この美しい花は、ここで摘み取られたら、やがて枯れてしまう。
私はクララから体を離した。そして目を瞑って、レイのことを考えた。クララを助けたレイは今、セシルのために命を賭して戦っている。たぶん、明日をも知れない。
セシルも、国や民のために私欲を捨てて戦っている。父王も辺境も。みな、愛するもののために戦っているのだ。私だけが逃げることはできない。
逃げたとしても、誰も私を責めないかもしれない。だが、私は自分を責めるだろう。そして、その姿はやがてはクララをも苦しめることになる。
「先輩?」
クララは急に体を離した私を、気遣うように真っ直ぐに見上げた。その澄んだ瞳を直視できなくなり、私はソファーを立ち、クララに背を向けた。
「ごめん。もう発つんだったね。雪が深くなる前に、王宮を出たほうがいい」
「はい」
私がそう言うと、クララは小さく返事をした。彼女のほうを見ることができなかった。クララが泣いているかもしれないと思うだけで、心臓がギリギリと痛む。だが、もし顔を見てしまったら、今、ここでクララを手放すことはできなくなる。
クララがソファーを立って、後宮側のドアのほうへ歩いていく足音が聞こえた。彼女の手がドアノブに振れたとき、私は思わずクララに駆け寄り、後ろから彼女を抱きしめた。
どうしようもない気持ち。口にしなければ、行き場のない思いに潰されて、私はたぶん壊れてしまう。
「振り向かないで。そのままで聞いてくれ。二度と口には出さない。だから、聞いたら忘れてほしい」
「はい」
クララの声は震えていた。僕はその細い首筋に顔をうずめて、小さな声で言った。
「君を愛している。私が愛するのは、生涯君だけだ。何があっても」
そして、私はクララの首に赤く残る印に口付けた。クララは首筋を這う私の唇に、小さく身を震わせた。それでも、深く息を吐いただけで、声は出さなかった。
治癒魔法で痣が消えたことを確認してから、私はクララの肩を掴んで、自分から引き離した。そして、後ろから腕を伸ばして、そっとドアを開けた。
「もう行って」
クララは私の願いどおりにこちらを振り向かずに、そのまま黙って前へ進んだ。通路の少し先に、カイルが控えているのが見えた。
「クララ、元気で」
「はい」
カイルがクララに白い毛皮のコートを着せかけたのを見て、私はドアを閉めた。私の、一生に一度の恋は、そこで終わった。
王族として生まれて、私利私欲を持たないように生きてきた。そんな自分が、初めて欲したたった一人の女性。私は今、その人をこの手で、自分の意志で、手放した。
もう、この世に欲しいものはない。個人の望みも幸せも、すべてクララと共に私の手からこぼれていった。
これからの人生を、私は公人としての王族の義務と責任を果たすためだけに生きていく。
君がいる世界を守るために生きる。それが私の救いとなる。生きる希望になる。
窓の外の雪はさらに深くなり、世界のすべての醜いものが真っ白に塗り替えられていくようだった。それはまるで、美しい世界へ帰っていくクララへの祝福のようだった。
彼女と別れたこと、それが私の愛の証だ。誰にも汚されない、純粋な気持ち。それだけを抱いて、私は修羅の道を行く。それが宿命。
私は窓辺に立って、外の白い世界をずっと眺めていた。