49. 別れの夜 (アレクの視点)
王女の部屋に向かったのは、すでに深夜を過ぎていた。クララが待っているのは分かっていたが、どうしても足が向かない。
少しでも長く、クララを王宮にとどめておきたかった。彼女との決別を、少しでも先延ばしにしたい。
「先にあがるわ。今夜は部屋で待ってる。なるべく早く来てね」
王女はいつもの下手な芝居で、執務室を出るときにそう言った。王女のそんな言葉は、もう誰も気にも止めないほど、聞き慣れている。
だが、私とローランドだけは、その言葉に過剰反応した。今夜はいつもの夜ではないのだから。
執務室を出るとき、ローランドは他の数人とまだ残っていた。休暇を切り上げて戻ったのだから、早く帰ることもできたのに。
たぶん、今夜は徹夜をする気だろう。仕事をしているほうが、気が紛れる。だから、昨夜は私が徹夜をしたのだ。全く同じ理由で。
他の男と一緒にいるクララのことを考えるくらいなら、仕事に忙殺されていたほうがマシだった。
王女の部屋に行くのだから、私は堂々と王宮側の通路を使った。いつもならレイがいるのに、昨日からは近衛兵が交代で詰めていた。
彼らは私と見ると、うやうやしく敬礼をした。私はそれに軽く会釈し、何も言わずに王女の部屋のドアを開けた。
レセプションルームを通り抜けて、王女の主寝室のドアをノックする。どうぞ……と中から、小さな声が聞こえたので、私はゆっくりとドアをあけた。
最初に目に飛び込んできたのは、真っ白いドレスだった。クララは窓辺に佇んでいる。
「先輩、雪が降ってます」
「初雪か」
私はクララの側に立って、窓の外を眺めた。降り始めた雪は音もなく、地表を覆い始めてていた。部屋は暖炉の柔らかい灯で照らされ、クララの白い肌が雪より白く輝いている。
「寒くない?」
「はい」
クララはそう言ったが、手が少し震えているようだった。私はその震えを止めようと、彼女の両手を取って、自分の両手で包みこんだ。
「冷えているじゃないか」
「先輩の手が温かいんです。本当に寒くないので」
思わず笑みがこぼれた。まるで学園いた頃のクララだ。ほんの数ヶ月前のことなのに、まるで遠い昔の記憶のようだ。
「とにかく、暖炉の側へ行こうか」
私は彼女の手を引いて、暖炉の側へと連れていった。グリューワインが温められている。クララが私の部屋に現れた、あの夜と同じ香りが部屋を満たしていた。
「今日は、いや、もう昨日か。ひどい目に遭ったね」
「いえ、大丈夫です。それに、ちょっと怖かったけど、ローランドとレイ様もいたし」
「そうだね、彼らがいてよかった。お手柄だな」
もしもクララが連れ去られていたら、今頃はどうなっていただろう。北方は甘くない。すでに彼女の命はなかったかもしれない。いや、私の命がなかったかもしれないか。
クララが危険な状況で、私が冷静な判断ができるとは思えない。国を捨てて、一人でも北へ乗り込んでいったかもしれない。そして、それこそがやつらの狙いだ。
「ええ。でも、私も偉いんですよ!ちゃんと助けを呼びに走ったんだから。事なきを得たのは、ひとえに私のおかげです」
暗い想像に堕ちた私を気遣うように、クララはわざと意気込んで、明るい声でそう言った。だが、クララの手はまだ少し震えている。
クララを暖炉の前のソファーに座らせると、私はその前に膝をついた。そして改めて彼女の両手を取って、自分の首筋に当てた。
「先輩!それ、首、冷たいですよね?やめてください!先輩が冷えちゃう」
首筋に触れたクララの手がビクッと震え、すぐに私から離れようとした。私はそれを許さないとばかりに、重ねている自分の手に力を込めた。
ひんやりとしたクララの手に、私の熱が移っていくのが、とてもうれしく感じられる。
「僕のことはいいよ。君に温まってほしいんだ」
クララは何も答えなかった。だが、離れようとしていた手の力が抜けおちた。私たちはどちらも俯いたまま、クララの手が温かくなるまでそうしていた。
やがて、私はクララの手を首筋から外して、彼女の膝の上に戻した。そっと見上げると、今度は彼女の小さな肩が震えていた。クララは静かに泣いていたのだ。
「どうして泣くの?可愛い顔が台無しだよ」
あの丘の上でも、クララは泣いていた。私に会えなくなるのが寂しいと。今も、そう思ってくれているのだろうか。私を思って泣いてくれているのだろうか。
クララの側に腰を下ろし、私はその震える肩を抱いた。そのまま引き寄せると、クララは抵抗することなく、私の肩に頭をもたせかけた。
「先輩のせいです。優しすぎるんだもの!」
彼女は無理やり笑って、ちょっと怒ったような顔を作った。そんなクララがあまりに可愛くて、私は衝動を抑えられずに、唇でその涙を拭った。
今、私たちは王太子と侍女じゃない。クララは僕の可愛い後輩で、僕は彼女のアレク先輩だった。今だけ、僕たちはあの頃の二人に戻っていた。