46. 愚かな嫉妬 (アレクの視点)
「アレク、少し休憩して、お茶を飲まない?」
用があるといって政務から抜け出したセシルが、執務室に舞い戻ってきた。冷静を装っているけれど、何かあったらしい。魔力の波動が乱れている。
いや、セシルの魔力じゃない?レイの魔力か。先ほどからの嫌な胸騒ぎは、おそらく的中したのだろう。
「そうだな。ちょうどいいタイミングだ。少し休もうか」
部下たちも私がいなくなれば、少しは気が楽になるだろう。そんなことにも気が回らなかった。いつもなら、こんなことはないのに。
そうだ。いつもとは違う。今日の私は、雑念ばかりだ。素直に認めるなら、クララのことばかりを考えている。彼女のことが気がかりで、それを忘れるために仕事に没頭していた。
「私の部屋よ。急いで」
執務室を出ると、セシルは足早に歩き出した。ひどく緊張した面持ちだ。
「何があったんだ?レイか?」
「クララよ」
何だって?どういうことだ!
「何があった?」
「分からない。レイが王宮に飛ばしてきたの」
「クララを?なぜそんなことに」
「ローランドと一緒にいて、北方の兵に遭遇したらしいわ」
北方?クララに、何があったんだ!まさか命に……。私の顔を見て、セシルがあわてて付け加えた。
「大丈夫。クララは無事よ」
「怪我はないのか?」
「かすり傷よ。でも、怖かったのね。気を失っているみたい」
胸騒ぎの理由はこれだったのか!クララが危険な目に遭っていたのに、私は何もできずに。こんなことがあっていいのか。なんのために、クララを王宮から出したんだ。
ローランドは、いったい何をしていた?あいつが守りきれないような相手。まさか、あの男の仕業なのか?
部屋に駆けつけてみると、ボロボロになったクララが寝かされていた。素足には、石のかけらで切ったような傷。四肢や頬にもかすり傷が無数にあった。
だが、なによりも痛々しかったのは、その耳元にある内出血だった。ボタンが引きちぎられた胸元も。
クララの側に佇むローランドは血だらけだった。私はすぐに、北方がクララを狙ったことを理解した。二人がひどい目に合わされたことは、一目瞭然だった。
「ローランド、大丈夫か?」
「私は無傷です」
「クララは?」
「気を失っているだけ」
よかった。幸い怪我はたいしたことはないようだ。ローランドが言っていることは、本当にだろう。二人の命に別状はない。
それでも、とにかく医者に診せる必要がある。恐怖で倒れたのなら、心のケアも必要だ。聖女なら、そちらの癒しも期待できる。
私は王室付きの医師と大聖女を呼びよせ、さらに固く箝口令を敷いた。何もなかったとはいえ、クララは年頃の女性。北の兵に襲われたなどという噂が流れれば、それが醜聞となってしまう。
クララを診察している間に、私とセシルはローランドから急いで事情を聞くことになった。そして、それはほぼ思った通りの筋書きだった。
「事情は把握した。その軍服の男は、最近入ったという軍師。おそらく、シャザードだな」
「これは偶然じゃないわね。レイはシャザードの侵入に気がついた。だから、魔力の痕跡を追っていたのよ」
シャザードは戦闘魔術師として、その狡猾さと残忍さを広く知られている。北方の軍部は彼を軍師に登用した。それでほぼ間違いないだろう。
「でも、おかしいわ。王宮の事情が筒抜けだなんて……」
シャザードは、クララが私の部屋に来たことを知っていた。情報を漏らすようなものは、関係者にはいない。そうなると、可能性はひとつ。シャザード自身が、この王宮の内部に密偵を放っている。おそらくは使い魔だ。
「セシル、至急、魔術師たちを集めて、結界を検分してくれないか」
私の指示に従って、セシルは部屋を出て行った。
クララは医師の診察が済み、聖女によって怪我の手当がされていた。白い部屋着に着替えさせられて眠っている。クララの顔色は悪く、白い服よりも更に白かった。
診断書には、首元の痣は怪我ではないことが。大聖女の報告書には、彼女に敵が触れた痕跡がないことが、それぞれ記してあった。
だが、着衣には胸元に乱れがあり、靴を履いていなかったことが追記してある。
私は診断書をローランドに手渡して、ベッドのそばの椅子に腰掛けた。クララに付き添っていた看護師と侍女長はお辞儀をして退出していった。
「ローランド、この痣は、お前がつけたものか」
「はい」
これはキスマーク。まるで噛んだかのように、鮮やかな朱色。かずかにローランドの魔力の気配がを感じられる。最後にクララに会ったときには、こんな痣はなかった。この数日で、ローランドとクララの仲はそこまで進んだということなのか?
ベッドサイド・テーブルに置かれた衣服。薄いピンクのドレス。胸元のボタンは飛んで、少し布がちぎれている。ところどころ破れていて、裾のあたりは芝生の緑で汚れている。
敵兵に触れられていないなら、これはローランドの所業か。それとも、クララが自分で?
「服を、引きちぎったのもか」
「はい」
私はなんとか平静を保つように努力した。だが、一昨日の夜の記憶がフラッシュバックして、決定的な事実を問う声が震えた。
「同意のもとでの行動か」
そうだとしたら、クララはローランドを選んだということだ。それを責めたり悔やんだりする資格は、私にはない。私が望んだ結末なのだから。しかし、ローランドの答えは、予想を反するものだった。
「違います」
この男が憎いと、殺してやりたいと思った。よくもこんなことを。気がつくと、私はローランドの襟首を掴んでいた。
「無理強いしたのか!」
怒りに我を忘れて、私はローランドを床へ突き倒した。そのまま剣を抜こうとしたが、寸でのところで理性がそれを止めた。
私のクララを……! 彼女は私のものじゃないのに、そう思う気持ちを、私は抑えることができなかった。