42. 聖女と信奉者 (アレクの視点)
後宮側の通路は、闇に包まれていた。今夜は新月。クララは誰にも見られず、無事に王宮を抜け出せただろう。カイルがついているから、心配することはない。
突然、寝室に現れたクララは、まるで聖女のように清らかで美しかった。その愛らしさに、柔らかさに、思わず目がくらむくらいに。
抱き上げたときの軽やかな体。揺らめいて光る髪。ほのかに香る香油の甘さ。どれもが悪魔のように魅惑的だった。
熱で潤んだ紫の瞳。首に回された、折れそうにか細い腕。抱き寄せた私の体にふれる胸。全てが狂おしいほど愛おしく、私の理性は吹き飛んだ。
彼女のすべてを、奪ってしまおうと思った。
クララの唇に触れようとしたとき、その胸元にキラリと光るものが目についた。彼女にプレゼントした、あのペンダントだった。
その途端に、学園の丘の眩しい光を思い出した。その中で、クララは幸せそうに笑っている。
生涯で、私が唯一愛した女性。彼女は、こんな暗い王宮の、こんな醜い場所にいる人間じゃない。
陽のあたる場所で、誰からも踏みつけられることなく、美しく咲く花。ここで私が手折ったら、きっとすぐに枯れてしまう。
ほんの少しの間だけ。私は彼女を抱きしめることを、自分に許した。キスをすることはできなかった。それをしてしまえば、そのまま最後まで止められない。そう確信していたから。
しばらくして、私は立ちあがり、クララに背中を向けた。あれ以上近くにいたら、自分を抑える自信がなかった。
「帰ってくれないか」
私は息を整えながら、なるべく冷たく聞こえるように言った。
「殿下。あの……」
クララの声は震えていた。その場で抱きしめて、攫ってしまいたい衝動に駆られる。その欲望を抑えるためにグッと唇を噛むと、血の味がした。おかげで、少しだけ冷静になれた。
「いいから出て行ってくれ!」
クララもベッドから立ち上がり、私の背中に手を添えて頬を寄せた。
「私は、先輩を……」
胸にこみ上げる劣情の炎に突き動かされ、クララを壁に押し付けた。だが、その体には触れず、壁に両手を着くのに留めた。
クララから目を逸らしたまま、なんとか声を絞り出す。
「頼むから帰ってくれ。君を傷つけたくない」
そして、私はクララを残して部屋を出た。セシルのところへ向かうために。
今夜のことは、たぶん誰にも知られることはない。だが、誰が知らなくとも、私は忘れることができない。
愛する人から求められた、生涯でたった一度だけの記憶として。王族ではなく、男としてただ一人の女性を欲した。そして、王族として生きる覚悟をして、私がその思いを捨てた夜を。
後宮の通路は闇に冷えきっている。それでも、どこかからクララの甘い残り香が漂ってくるような気がした。
それが錯覚だと分かっていても、私はその香りに慰められていた。
その夜、私は眠ることができなかった。
翌日、カイルが円卓の騎士職に復帰した。執務室に行くと、彼はすでに出仕していた。
カイルはクララの護衛。あの後のクララの様子を尋ねたい。とはいえ、ローランドやセシルの前では憚られる。
カイルも特に話す気はないようだ。私と入れ替わりで、執務室を出て行った。
セシルがローランドと応接室に入ったので、私はカイルの後を追って廊下へ出た。しかし、廊下で私の目に入ったのは、カイルではなくレイだった。
セシルが執務室にいるときに、レイがここに来たことはない。王女付きの従者であっても、レイは私の臣下ではない。高位の魔術師に、国家機密を知られることはご法度だった。
「レイ、何かあったのか?」
「はい。殿下にお願いがございます」
旅支度をしている? なぜだ。これからもセシルの護衛をしてくれるよう、昨夜は念を押したのに。
情勢が安定すれば、セシルとの婚約は解消する。レイがここ去るときは、セシルと一緒だと思っていた。
「とにかく中へ。すぐにセシルも呼ぼう」
「いえ。私は他国の者。執務室には入れません。礼拝堂でお待ちします」
「分かった」
レイはそのまま、回廊のほうへと歩いていった。私はすぐに、応接室のセシルの元へ向かう。
「レイが待っている。礼拝堂に来てくれ」
ドアを開けてそう言うと、セシルは少し表情を曇らせた。すぐに立ち上がった。
「今、行きます。ローランド、じゃあ、もうこのまま、帰って。休暇をあげるから、クララと気分転換をしたらいいわ」
まともに、ローランドを見ることができない。私には合わせる顔がない。
昨夜、私は彼の許婚を、クララを抱こうとした。まるで泥棒猫のように。忠実な臣下の、妻となるべき女性を。
未遂に終わったとはいえ、私には確かに薄汚い欲望があったのだ。
私が離した彼女の手を取るのは、ローランド以外にはいない。彼が適任だ。クララと共に休暇を過ごす。ローランドは、それが許される立場だ。関係を進めることも。
それなのに、嫉妬心から、私はローランドに釘を刺した。
「休暇中も我が側近として、節度を持った行動をしてくれ」
「御意」
ローランドは、休暇に浮かれていたのか、私の嫌味に気が付かない。それを聞いてくすりと笑ったのは、セシルだけだった。