39. 儚い望み
侍女になって十日目の夜。明日から休暇を控えた私は、なぜかいつもより早い時間に呼ばれた。
「クララ、明日の準備は終わった?」
王女様は、洗いざらしの髪にくつろいだ部屋着で、真っ赤なワインを飲んでいた。
少し呂律があやしいところを見ると、随分と酔っている。お化粧もしていない。
「はい。大した準備はありませんので」
里帰りと言っても、男爵家の領地は遠いので、王都のタウンハウスに帰るだけ。手ぶらでも問題ない。
「よかったわ。じゃあ、今夜はお願いを聞いて!」
「なんでもお申し付けください」
侍女は、主人の願いを断ったりしない。基本中の基本。
「今夜は、アレクのお世話をしてほしいの」
「殿下の……ですか?」
執務室の業務?何の知識もないのに、政務のお手伝いなんてできるの?
「経験がなくても、大丈夫でしょうか」
私がそう聞くと、王女様はなぜか顔を赤くした。そして、急に満面の笑みをうかべた。
「もちろんよ。すべてアレクに任せればいいの。ありがとう。アレクも喜ぶわ」
そうかな。お仕事の邪魔にならなければいいけど。
「私でよければ、喜んで」
王女様はとても嬉しそうに、呼び鈴を鳴らして侍女長様を呼んだ。
「支度は侍女長が。大丈夫よ、この人はプロだから」
「そんな。このままで大丈夫です」
上司に支度をしてもらう部下がどこにいる?いくらなんでも固辞しなくては!
それなのに、王女様はじっと私を見つめて、ため息をついた。
「そういうのがいいの?確かにガードが堅いほうが燃えるけど。それ、ボタンが多すぎて、脱ぎにくいでしょ?」
どういうこと? 作業着に着替える必要があるなんて、一体何を燃やすのかしら。
「燃えるものなんですか」
「そうよ」
粗大ゴミかな。書類を燃やす手伝いなのかもしれない。
「大仕事みたいですね」
「もちろん。大事なお勤めよ」
極秘情報の処理?このご時世だし、書類の内容が分からない人間のほうが、逆に頼みやすいってことなんだ!
「一応、体力には自信がありますけど」
「よかったわ!一晩中になるかもしれないの」
そんなに!それじゃ、いくら人手があっても足りないはず。私でも役に立つかもしれない。
「汚れてしまうんですね」
「そうね。破れてしまうかも」
なるほど。インクで汚れるし、スカートでは作業できない。そう言えば、ずっと前に廃材で怪我をしたことを思い出した。ゴミ置き場は危険がいっぱいだ。
「でしたら、庭師の服を借りてきます。あれなら動きやすいし」
私がそう言うと、王女様は大爆笑した。
「いやだわ、何を言っているのよ。今夜は私の代わりに夜伽にいくのよ」
「は?」
一瞬、思考が止まった。なにか、王女様がとんでもないことを言ったから。夜伽ってなんだっけ?
え、うそ! それは無理!無理無理無理!ないないないない!それはない!
「王女様、ご冗談ですよね?」
王女様は思い詰めたような真剣な顔で、私のほうをじっと見つめている。
「アレクは疲れているの。癒やしてあげて。それとも、相手がアレクでは不満かしら?」
「いえ!そうじゃありません。でも、いくらなんでも無理です。殿下が嫌がられます!」
「まさか」
王女様はにこにこ笑うだけ。その後を引き受けて、侍女長様が静かに言った。
「殿下には、王女様の代わりに侍女が来ること、すでにお伝えしています」
淡々とした言葉。侍女長様も、承知の上の話なの?
「いえいえいえいえ!ダメです。できません!」
半泣きの私を横目に、王女様はため息をついた。
「どうしてもダメなの? そうね、あなたにはローランドがいるものね」
ローランドは別に関係ない。でも、理由はなんでもいい。それで納得してもらえるなら、この際ありがたく利用させてもらう。
ホッと胸をなでおろしたのも、ほんの束の間だった。その後の王女様の言葉に、私は更に追い詰められた。
「代わりに、ヘザーにお願いしましょう。婚約者もいないし、兄上殿もお咎めにはならないでしょう」
「ちょっと待ってください!ヘザーには好きな人が!」
「あれは、誤解でしょう?」
「それは……。でも、ヘザーがかわいそうです!いきなりこんな」
「彼女だって、いつかは政略結婚をするわ。親友の身代わりなら、きっと聞き分けてくれるわよ」
王女様の言葉に、私は真っ青になった。王女様は本気だ。私かヘザーのどちらかを、必ず殿下の元に行かせる積もりなんだ。私が断ればヘザーが行くことになる。
『私には、他に愛する人がいるの』
王女様の言葉が、頭の中で響く。殿下は王女様に愛されてはいない。得られない女性の代わりに、別の誰かを求めても不思議じゃない。
殿下はそれを望んでも、許される身分だから。
王女様以外の人が、殿下に愛される。そんなのは嫌。ヘザーだって、誰だって!
「さ、クララはもう戻っていいわ。ヘザーを呼びましょう」
私の決意は固まった。ヘザーを巻き込みたくない。ここで止めないと、取り返しがつかないことになる。
それに、ヘザーが殿下に愛されるなんて、考えるだけで胸が苦しい。
この気持ちは、ヘザーのためだけじゃない。私の嫉妬。
「私が行きます」
気がついたときには、もうそう言ってしまっていた。
「クララ、こちらのドアから後宮へ。支度はそちらでいたします」
侍女長様が、私の手を取る。王女様は私の肩をポンと叩いて、奥の部屋に引っ込んでしまった。
もう後戻りはできない。覚悟を決めるしかない。
後宮には、かつて王族の愛妾が囲われていたという。私はそこで全身を磨きあげられ、真っ白な夜着を着せられた。
鏡の中の私は、まるでウェディングドレスを来た花嫁のように、頬が上気して見えた。
一晩だけでもいい。殿下に、アレク先輩に、愛されたい。
もう自分の気持ちをごまかせなかった。私はすでに引き返せないくらい、殿下を愛してしまっていたのだった。