29. 緊急速報 (アレクの視点)
私はアレクシス・アウグスト・ヴァン・リューネンベルク。第一王子として、この国に生を受けた。今まで、王族の役目を忘れたことはない。
だが、今だけは、それを忘れることにした。今だけは、クララの先輩。ただのアレクでいたい。
可愛い後輩。初恋の相手。舞い降りた天使。彼女と一緒にいられるのは、これが最後だから。
目の端に、王宮からの使者の姿が映る。たぶん、すぐに戻らなくてはならない。そう分かってはいたけれど、もう一曲だけクララと踊りたい。
結局それは、ローランドに阻まれた。そうして、私はパーティー会場を去る。出口あたりで、カインからさりげなくメモを渡された。
思ったとおり。緊急事態。
「宰相からの連絡だ。執務室へ戻るぞ」
側近たちはすぐに私に従った。その中にローランドの姿はない。
あの二人は、一緒にいる。そう思うだけで、胸に黒い感情が広がる。これは嫉妬だと、もうずっと前から気がついていた。
「ローランドが残っています」
「呼んでくれ。宰相からの連絡だ」
「御意」
カインは騎士特有の仕草で、胸に手をあて軽く頭を下げる。たぶん、私の気持ちに気がついて、クララの様子を見に行ってくれたのだ。
王宮の執務室に戻ると、緊急書簡が届いていた。指で封蝋をやぶる。流麗な筆は、隣国の王女の来訪が明朝になると記されていた。
隣国の第十七王女、セシル。
友好国の王族で、幼いころから親交がある。年齡は同じだが、妹のような存在だ。
お忍びではなく公式訪問。こんな急に。つまり、その日が来たということだ。
「明朝、隣国の王女が到着する。今夜のうちに、準備を整えてくれ」
部下たちは急ぎ足で業務に戻っていく。王女を迎えるには、それなりの用意が必要だった。
そのとき、ローランドが戻ってきた。ずいぶんと、顔色が青ざめている。
彼がクララに危害を加えるはずはないのに、側にいられなかった自分の立場が苛立たしい。
「宰相からだ。お前も支度を」
「はい」
ローランドは書簡を受け取ると、ちらっと目を走らせた。
すれ違ったとき、クララの香りがした気がした。私はそれに気づかないふりをする。
横恋慕をしているのは私だ。ローランドは、忠実な臣下でいい友達。クララの幼馴染で許婚。私が知らないクララを、彼はよく知っている。
そう思うと、黒い感情が心に満ちてくる。こんな気持ちは、持ってはいけないのに。クララのことになると、うまく心を制御できない
自室に戻ってしばらくすると、ドアがノックされた。
「入れ」
ローランドだった。仕事の話じゃないだろう。見当はつく。
「何かあったのか?」
「クララをからかわないでください。あいつはまだ子供だ」
直球で来たか。こいつは真っ直ぐな男だ。疑心暗鬼になる前に、不安材料は払拭しておきたいのだろう。
「どういう意味だ」
「こういう意味です」
ローランドは、持っていた書簡をかかげた。
「隣国の王女は、婚約同盟のために来る。クララに馬鹿な夢を抱かせないでほしい」
「彼女の夢? お前には関係ないだろう」
本音がこぼれた。彼女は自由だ。その心も体も。私とは違って。
「クララの夢が『王子様と結婚して末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし』だったら? そんなものは幻だ」
ローランドの目には、明らかに怒りが宿っている。私が何も言えないのを知っていて、反応を試しているのか。
「たとえ殿下であっても、あいつを傷つけるようなことは許さない。側近を辞すことになっても、あいつは絶対に渡さない」
そのとき、カイルが割って入った。
「ローランド、言い過ぎだぞ」
カイルはローランドの腕を掴んで、少し後ろに引かせた。
「殿下、申し訳ありません。こいつは殿下と美しい許婚のダンスを見て、少し妬いているんです」
ローランドは、噛み付くようにカイルを睨み、その手を腕からはらった。それでも、その場にひざまずいて頭を垂れる。
「申し訳ありません。臣下として、あるまじき振る舞い。いかようにもご処分を」
憤りのオーラは消えていない。それなのに、臣下の礼を守り、私に謝罪をする。それは私が王族だから。
偶然、高貴な身分に生まれただけなのに。たとえ私が間違っていても、臣下は私に服従するしかない。それを良しとすれば、王政はいずれ崩壊する。私は間違ってはいけない。
「私こそ、すまなかった。クララが妹のように可愛くて、つい気安い振る舞いをしてしまったんだ。この件は、不問に処す」
「寛大なご沙汰、感謝いたします」
ローランドはすっと立ち上がって、まっすぐに私を見た。そうして、口を開く。
「俺はクララを愛している。あいつの笑顔を守るためなら、なんだってするつもりです」
ローランドの瞳は情熱に溢れ、希望に満ちて輝いている。私はその眩しさに、思わず目をそらした。
こんなにはっきりと、愛を宣言できる。ローランドが羨ましかった。
「もういいだろう。業務に戻ってくれ」
「承知しました」
ローランドはそのまま退室し、私とカイルだけが残された。
行き場のない苛立ちを抑えようと、私はガッと壁に拳を打ち付けた。小指の付け根あたりから血が滴ったが、カイルは何も言わなかった。
「あいつはいい男だな」
私は自嘲を込めて、できるだけ静かに言った。
「この国に、殿下以上のいい男はいないと思いますが……」
カイルが世辞を言うなど。珍しいこともある。私を気遣っているのかもしれない。
「私が高いのは身分だけ。それ以外はなにも持っていない。意思も未来も希望も。王族のしがらみでがんじがらめだ。当たり前の個人として生きる自由もない」
「それでも……」
カイルはそう言うと、小さく言い添えた。
「心は自由です。誰にも縛ることはできない。自分自身でも」
カイルも苦しい恋をしているのかもしれない。普段はあまり感情を見せない騎士の寂しげな瞳が、私の苦悩を映した鏡のように見えた。