そうか、猫か……
よく晴れた日の昼下がりだった。まさか今日雨が降るだなんてふつうは思わないだろう。
ルカは携帯式の傘を手に、ハニエル家の家紋のついた馬車に乗り込んだ。
賊の襲撃はもうないとはわかっているが、念のため護衛の数を増やし、万全の体制だ。
もともと街にちょっとした買い物に行く予定だったのだが、メアリに出会うと分かっていたので身だしなみにも力を入れた。
似合うと褒められた若草色をベースに、十歳に似合うような服装のなかでも小綺麗に上品にまとめ、ピンクの差し色で可愛らしさも演出する。
白いシャツに濃いピンクのリボンタイ、若草色の上下のセットは街歩きに浮かないラフなデザインだ。
メアリの好きな可愛らしい装いで全力で媚びにいく。前回は白シャツと灰色のズボンという味気ない装いだった。そのせいもあってメアリの印象には灰色に映ったことだろう。
揺れる馬車の中で、メアリに何て声を掛けるべきかシミュレーションを繰り返した。なんせ初対面なのだ。
(やあ、舞い降りた春の妖精……は言い過ぎだろうか)
ルカの心は浮かれ切っていた。
記憶を辿りにオードレット大通りの四丁目、道を一本路地に抜けた住宅街のはずれに足を運ぶ。以前メアリに出会った場所だ。
結局、賊は襲撃してこなかったので、馬車は大通りの近くに止めて待たせている。叔父を先に片づけておいて本当に良かった。
ぽつぽつと降り始めの小雨に空色の傘を差し(この色はメアリの瞳の色だ)、胸ポケットに先ほど花屋で購入した一輪の薔薇を差して待っている。この薔薇をすっとメアリに差し出そう。
一輪の薔薇の花言葉は『一目惚れ』だ。
だんだん強くなる雨足に足元の土がぬかるむ。
革靴の先が雨を吸って色がかわってきたころには彼の心の中に、メアリはまた現れないのではないかという恐れが広がった。そもそもこんな路地裏にメアリは何しにきたというのだ。
前回の自分は、あまりの都合のよい登場に、メアリが自作自演で自分を助けにきたのではないかと疑った。メアリの家は子爵家だ。伯爵家の自分の馬車を襲わせ、助けた見返りで自分に取り入ろうとしたのではないかと。
……そんなことなかったというのは、さんざん調べ上げた自分が一番よくわかっている。
メアリは本当にたまたま、ここを通りがかっただけなのだ。
そう、たまたま……通りかからないこともあるだろう。
彼の目からハイライトが消えかかったその時、可愛らしい鳴き声がして、黒い影が足元に飛び込んできた。
ルカが足元に目を向けるとずぶ濡れの黒い子猫が、ルカの差した傘の中で雨宿りをしている。
黒猫は赤いリボンを首に巻いており近所の誰かの飼い猫であることを知らせていた。
(猫……)
ルカが感情の籠らない目で見降ろしていると、水たまりをはじく小さな足音が聞こえ、胸がどくんと高鳴った。
期待をこめて目を向けるとこちらに向かって小さなメアリが駆けてくるではないか。
小さなオレンジの傘を差し、白いリボンを髪に結わえたメアリは青地のワンピースが濡れることも厭わず猫を追いかけて駆けてくる。
(そうか、猫か……)
自分を追いかけてきたなんておこがましい。
メアリは猫を追いかけていたのだ。
あのときも、きっと。
それをルカが勘違いしてつらく当たっただけのこと。
メアリはルカに気付くと五メートルほど手前で足を止めた。
子猫がルカの足元で雨宿りをしているのを見て、遠慮しているのだろう。
「こっちにおいでよ。猫、好きなの?」
ルカが人好きのする笑顔を浮かべて精一杯猫をかぶると、メアリはおずおずと近づいてきてルカの足元の猫をよく見ようとしゃがみこむ。
後ろの方で彼女の侍女が、メアリがしゃがみこみワンピースの裾に泥が付いたのを見て小さく悲鳴を上げて駆け寄ってくる。
ルカは溢れそうな笑みを抑え、得意の穏やかなほほえみを浮かべていた。
そう、さっきまでまるで冷たい目で猫を見おろしていたなんて全く悟らせない慈愛の籠った天使のような蕩ける微笑みだ。
「猫かわいいよね、僕も好きなんだ」
(好きなのは「君のことが」だけどね)
猫が好きだと言うルカの言葉にメアリは顔を上げる。ルカのことなんて全く知らないのだろう純粋な瞳はきらきらと輝き、そのまぶしさにルカの心は浄化されそうなくらいだった。
「私も好き!」
ルカはこの言葉を耳に刻んだ。うん、寝る前に毎晩再生しよう。
「ふふ……僕たち気が合うね。そうだ、薔薇は好きかな」
前の人生で園芸部だったメアリが花を好きなのはルカには分かりきっていた。
胸ポケットに準備していた薔薇を引き抜くと、メアリの手に優しく握らせる。
(君は花言葉に詳しいだろう?こういうロマンティックな演出嫌いじゃなかったよね)
案の定、メアリは顔を赤くして受け取ってくれた。
侍女はルカが伯爵家の子息だなんて想像もしないのだろう。令嬢が見知らぬ少年にたぶらかされたら旦那様に叱られるとばかりにメアリの手を引いてもとの大通りに引きかえそうと躍起になっている。
騒がしい様子に足元の黒猫はたたっと逃げて行った。
「またね」
侍女にせかされて、大通りに帰るメアリが名残惜しそうに振り返ったタイミングで小さく手を振る。サービスであざとく小首もかしげておいた。
メアリの姿が見えなくなったところですっと瞳の光を消す。
耳元に取り付けておいた盗聴器を取り出すと、メアリのセリフを再生した。
(今日一番の戦利品だよ)
ふわりとほほ笑んだ口元は弧を描き、彼の心の狂気は静かに身を潜めていた。