ノアとルナ 8
刻印が削れるのと同時に、魂が削れた。
全身をズタズタに引き裂く痛みに絶叫しそうになった。血液がぐつぐつと沸騰している。耳鳴りがひどく、何も聞こえなくなる。汗が止まらない。これは本当に汗なのか? 血液が毛穴という毛穴からから吹き出しているのではないか? 涙も止まらない。とめどなく流れ続けている。
まだほんの少し削っただけだ。それだけで
灼熱地獄で焼かれ続けているような痛みが全身を苛む。一度に多く削り過ぎてはいけない。ほんの少し削るのが私の限界だ。力加減を間違えて削り過ぎれば、ショック死は免れない。
少しずつ削るしかない。このペースでは刻印全てを削るのに、一体どれ程の時間が必要なのか見当もつかない。
自我を保ち続けられる自信がない。削る度に私が消えていくような錯覚すら引き起こす。
……それでも、やるんだ。やるって決めたんだ。この困難を絶対に乗り越えてみせる。
刻印を。
削って。
削って削って。
削って削って削って削って削って削って削って削って削って削って削って削って削って削って削って削って。
痛みで頭がおかしくなり、発狂しそうだ。
「……さん」
理性を働かせろ。これでルナ様を救えるなら、私の苦しみなど安いものだ。
視界が狭まる。削っている手元しか見えない。思考能力が低下する。
削る。
削る。
削る。
……かなり、削った。もうほとんどの刻印を削ったのではないだろうか? 体感では一日中削り続けていた。あれ、焦点が合わない。いつから視界がぼやけていた?
「ノア……さん!」
ルナ様の声で意識を取り戻す。刻印はあとどれくらい残っているか確認して、愕然とした。愕然としてしまった。現実は、指の爪くらいの長さしか削れていない。
「大丈夫……?」
「……ルナ様、どれくらい、時間が経ちましたか……?」
「……え?」
ベッドで横になっているルナ様は困惑したように私を見た。
「えっと……そ、その……まだ、はじめた、ばかり、だよ?」
体感時間が長く、……とてつもなく長く、引き延ばされていた。
折れそうになる心に檄を飛ばす。
体感時間がどうした。乗り越えればいい。
今は……太陽が頂点を少し越えたぐらいだったか?
現実の時間で、一夜が明ける前に終わらすことができればいい。
「ルナ様、夜のお食事を用意することが、できなさそうです。申し訳ございません……」
「そんなこと、いいから!」
「ありがとうございます。手を、失礼します」
「ノアさん……ごめんね……」
ルナ様に、花畑をみせるために、私は。
私は、痛みに耐えられなかったのだろうか。
狂気に呑み込まれてしまったのだろうか。
世界は真っ赤に染められている。
甲高い誰かの叫び声が四方八方から聞こえる。
私は血塗られた両手で刻印を削っている。その動きはひどく緩慢なのに、分身のような残像がいくつも形作っている。実像を結んでいるのは一組だけで、作業速度も効率も上がらない。作業? その言葉に強い違和感を持つけど、すぐにどうでも良くなった。
恰幅の良いピエロがボールの上で踊っている。赤ワインをジャグリングして、絶えず私に投げてくる。ずっと。何度も。延々と。どこからそんなにもワインを出してるんだろ。私はワインのめないのに。あ、だから世界が赤いんだ。納得。
大量の黒いカラスと白いハトが厳かな讃美歌を合唱している。黒白、黒白となるように整然と隊列を組んでいる。何を讃えているのだろう?
部屋の床から人骨がいくつも這い出てきた。ケタケタ笑いながら近づいて、私を囲む。人骨なのに、やたらカラフルだ。今削ってるんだから……あれ、何を削っているんだっけ? でも削る。理由はなくとも、削る。私の服を掴み、下に引っ張る。引っ張る。私も埋まった方がいいってこと?
喉がとても痛い。カラカラだ。風邪かな?
喉渇いたなぁ。水ない? 聖水がある? なんでだろ、これは飲んじゃダメな気がする。なんでだっけ?
野菜たちが私の周りを囲んで踊っている。みんなみんな手足が生えていて、可愛いらしい口や目もある。マスコットみたいだ。調子外れな呑気な歌も歌っている。わたしたち、みんな、えいようさ~。
「ノアさん!!」
誰かの声で現実を取り戻す。自分の荒い息がひどくうるさかった。汗はびっしょりで、私はルナ様の対面で太ももにある刻印を削っていた。
ルナ様はベッドに座っていた。いつの間に体勢が変わっていたのだろう。上半身は傷一つない、綺麗な素肌を取り戻していた。この部屋には、私とルナ様以外には誰も、何もいない。どうして私は急に誰もいないことを確認した?
下半身はまだ刻印に侵食されたままだ。これを削る。あと、半分……。
もう長い間……私が生を受けてから過ごした日々を越えるくらいに、刻印を削っていた気がする。
ルナ様は涙を浮かべて私に声をかけ続けてくれている。きっと、ルナ様の声がなければ、私はとうに廃人と化している。
相変わらず身を裂くような痛みが全身を苛み、狂気に溺れたくなる。狂気は心地よいのだ。痛みを忘れることができるのだ。正気を保っていてはとてもではないが耐えられない。ルナ様、ごめんなさい、私は、狂気に浸りたいのです。
削る手は止めない。ガリガリ。ガリガリ。
あぁ、狂気は楽しい。
……視界が赤い……ルナ様の髪が紅い……師匠の髪色とおんなじ……でもどうして歪んでいるのだろうか。世界がぐんにゃり。私もぐんにゃり。床もぐんにゃり。
一人しか乗れないような小さな方舟を、小人の鬼達が建造している。誰を乗せるの? 私の魂? その先には何があるの?
黒い馬が嘶いている。でも、後ろの片足は筋骨隆々の人間の脚をしている。たてがみは全て逆立ち、剣山のように尖っている。尻尾は龍の顔をしていた。火を吹いている。キメラだ。
リズムの狂ったワルツが流れている。今夜の主役は誰だろう? え? 私と私? 目の前に二人の私がいる。鏡で毎日見てる私がいる。じゃあ、私は誰?
誰かのかすれた声で、私は、私を取り戻す。
残っている刻印は、左脚だけ。
あと少し。あと少し……。
呪いは全て削らないと、きっと、意味がない。また、刻印が拡がってしまう気がする。悪いものは根絶しないと。
これ以上……狂気に頼っては……取り返しがつかなくなりそうだ。
残りは、痛みを理性で堪える。
左脚の刻印を、削る。
「ノアさん……ごめんね、ごめんね……何もできなくて、ごめんね……」
「ルナ、様。大丈夫、ですよ」
「!! ノア、さん……! 正気に……!」
「お見苦しいものをみせていたら、申し訳ございません。後……少しの間……」
ルナ様に話しかけると、少しだけ、楽になっている気がする。
「一方的になりますが、お喋りして、いいですか?」
「うん! うん! もちろんだよ!」
頭がうまく働かない。
だけど、私の根幹にある、私を動かす源、私の気持ち……。
それだけは、伝えたい。
「八年前の……王国祭。その時、ルナ様を初めてみて」
「その時、私は……初めて、恋をしたんです」
「ルナ様が、ずっと……好きで……」
意識は途切れ途切れで、連続していない。
コマ落ちしているように、瞬きの間に削っている部分が変わる。
「ルナ様」
「初恋は、すごいです」
「初恋は、どんな困難も、壁も、苦しみも」
「……乗り越えさせてくれます」
「尊いものです」
「だから」
ルナ様。
「初恋は……大切に、してくださいね」
「私……陰ながら……応援、します、から……」
刻印を削り切ったのに安堵して、意識を手放した。