ノアとルナ 7
ルナ様は、必ず救う。
そのために必要となるものは、呪いに関する確実な知識だ。過去の記憶から、必要となる情報を抽出する。
雨粒一滴の形、人々の足音の違いも見逃さないように、この瞳で見てきた、この耳で聞いてきた情報を全て展開する。沈む。深い記憶の海に沈みゆく。
走馬灯のような記憶の奔流。景色、言葉、匂い、味、痛み、感情、それぞれの欠片がメリーゴーランドのようにくるくると私を中心に高速で回り続ける。
情報を確認して、手放して、確認して、手放して。繰り返す。ひたすら繰り返す。頭がチリチリと痛む。熱にうかされたようにぼうっとする。
脳が焼き切れる前に、必ず、見つけ出す。
これは、いつの頃の記憶だったか。
十歳の時だ。深夜、街が静まり返っている。その日は寒く、息が白い。埃っぽい匂いで息苦しい建物だった。悪の魔術師結社を名乗る集団のアジトを襲撃した。敵性魔術師の一人が呪術師だったから、興味本意で、何気なく、日常会話のように呪いについて師匠に質問した。
師匠、呪いは伝聞で聞いたことがあるんですけど、これって解除? できるんですか?
フンッ! 呪いが身体に馴染んじまったら基本的には助からないよ! そうなる前に解呪するなり、呪術師を殺すなりするんだよ!
そうなんですか。それだと、呪いって……強すぎませんか? だって、馴染んでしまえば助からないんですもんね?
そんな都合良くいくもんかい! そも、呪いってのは不完全な術体系で、不確実な実効性で、使われることが極端に少ない。いいかい? 人間ってのはねぇ、生きているだけで、元気なだけで、簡単に呪いを跳ね返すんだよ。使うだけ無意味さね。
それじゃ、どうやって成就するんですか?
質問ばかりだねこの馬鹿弟子がッ! いいかい? ノア。病は気から、って言葉は知ってるね? 人間は落ち込んだり、陰気になっていると、普段かからないような病にもかかるし、些細な病気も重病になったりするんだよ。
はい。
で、だ。呪いは、病気の一種なんだよ、分類的にはね。アタシは正直納得していないが……まぁ、そうなってるんだよ。それで、だ。呪い殺したい相手を精神的に追い詰めれば良い。これで、呪いの成就の確率が格段に跳ね上がる。呪いってのは儀式も含めて、手間がかかるんだよ。失敗すれば呪いを行使した者が呪われる。人を呪わば、穴二つだね。因果応報だよ。わかったろ? デメリットの方が多すぎるから使う奴はよっぽど、そいつを苦しめて、苦しめて、殺したいんだろうねぇ。たく、無駄話が過ぎたね! さっさと全員縄で縛れ! 馬鹿弟子がッ!
ここじゃない。もう少し、先に……。
何度も何度も質問してごめんなさい。師匠、もしも、もしも……呪いが定着してしまったら、もう、どうしようもないんですか?
だから馴染んだらどうしようもないって言ったろ! ふん……。だが……元々数少ない例の中に、たしか、一つだけ……眉唾ではあるが、あったな。
それは?
クククククク。とっても趣味が良い方法さね。削るんだよ、呪いを。呪いってのは、定着すると、身体の皮膚に現れる。刻印とも、黒印とも呼ぶねぇ。皮膚っつても、実際に定着してるのは魂にだがね。で、だ。定着すれば、それは全身に拡がる。それを、聖水で塗り込んでから、刻印を削るんだよ。この方法は、激烈で凄絶な痛みを伴う。それこそ、呪死した方がマシな程にねぇ。並みの精神力じゃあ、まず耐えられない。拷問が生ぬるく感じるだろうねぇ。
では、痛み止めの薬で耐えるのはどうでしょうか?
この馬鹿弟子がッ! 魂に定着してるって言ったろ!? 痛覚をなくしても無駄なんだよ! 痛みは魂に発生するから、痛み止めを飲んでも、訓練して痛みに慣れてる奴でも無理さね!
な、なるほど……だから、結局、馴染んだらどうしようもないんですね。
クク、そう言うこった。
だめだ、この情報だけでは、足りない……。もっと記憶を……。
十二歳の時。師匠の家にある魔術書を読んでいる時だ。その日はポカポカと暖かく、新緑が芽吹きはじめていた。古書の、少しかび臭いような、独特の匂いに包まれた一室。
師匠、この魔法……痛みを引き受ける、ってなんのためにあるんですか?
ああん? そりゃゴミだよ。全く! 高い金払って禁書を買ってみれば、くだらん魔術書だったよ! それはね、ノア。元々は主人が痛みから逃げるため、奴隷に使わせようと開発された、胸糞悪い魔法でねぇ。だけど、だけど、だ、ノア。これは、簡単に使える魔法じゃあ、ない。分かるだろ? その辺の奴隷が使えるわけがないっていうお粗末な顛末さ。笑えるだろう? 喜劇だねぇ。痛みを与える、に応用してみても結局は自傷だ。ゴミだね。ノア、それは世に流布して良いものじゃない。燃やしときな。欠片も残すんじゃないよ。
痛みを引き受ける魔法の使い方は、覚えている。
刻印を削る方法と、痛みを引き受ける魔法。この二つを使う。
現実に戻ってくる。記憶のサルベージは一瞬だった気もするし、何年もかけて思い出を辿っていたのかもしれない。時間の感覚が曖昧になっていた。
私は見つけてきた知識をもう一度頭の中で確認して、まとめて、膝をついてしゃがむ。ルナ様の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「ルナ様。私に、考えがあります」
師匠から聞いたことを余すことなく、全てを説明した。ルナ様は瞳を大きく開き、だけど、すぐに悲しげに俯いてしまう。
「で、でも、その方法じゃ……ノアさんが……」
「大丈夫です。私は、特殊な痛み止めを飲みますから」
もちろん嘘だ。そんなものあるはずがない。仮に存在し、服用したとしても、全く効果はないだろう。
しばらく見つめあって、少しの逡巡。ルナ様は決心したようにこくりと頷いた。
ルナ様の許可を得て、寝間着と下着を全て脱がし、一糸纏わない状態にした。
本来であれば美しい身体は、蛇が身体に巻きついたように黒い線が縦横無尽に這っている。お腹を中心として、首の近くまで。手首の近くまで。足首の近くまで刻印は伸びている。呪いの専門家ではないが、残された時間は、あまり多くないだろうと思えた。
聖水を全身へ丁寧に塗り込む。銀製のナイフを、人差し指から出した火で炙った。聖水瓶を予備として十本置く。
痛み止めと称した、ただの水をあおり、大きく息を吐き出して、目を瞑る。呼吸を整える。
私は、必ず、成し遂げてみせる。
「あ、あの。わたし、今、痛覚……失ってるから、その、痛みを引き受ける? 魔法は、使わなくても……大丈夫だと、思う……」
首を振ってルナ様の提案を却下する。身体の痛覚はなくても、魂が痛むのだ。
「お願い……。これは、わたしのことだから……ノアさんばかりに、負担を強いるのは、いやなの……」
「……わかりました。ほんの、ほんの少しだけ、削ってみます」
ルナ様に清潔なタオルを噛んでもらい、猿ぐつわのようにした。どれ程の痛みが発生するかは未知数だけど、舌を噛んでしまう可能性は高い。
ルナ様の右腕を起点に、刻印にナイフを、そっと当てる。
「んんんんんーーーーーーー!!?」
「ルナ様ッ!」
すぐにナイフをどけて、瞬時に痛みを引き受ける魔法を発動する。
目の前に、大きな火花が散った。
大量の針を腕に刺し、グリグリと動かされているような激しい痛み。痛覚が過敏になっているように、痛みが、増幅された痛みが全身を襲う。
飛んでしまいそうになる意識を歯を食いしばって、無理やり押さえつける。
「はぁ、はぁ、だめ……だよ。こんなの、絶対、無理、だよぉ……。ね、わたしのことは、もう、いいから……こんなこと、やめよ?」
……まだ、削っていない。少し、刃を当てただけで、心をへし折る痛みだった。
荒くなった息を深く吐き出して、呼吸を整える。
「大丈夫です、ルナ様。私、痛みの耐性があるので、これなら、作業を続けられます」
自分に暗示するように言い聞かせただけだった。
魂の痛みの耐性なんて、あるわけない。
痛い。嫌だ。こんなのやりたくない。無理だ。諦めよう。逃げよう。怖い。どうして私が。泣きたい。苦しい。止めよう。師匠助けて。
弱音は全て、飲み込んだ。
ナイフを、ルナ様の、肌に、あてがって。
削る。