ノアとルナ 6
私がルナ様のメイドに着任してから、七日になる。
屋敷を大掃除した以降、モヤモヤも悪魔も一切現れなくなった。全部排除できた、と言っていいのかもしれない。
私はルナ様の手となり足となるため、基本的な業務以外は、可能な限りずっとお側にいた。
ルナ様は……一日を経るごとに、身体の具合を悪くしている。
今では歩くだけでも私の補助が必要で、ほとんどの時間をベッドの上で過ごしている。
食事も残すことが多く、無理して食べれば、戻してしまう。みるみるうちに痩せていった。目の隈も初日よりも大きくなっていて、素人目からみても……危険な状態だ。
ルナ様の命の光が、少しずつ陰っていくようで……焦燥感が募る。
体調不良の原因を質問してみても、無言で、回答は得られない。焦りのあまり、食い下がってしつこく訊いたこともあったけれど……やはり、ルナ様は無言を貫いた。
せめて、お医者さんに看てもらおうと提案したが、首を振り続けた。一回だけ、強引に連れだそうと試みたけど、なにもするなと、強く命令を受けた。
私では、ルナ様の側にいることしかできない。何も、力になれない。
辛い修行を乗り越えて、力をつけたはずなのに……結局、無力ではないか。
ルナ様の状態で考えられるのは、何らかの病気だ。病気だと、私では、手の施しようがない。医学には明るくなく、ごく簡単な薬……外傷の塗り薬くらいしか作ることができない。内服薬など何の知識もない。医者に、頼るしか術がない。
一番考えたくないのは……呪いだろうか? 呪いは肌に刻印と呼ばれるものが浮き出て、呪いの状態が進行すると身体全体に拡がっていく。素肌を見ればがすぐに分かるが、ルナ様の肌を許可なく見るのは気が引ける。お風呂の手伝いも断られているし、常に肌を全て覆い隠すパジャマを着ている。確認などできない。
……呪い。
ふと考えてしまったが、呪いは、ない、はずだ。師匠から少し聞いたことがあり、呪いは確実に発動するということもなく、失敗すれば呪いをかけようとした人が呪われる。デメリットの方が多く、割に合わない。呪殺を達成するのにも何年もかかるし、それこそ、暗殺でもした方が手っ取り早い。
あり得ない。呪いは、あり得ない。
そもそも、知られている成功例も、そこまで多くない……。
でも……。確認は、一応、念のため、しておいた方が良いかもしれない。
そんなはず、ない。
内心で、浮かんだ最悪の事態をすぐに打ち消した。
呪いは、絶対に、ない。
ない、はずだ……。
何度も何度も自分に言い聞かせる。
ベッドで身体を起こしているルナ様を見た。
ルナ様は、ぼうっとしていることが増えた。心を、ここではない、別の所に、飛ばしているような……。
「ルナ様……」
「……。……。……なあに?」
虚ろな目で私を見上げた。人の熱を感じない無表情。それは病的に人形で、触れてしまえば壊れてしまいそうな程に儚い。
「ルナ様。……素肌を、少しだけ、見せてもらっても、良いでしょうか? お腹で、いいんです」
「……どうして?」
「その、私の考えすぎ、かもしれないのですが……確認したいことが……」
「……………………そっか。あなたなら、それを知ってるし、気づくよね。わたし、不自然な行動、多かったし……」
身体が浮わついた。自身の視点が一つ高くなり、俯瞰で部屋を見ているような感覚。もう、その先は、聞きたくなかった。
「わたし……」
ルナ様の暗い瞳に、理性の灯火がほんの少しきらめいて、ゆらゆらと揺れ動く。人形は崩れ、本来のルナ様が、顔を出す。
「わたし……は……っ」
ルナ様に罪はないはずなのに、それは、罪を告白するような、弱々しく、苦しい声で……。
「わたしはね……呪われているの。もう、刻印が、身体全体に、ひろがっているの……」
「ああ……」
天と地がひっくり返ったように、視界がぐるぐると目が回り、吐き気を催した。気が遠くなった。
刻印が身体全体を蝕むのは……。
呪いの、最終段階。
呪いの、成就目前。
そこまで進行してしまうと……もう……。
それだけはあって欲しくないと、きっと無意識に、目を背けていた。
観測しなければ、確定しない事実。
だから、ずっと、直視しなかった。
無駄な思考をめぐらせてきた。
遠回りしてきた。
サインは、たくさんあったのに。
そんなはずないって、知らないふりをして……。
約束された死から……目を背けた。
「だからね……見せたく、ないの」
「ごめん、ね」
「もうね……手遅れ、なんだって」
「どうしようも、ないんだって」
「……し、死ぬ、のを……待つ、だけ、なんだって……」
私は、泣いていた。奥歯を強く噛み締めて嗚咽を堪えるのが精一杯で、口を開くことができない。ルナ様の顔も直視できなくて、俯いた。
ルナ様はゆっくりと、まるで、残りのいのちを振り絞るように、言葉を紡ぐ。
「ねぇ、ノアさん……きいて?」
「あの、ね……? わたしね? 一面の、花畑を、みたかったの」
「それで、ね? そこで、走り回って……味のする、ご飯を、食べて」
「……きっと、お花の、甘い匂いが、いっぱい、するんだろうなぁ……」
「あと、ね……ヒマワリが、見たかったの」
「この国には、ないから……」
「太陽みたいな……」
「ねぇ……ノア、さん……」
「はい」
「わたしね」
「はい」
「恋を、してみたかったの」
「……」
「初恋も、まだで……」
「ぽかぽか、どきどき、するんだって……」
「そわそわ、するんだって……」
「すきなひとの、ことを、おもうと……」
「ねむれなく、なるんだって」
「すてきな、ものなんだって」
「じんせいの、たからものなんだって」
「ねぇ……ノアさん……」
「……ッ……はい」
「もっと、走りたかったなぁ、って……」
「もっと、笑いたかったなぁ、って……」
「もっと、もっと……」
「もっと……」
「生きて、いたかった、なぁ、って……」
「こんな、欲張りな、王女、だけど……」
「ノアさんが、わたしの、ことを、覚えていて、くれたら……」
「わたしは、産まれた意味が、あるって……」
「そう、思えるから……」
「ねぇ……ノアさん」
「最期に、わたしに、仕えて、くれて」
「ほんとうに、ありがとう、ね?」
「こんな……役を、押し付けて、しまって」
「ごめん、なさい……」
「こんな、こんな、つもりじゃ、なかったのに……」
「わたし、わたしが、よわくて……よわくてっ……!」
「ルナ、さま……」
ルナ様は嗚咽を堪えて……でも、耐えきれなくなったように、か細い声で……泣いた。
大粒の涙が頬を伝い、ポロポロと落ちていく。
私は、それを拭うこともできずに、震えていた。それが悲しみからくるものなのか、怒りからくるものなのか、絶望からくるものなのか、わからない。全てが混じっている気もするし、全然違うかもしれない。バラバラだ。心が引き裂かれたように自己の焦点を定めることができない。私は私なのか? 全く別の存在に成り果てているのか?
夢想する。私とルナ様が、ひまわりの咲く花畑で、笑顔で手を繋いで、他愛もない話題で盛り上がっている光景を。
羨望する。私はとルナ様が、一緒に歩き、一緒に走り、一緒に泣き、一緒に笑い、一緒に、生きることを。
絶望する。どうして、もっと早くルナ様のメイドになれなかったのか。呪いが進行する前に着任できていれば、打つ手はあったのに。
……私は、私は……。
こんな……結末……。
………………。
…………。
……。
あきらめたく、ない。
本当に、私は最大の努力をしたのか?
本当に、打つ手はないのか?
……己の命を賭す覚悟は、持っているのか?
魂を、燃やせ。
私の、初めて好きになったひとを救うために。
命を燃やせ!
こんな結末は、私は、絶対に認めない!
私は、私の全てをかけて。
運命を、変えてみせる。
常識から逸脱して、
結末をねじ曲げて、
完全な形で、
このひとを救ってみせる。
そのために。今。私は。
ここにいるんだ。