ノアとルナ 3
一階の扉を片っ端から開けてようやくキッチンを発見し、部屋の中を見て私は驚いた。厨房だけは、屋敷の惨状が嘘みたいに清潔で設備が整っていた。
調理器具は新品のようにピカピカに手入れされているし、塩、砂糖、胡椒などの貴重な調味料も塊になっていない。しかも全て満タンに補充されている。
前任者の心遣いだろうか、テーブルの上には仕入帳と共に簡素なマニュアルも置いてあった。仕入帳をパラパラとめくる。今貯蔵庫にある食材は三日前に補充したものらしい。日持ちするものを多めに仕入れたみたいだ。
ありがとうございます、前任者の方。次のコックさんが着任するまでの間、僭越ながら私がコックを兼任します。
……気になるのは……仕入帳やマニュアルに血痕がほんの少し付着していることなんだけど……きっと、多分、前任者のコックさんが不器用だったんだよね。いわゆるドジッコック。そう思いたい。いやコックさんが不器用って考えにくい気もするけど……うむむ。
さっそく貯蔵庫にある食材を確認してみたが、品質は問題ない。どれもこれも一級品だ。そして、さすが王族の屋敷というべきか、この貯蔵庫も魔法道具でできている。冷気を常に放ち続け、保存期間をのばす優れものだ。つまり冷蔵庫だ。庶民も購入できなくもないけど、物を買うのも維持するのもとんでもなく高い。
この貯蔵庫は冷気を放つ魔石を使っているタイプなのか、専門の陣を組んでいるのか……後で解明してみたい。魔法道具好きとしてこれはたまらない。
頭をブンブン振って趣味に走りそうになる心を自制する。今はとにかく、一刻でも早く料理を作成しなくては。ルナ様が最優先だ。
サンドウィッチのセットを作ると決めると、必要な食材を並べて、丁寧に、だけど急いで作る。
……。
察しの悪い私でも、何かが、ルナ様の身に、あるいは屋敷全体で起きているのはわかる。
それはきっと、使用人が全員辞めたことにつもながっているはずだ。
でも……ルナ様に、その原因を訊いていいのか、まだわからない。ズカズカと踏み込んで良いものなのか……。
デリケートな理由かもしれないし、ルナ様の心を抉ることになる案件かもしれない。慎重に、慎重にいくべきだ。
……今、私にできることは、気づかない振りをして、鈍感な振りをしてご奉仕するだけ! 仕事はしっかりとこなす駄メイドになればいいのだ!
ズズ……ズズズ……ズズ……
んん?
作業していた手を止める。
視界の端に映りこむ、違和感。
常識と非常識の境界線。
原因は、なんだ?
……。影?
そうだ……今、私の影、動かなかった? あと、ほんのわずかに、ともすれば聞き逃すような、妙な音がしたような……。
警戒レベルを一段階上げる。
だけど、準備の手を止まるわけにはいかない。そのまま違和感を放置して作業を進めた。
完成したサンドウィッチ、スープ、カットした果物の盛り合わせ、ミルクを近くにあったトレーに乗せる。最後に棚にあった銀製のドームカバーを被せて完成。このドームカバーだけでも目玉が飛び出そうな値段がしそうだ。
さて、落とさないように慎重に運ばないと……。
トレーを両手で持とうとした時、視界でモヤモヤとした、雲……黒い雲? みたいなものが蠢いていた。うっすらではあるが、目や口があるようにも見える。
なんだろうと警戒しながら注視してみると、その黒いモヤモヤの近くには包丁が浮いていた。その切っ先は、私に向いている。
「クケケケケケケ……」
そのモヤモヤは腹の底から絞り出したような低い声で笑うと、包丁を私の頭目掛けて投擲した。
頭のすぐ横を通り抜けるような軌道だったので刺さることはないが、壁にぶつかったら包丁が刃こぼれしてしまうので人差し指と中指で止めた。この攻撃はおそらく、牽制だろう。
「ク、クケ!?」
このモヤモヤは……確か、師匠と一緒にいた時、連れていかれた遺跡で見たことがある。師匠はこのモヤモヤをただの雑魚、有象無象、羽虫みたいなものと言っていたはずだ。
私はあまり強くないけど、師匠にそれはもう厳しく鍛えられたから、羽虫ぐらいは倒せる。文字通りの羽虫なら。
……でも師匠。これは絶対羽虫ではないと思います。
指パッチンをして、閉じられた極小さな空間に収納していた、自分で改造した長箒を召喚する。私の相棒で、長箒としても武器としても使える。これでも魔法道具だ。
長箒の先端、穂先をモヤモヤに向け、長箒を魔力でコーティング。青色に淡く輝く。師匠の友人の得意技である魔法剣の真似っこだ。
師匠曰く、私は戦士としては三流。てんで才能がないらしい。だから、師匠にとっては羽虫みたいなものに対しても全力でいかなければいけない!
両手でしっかりと長箒を握りしめる。モヤモヤに一歩踏み出して油断なく間合いを縮めて、周りにぶつけないように箒を、
「てーい!」
縦に一閃。剣術もへったくれもない。力任せに振り下ろしただけだ。
「クケェーーーー!?」
まだ初撃だったが、モヤモヤは雲散霧消。気配が完全に消えた。
良かった、私でも何とか対処できたみたいだ。
よし。この料理を早くルナ様に食べていただこう! スープの味付けが上手くいったので自信作だ。自信作ではあるけど……庶民の家庭料理が口に合えばいいな……。
トレーを持ってルナ様の寝室に急ぐ急ぐ! でも今度は走らないように廊下を歩く。はしたないもんね。
「ググケェェ……」
ん? また、何か横切った?
もしかして……同じ個体? いやいや……まさか、倒せてなかった?
とんだ赤っ恥である。師匠がこの場にいたら盛大に叱られていただろう。あんた、羽虫一匹始末できないのかい! って。
「グェェェェェ!」
モヤモヤは私の側面に現れ、人よりも遥かに大きな腕を形成すると、大きく振り上げ、今度は牽制ではなく、攻撃として、私に振り下ろす。
せっかく上手にできた夕飯を台無しにされては堪らないと、トレーの底を支えるように片手に持ちなおし、空いた右の掌で大きな拳を受け止めた。振動がトレーに伝わらないように必死である。
「グゲェ……?」
何だか困惑したような唸り声を上げたが、それは無視。受け流す要領で大きな腕を弾き、モヤモヤの態勢を崩す。右手を握りしめ、先程の長箒に込めた時よりも高密度の魔力を練り込み、右ストレート!
「グギャアアアアアアァァァ!」
断末魔みたいな声を上げて、消えていった。
今度こそ倒したかな……?
もし、このモヤモヤが違う個体なら……屋敷にはたくさん、これが潜んでいるのかもしれない。
後で全部退治しないと。
うん。でもまずは、料理を運ぼう。
私はルナ様の寝室に急いだ。