ノアとルナ 2
「みんな、辞めてしまった、ですか……?」
国の重鎮たる王族の住む屋敷で、使用人が全員辞める。そんなこと、あり得るのだろうか?
まだ全容を把握していないけどこの屋敷は大きい。ルナ様以外の王族が住んでいる本邸は、ここの屋敷の何倍も大きい……王城だけれど……この屋敷だって貴族の屋敷と同じくらいには大きい。屋敷を清潔に維持するためには、少なくとも十人の清掃専門のメイドが必要なのではないか。
防犯の問題もある。泥棒や狼藉者からこの屋敷を護るために護衛だって当然必要だ。他の職業……コックや庭師なども欠かせない。大きい屋敷は沢山の人が協力して、やっと維持できるのだ。放っておいたらたちまち廃屋になってしまう。
混乱する頭では何を言えばいいのか浮かばず、私は間抜けな顔をルナ様に向けることしかできなかった。ルナ様は私を一瞥して、興味を失ったように玄関ホールの大階段に身体を向けた。
ルナ様は手すりに寄っ掛かって苦しそうに階段を上がる。私は支えるために慌てて近づくけれど、身体を勝手に触れて良いかわからず、ためらってしまった。結局、ルナ様が階段から踏み外して転げ落ちないように真後ろから追従するしかなかった。なんて情けない駄メイドだろうか。
ルナ様は、今日だけ体調が悪いのだろうか。……それとも、何か病気を患っていてずっと身体を悪くしているのだろうか……。私は、メイドとして何ができるのか。何を求められているのか。
……今はまだ、何も、何もわからない。
それが、堪らなく悔しくて、泣きそうになる。私は、なんて無力なメイドなのか。
落ち込んでばかりはいられない。前向きに! 早く、一刻も早く、ルナ様に役立つメイドにならなくては!
長い時間をかけて階段を上りきると、廊下が広がっていた。馬車が二台すれ違えるスペースがある。少し進むと、右手側にルナ様の寝室があった。
ルナ様は自室の扉を開けると、私に目配せをしてから部屋に入った。……私も入っていいのかな?
恐る恐る扉をくぐると、女の子の甘い香りが私の肺を満たした。香水のような鼻をつく匂いではなくて、まろやかで、優しい匂い。きっと、ルナ様の香りだ。
ルナ様の寝室で、ルナ様の甘い匂いを吸い込むシチュエーション。
……普通なら狂喜乱舞していたけれど、私の心は全く弾まなかった。
今のルナ様のお加減をさしおいて、内心でも喜べるはずもない。
天蓋付きベッドの近くには古い装丁の本が乱雑に積まれていた。タイトルを流しみるが、テーマはバラバラで、そこに関連はない。館にある本を片っ端から読んでいるのかもしれない。
タンスの近くには、服や下着を畳むのが面倒なのか、くしゃみくしゃにして放り出されていた。特に目立つのは複数のパジャマだ。カラフルな彩りが床を覆い隠している。
使用人も……誰もいない状態で、しかも身体を悪くしているのだから、仕方ないと思う。だからこそ、ここは私のようなメイドが部屋の清掃をするべきで……。
「ここが、わたしの部屋。みての通り汚いけれど、掃除しなくていいからね」
……拒絶。それだけ私に伝えると、すぐに部屋を出てしまった。
当たり前だけど、今日来たばかりの、得たいも知れないメイドに自室を任せることに抵抗があるのだろう。
次に向かったのは、ルナ様の寝室の対面にある部屋だった。そこの扉を開き、
「ここがあなたの部屋」
ルナ様は淡々と事務的に告げた。私は跳び跳ねるように驚いてしまい、はしたない自身の振る舞いに赤面することとなった。
ええっ! いきなりルナ様の部屋近く!? そこはメイドでも身分が高い人とか、ルナ様が信用しているメイドでは!?
「本来、この屋敷では住み込みなんてやってないのだけど」
「そう、なんですか?」
「ええ。きっと、これが最後だろうから。エバンスもきっとそのつもりで……」
エバンス……面接した執事長か。それにしても、最後とは……どういう意味で最後なのだろう?
「こんなんじゃ案内とは言えないけれど……ごめんね、これで終わり。あとは自由にして」
ルナ様は投げやりに言葉を締めると、踵を返した。
自室にあてがわれた部屋の中をろくに確認しないまま荷物を部屋に置いて、ルナ様をドタドタと追いかける。
「? どうしたの? さっきも言ったけれど、案内はもう終わったから後は自由でいいよ?」
「私はルナ様専属のメイドです。ルナ様のお世話を……」
「ああ、わたし専属……。……。エバンスにそう言われたのかもだけど、無理にわたしの世話をしなくてもいいよ。私の側にあんまりいたくないでしょ?」
「そんなはずありません! ルナ様付きのメイドは私自ら志願したんです!」
「……」
ルナ様は少しだけ考える素振りをみせて、ため息を吐いて、かぶりを振った。
「まぁ、……あなたの好きに仕事して構わないよ。……どうせ、あなたもすぐに……」
何もかも諦めたような暗い瞳が私の身をすくめ、口から出かかっていた言葉を失った。
一体、何があれば、そんな絶望した瞳に……。
……。
私は、何ができるか、全く分からないけれど。
……まずは、日常。つまり、夕飯の用意だ。
「ルナ様、誰もいないということは、コックさんもいないのですよね? お食事は……」
「ご飯か……。……いらないかな」
「えと、もうお食事に……なられたのですか?」
「食べてないけど、いらない」
「それはいけません! きちんと食事しないと……! 私、作ってきます!」
ルナ様に一礼して、キッチンを探すために慌てて屋敷を走り回る。
……今は暖かい季節のはずだけれど。
この屋敷は、少しだけ、寒い。それは、夜の空気だけではないような……。
そんな気がした。