ノアとルナ 1
ノアとルナ 1
王族の住居に相応しい大きな屋敷を見上げると、今日は満月だったことに今さらながら気づいた。宝石箱をひっくり返したように星が瞬き、雲一つない夜空を照らしている。
何故メイドという職業で初出勤が夜なのかと言えば、ルナ様の屋敷に行くのは太陽が完全に沈んでからにしろと本邸の執事長に厳命された結果である。理由までは訊いていない。下っ端のメイドが口答えするのは慎むべきだろうし。言われた通りに動くだけだ。
屋敷は闇の帳に包まれ、その外観は輪郭しか分からない。窓明かりは所々こぼれているが、不規則であり、その数は少ない。はて、太陽は完全に沈んだとは言えど、まだ夜は深くない。眠るには早い時間だと思うのだけど……。
手に持ったランタンの明かりを頼りに、門扉の横に備えられたボタンを探し、見つける。住み込みのために持ってきた大きな鞄を地面に置いて、チャイムのボタンをえいやっと押す。私のいる場所からでは何も聴こえないが、屋敷内では来客を知らせる音が鳴ったはずである。
前世で言うところの、玄関チャイムだ。この世界では魔法道具の一つに分類されている。ボタンと連動して屋敷に来館を知らせるベルが鳴る仕組みをわざわざ魔法で構成しているため、非常に高価だ。貴族や王族などの大きな屋敷にしか設置できない。
緊張のせいで時間が引き伸ばされたように感じているのか分からないが、そわそわと待っていても誰も姿をみせない。つい癖で長いもみ上げを指でくるくるしてしまう。慌ててそれを止めて、ピシッと背筋を伸ばして行儀良く待機する。
やがて。
ぎぃ、と。
緩慢に、無音の世界を切り裂くようにわずかな音を立て、豪奢な玄関ドアが開いた。
出迎えはメイド長かな? 執事かな? そんな予想を緊張を紛らわすようにしたが、ゆっくりと姿を見せたのは、思い出よりずっとずっと大きくなった、ルナ様だった。
何故使用人じゃなくてルナ様が? と疑問がよぎったが、ルナ様が目の前にいる喜びが、恋心がふつふつと沸騰してどうでも良くなってしまった。
ああああああああ! ルナ様だぁ! 妄想じゃなくて、本物のルナ様! 夢にまでみたルナ様たん! テンション上がってきたよーーーー!
ゆっくりと、ゆっくりと、一歩一歩、慎重に脚を進めるルナ様は、月明かりに照らされて、心を惑わせるような妖艶さがあった。
幼少の頃から変わらない、腰まで伸びる長い銀色の髪。紅い二つの瞳はそこが光源かのように揺らめき、この闇の中でもハッキリと輝いていて、視線で私の身体を突き刺す。
黒を主体とした豪奢なドレスは袖もスカート丈も異様に長く、素肌を外界から完全に遮断している。
……?
門越しに見るルナ様が近づく度に、首を傾げたくなった。
ルナ様から、生気を感じられない。
紅い瞳は虚ろで充血している。
顔色が悪く、真っ青だ。
目の下には隈がくっきりと浮かんでいる。
…………ありゃ、もしかして寝不足かな? 公務で忙しかったとか?
ルナ様は長い時間をかけて門までたどり着くと、鍵を開けて、門を開いた。
色んな疑問は尽きないが、考えるのは後だ。
まずは、第一印象を良くしないと!
「はじめまして! 私はノアと申します! 本日からルナ様付きの専属メイドに着任します! どうぞよろしくお願いします!」
高速で荷物を置いて、頭を深く深く下げた。感極まって涙が少し出てきた。
「……。はじめまして。わたしは、ルナ・クラルス=リザリオ。今日だけ……ううん。今日から、よろしくね。屋敷を案内するから、ついてきて」
今にも消えてしまいそうなか細い声にびっくりして顔を上げると、彼女はにこりともしていなかった。目が虚ろな真顔である。
これはいけない……なにか……いきなりなにか、粗相を……?
自分の立つ地面がゆらゆらと揺れて、血の気がひく感覚。こんな所で倒れている暇なんてない。気合いを入れて心を叱咤した。
ルナ様は踵を返すと、屋敷にゆっくりと戻りはじめた。慌てて敷地内に入ると、門の鍵を施錠、荷物を持って追いかける。色んな戸惑いを口から出ないように心に押し込んで、ルナ様の歩幅に合わせて進む。
屋敷の主人が直々に案内? それは使用人の怠慢になるのでは……? メイド長か執事、せめて他のメイドはいないのだろうか? 本邸で面接した時の執事長は何にも言ってなかったけれど……。
開きっぱなしだった玄関のドアをくぐり、門と同じように私が施錠。まだ案内されてる段階だけど、勝手にやっていいんだよね? もうメイド業務はじまってるよね?
玄関ホールを見渡すと、そこは薄暗かった。魔法道具の室内灯は所々暗くなっているし、明かりがついていても、魔力がもう少ないのか、光が弱々しい。
赤色の絨毯も長い間掃除していないのか、埃が積もって変色している。端っこの方は歩けば足跡がついてしまいそうだ。かと思えば、部分的に清掃して綺麗になっている箇所もあった。そこに法則はない。ちぐはぐだ。清掃している使用人が下手なだけ……?
そんなことあるはずないけれど……まるで……誰も住んでいない屋敷のようだ。
人の気配も、私とルナ様以外に、ない。屋敷は、足音の一つもなく、生活音もなく、不気味な程に静まりかえっていた。
「あの、ルナ様。質問……しても、宜しいでしょうか?」
「……どうぞ」
「他の、使用人の姿が、その。……見えませんが……」
「他の使用人なら」
言葉を区切り、瞳を閉じた。
「みんな辞めてしまったわ」