ノアとルナ 9
暗闇だった。
何もない。心配事も、叶えたい事も、苦しい事も、嬉しい事も。
何も見えない。先にある未来も、通りすぎた過去も、そばにある今も。
身体は水中でたゆたうように、安寧のゆりかごに身を任せている。
不快ではない。久しく味わっていなかった……微睡み。いつまでもこの虚無で、何も考えず、重力から解放されたこの暗闇で、何もせず、ただ……。
……。私は。
私は、起きなくちゃ。私は何もわからないけれど、どうしてか、起きなくちゃと、駆り立てられる。
私を形成する、原初の火種。それが燃えている。その炎は、意志。意志が生まれたからか、ゆりかごは壊れ、暗闇に亀裂が走る。その先に、私は行きたい。まだ、ここで眠りたくない。
……意識が、浮上する。
目覚めると、重たい倦怠感が身体を支配していた。いつぶりだろうか、寝起きで頭が働かないのは。
ぼやけていた景色は少しずつ焦点が合い、誰かの……違う。ルナ様の顔が鮮明になる。
「ノアさんっ!」
ルナ様は飛び込むように私に抱きついたた
たたたたたた!?
えっ、なにこれ!? 夢!? 私、まだ寝てる!? 起きながらにして夢を!?
この世界で一番いい香りで、一番柔らかい感触。ルナ様の呼吸が聞こえるような距離で、私の幸福度は目を開いてからいきなり頂点だった。もうこれで人生が終わって目を閉じても良いぐらいである。
あ、ここは夢じゃくて天国でしたか!?
いつまでもこの抱擁に包まれていたいけど、状況を把握したいので上体を起こして、ルナ様をそっと引き剥がす。あ、やっぱりもうちょっとだけ堪能したかった。後の祭りである。
「よかった、目覚めてくれて……」
慈愛の眼差しで私を見つめる姿は、聖母のようだ。私も笑顔になる。笑顔で笑顔が生まれる永久機関が誕生した。
少しずつ頭が働いてくる。そうだ、呪いは……どうなったのだろう。刻印を削っている時の記憶は途切れ途切れにしかないけど、確かに、私は、削りきった。その事実だけは間違いなく覚えている。
「ルナ様、お身体の加減はいかがですか?」
「味覚も視覚も嗅覚も触覚も戻ってるし、刻印も全部なくなってる! 身体も軽いし太陽の中でも普通に歩ける! 体力はまだちょっと落ちてるけど、元気だよ!」
ルナ様は椅子から立ち上がり、両手を広げて屈託のない笑顔だったが、想像を絶する回答に一瞬時が止まる。呪いは苦しんでから死ぬと聞いていたが……。
元気な姿をこの目で確認できて、解呪に成功したんだなと実感が湧く。
本当に、良かった。
「ノア様」
ルナ様は一転、王族が公務でみせるような精悍な顔へと変え、気品のある佇まいで、可憐な女の子から強かな淑女へと口調を変えた。
「ノア様は、わたしの命の恩人です。このご恩は、生涯、心に刻みます。貴女の勇気に、貴女の奮励に、厚く御礼申し上げます」
世の淑女全員が羨むような流麗な動作で、ルナ様は深く深く頭を下げる。私は突然のことにみっともなく慌てて、わたわたとした。
「あ、頭を上げてください! わ、私は、そう! メイドです! メイドで、メイドですから、メイドなんです!」
混乱のあまり、メイドしか連呼できないくらいに語彙力が低下した。淑女からもっともかけ離れている対応と言っても過言ではない。
私がアホなことを叫んでいてもルナ様は頭を深く下げたまま動かない。
メイドに頭を下げる王族など前代未聞だろう。もしこの場面を王が見たら私は断頭台行き待ったなしだ。
私がわめいてもルナ様の頭は動かないので、次の動きを無言で待つことにした。そわそわとして落ち着かない。みぞおち付近がとてもむず痒い。
ルナ様が顔を上げて、やっと居心地の悪い空間が過ぎ去った。目と目が合う。ルナ様が微笑むと、何だか気恥ずかしくなり、そっぽを向いて、誤魔化してしまう。
「と、ところで! 私ってどれくらい寝てましたか?」
「えっとね、丸一日寝ていたよ。ノアさん、身体、大丈夫?」
元の口調に戻ったことに安堵し、身体を確かめる。全て問題なし。喉が少し痛むくらいか。
「はい、どこも問題ないです。今すぐにでも業務に戻れます」
「もうっ、こんな時も仕事ばかり考えてっ!」
「あはは。私はメイドですから」
丸一日寝ていたとのことなので、仕事が溜まっているだろう。早く日常業務を……。
丸一日!?
「あ! ルナ様! 申し訳ございません! ご飯! じゃくてお食事! お食事を用意いたします!」
「もう、ほんと、あなたは……。大丈夫だよ、わたしにまかせてっ! ノアさんはゆっくりしててよ!」
「いえ、お食事の用意はメイドの……」
「いいの! ……。ちょっと待って……。……ごめんなさい、やっぱり、作ってもらって、いい?」
「もちろんです!」
「それでね、初めて作ってくれた料理……サンドウィッチのセットを、お願いしてもいい?」
「はい!」
ベッドから降りると、自分の服装がルナ様の寝間着だったことにようやく気づいた。ルナ様の……寝間着。顔がかぁっと熱くなる。
「あ!? こ、これ、ルナ様の寝間着!? 申し訳ございません! 洗って返しますー!」
しかもここはルナ様の寝室であり、寝ていたのはルナ様のベッドだった。あああああ私は常時ルナ様に包まれていた!? 耐えきれなくなって逃げるように退出した。
手早く予備のメイド服に着替えて料理を用意。身体の倦怠感も全てなくなり、いつも通りのパフォーマンスを発揮できている。私は身体の回復力と魔法道具作成だけは自信がある。
鼻唄交じりに料理が完成。今日のスープも自信作だ。お食事を持ってルナ様のドアをノック。すぐに扉が開いた。
「ノアさん、今日からわたしの部屋に入るときは、ノックしなくていいよ」
「えっ? し、しかし……」
「いいの! いつでも勝手に入っていいからね」
メイドとしてそれは許されるのだろうか。主人が許可を出しているなら大丈夫なのかな? そういうことにしよう。信用された感じがして嬉しい。
テーブルの前には椅子が対面になるように二つ用意されていた。はて? 疑問は脇に置いて、とりあえず食事の準備をする。
「あ、そっか、一食分しかないのか。ノアさん、ノアさんの分もここに持ってきて、一緒に食べよ?」
「ルナ様、主人とメイドが一緒に食事するのは……」
「いいの! わたしとノアさんだけのルールだから! 今からね! そう決めた!」
そうなった。
憧れの人と対面で食事。照れる。いつもは何も意識せずに食事をしているのに、自分の食べ方が妙に気になって、はしたなくならないように口を小さくして食べる。
ルナ様はスープを綺麗な所作で食べている。食事一つにしても育ちというものは明確に滲み出るものだ。私のような町娘とは一線を画している。
「ノアさん」
「はい、ルナ様」
「このスープ、とっても美味しい!」
「……はい! ありがとうございます!」
「ね、ね、このスープはどうやって作ったの? 誰かに教えてもらったの? それともノアさん考案のレシピ?」
「このスープは母から教わったのです。作り方は……」
友人のような、気軽な日常会話。
身分という要素を除けば、世界でもありふれた、なんてことない一幕。
それは、何も、ないからこそ成り立つ、幸せ。
ルナ様に呪いを使った不届き者……いや、排除すべき存在は必ずどこかで息を潜めている。わざわざ苦しむ方法を使ったことから、王族、もしくはルナ様個人に恨みを持つ者の犯行が濃厚だろう。
今はまだ全く犯人像を絞りこむことができないが、情報を集めて、呪術者、依頼した人物を洗い出し、相応の報いを受けさせる。
全てを解明するまでは、ルナ様の家族である王族、その関係者全てを信用してはならない。
この手を汚すことに、躊躇いはない。
でも……今は。
今だけは。
この日だまりみたいに優しい平穏に、包まれていたい。